二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

一区切り

2018-03-11 21:12:15 | 徒然に想う

これまで誰にも話してないことがあります。高知での生活はそれを風化させてしまいそうです。でも、風化させるべきことでないので、一つの区切りとしてここに記録しておこうと思います。

学生時代の街、仙台。そこには毎週通ったコーヒー屋さんがあって、そこでコーヒーを飲みたくなります。でも、行けません。街の東側、海岸が広がっていて、そんな一つに後輩たちと馬鹿なことをした思い出深い荒浜って場所があります。そこに行きたくなります。でも、行けません。

高知に来て、あるコーヒー屋さんと出会い、彼のコーヒーを楽しんでいくうち、ちょっと変わってきました。コーヒーは機会あれば飲みに行けそうです。でも、荒浜は・・・。例えば、車に乗っていて橋の上で止まったとき揺れると、地震を思い出します。もう怖くて仕方ありません。そして、どうしても荒浜を思い出し、「行ってみるか?」と問うてみるのです。答えはいつも「止めとこ」。

7年前の3月111426分、東京湾を望む高層ビルの一室におりました。デスクの書類やディスプレが左右に揺れ、床に飛んでいきました。避難放送が入り、同僚たちと冗談言いながら避難階段を下りました。避難場所、対岸から立ち上る黒煙を見ました。余震、オフィス棟が隣の居住棟が揺れぶつかりそうでぶつからない。避難場所を移動。流れ解散。大好きなお店に様子を見に立ち寄った時、津波の映像。海岸の街々がのまれていきました。そして、帰宅難民。

「つなぐものがあるかないか」がキーなんじゃないろか。コーヒーは味わいや香りで学生時代(昔)と今をつないでくれます。だから、出かけてもいいような気になります。でも、風景はそうはいかない。今の荒浜を映像で見ることはできます。でも、これどこって感覚です。荒浜も、ゆっくり変わったならば、よかった。でも、津波じゃ、そういかなかった。津波がもたらした風景の変化があまりにも劇的すぎて、それこそ、なにが起きたか理解不能(あの日、実は高知に来てから気付いたのですが、感情や感覚が動いた記憶がありません。冷静なわりにパニック、何が起きたのか把握してなかったと思います)。完全に、昔と今をつなぐものを、私は見失っています。昔と今をつなげない。だから、今を目の前にしたところで何になるのでしょう、受け入れられるはずがないのです。無駄な努力ほどむなしいことはありませんから。コーヒーは行けても荒浜は行けない、こういうことではないかと思うのです。

 

 

今日の一枚:足元にひっそり咲いておりました。3月10日撮影。