二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

いったい、なんのため? 

2017-03-29 20:00:42 | 徒然に想う

先日ネットで野菜の販売に関し先達たちがどんな表現されているか検索してて、愕然としてしまった。農「業」、「なりわい」だから、売るために何をどう言おうと虚偽や間際らしいことを言わない限りおとがめはあるまい、何を言おうと自由。例えば、自分の野菜作りにラベルを付けるとしてみよう。有機農法、自然農法、慣行農法とか思い浮かぶ。

何が愕然としたかって、これらのラベルは自分のやり方を説明するには意味はある。が、そのラベルを付けたことで、出来上がった作物に優劣などありもしないのに、さも「私」の農法(自然農法と書いてあった。自然栽培じゃないですよ)に則った「私」の作物は優れていると言わんばかりの表現が並んでたからだ。しかも、それを「私」の会員様方が殺到し、会員でない場合、なかなか購入できん。買いたければ、会員になりんさいと暗に仄めかしてさえいる。

ある方が教えてくださった(もしかしたら真意とずれてるかも)のだが、「はやし」と「もり」の違い。もともと自然にあるのは「もり」、そこに人が手を入れると「はやし」になる。「はやし」っぱなし(放ったらかし)にしておけば、いずれは「やぶ」になる。耕作放棄地を思い浮かべてみよう。ずっと昔は自然の土地だった。人が来て、畑や田やだと手を入れた。時が過ぎ、高齢でよう作らん、街にでるとかで、手を入れなくなった。「もり」が「はやし」に、そして「やぶ」に・・・。

ところが、当該サイトの圃場の映像と説明をよく見れば、書いてることと映像が支離滅裂。というか、ホッタラカシトいうことと自然はまったく違うのに、この二つが混同されている。好意的に言えば、ホッタラカシの状態を野菜たちが受け入れたにすぎない。だのに、自分の農法での野菜は他と比べてと、その優劣を言及される。そもそも、自然の中(どんな圃場だって自然の中に置かれてる)では優劣なぞ存在しない。ハッキリ言っておくが、弱肉強食という言葉ですら決して優劣のことは指してない、あくまでも自然界のシステムを表現してるに過ぎない。なのに、「自然農法」をうたいながら、優劣に言及する? 一体どういうこと? あれぇ、やっぱぁ、希少性に付け入ってぇ、お金儲けですかぁ。自分の農法も確立してないのに、すみませんねぇ。



今日の一枚:今年、ほんと最後収穫したブンタン。樹で熟成したもの。明日朝いただきます。お昼を食べに帰るとき12時頃。


手のことを書こう

2017-03-13 18:41:37 | 徒然に想う

美しい手を見た。買い物をしてお釣りを受けとるとき。水仕事で、赤く腫れている。手荒れがひどい、ボロボロ。指先には二か所バンドエイドが所巻かれ、きっとパックリ割れてる。決して、ほっそりと白魚のような指じゃない。でも、自信あふれる手、働く手。

爺ちゃんの手を覚えてる。細くて、筋張って、すべすべ。血管だろか、青い。ピカソの青の時代の人物のように青かった。力もない。でも、親や婆ちゃんに名前を言ってみろと言われ言うてみれば、暖かく握り返してくれた。弱々しかったが暖かい手。

授業か何かでフォークダンスなんてやらされると、手を握るなんて。ちょこんとお互いにつまむような組み手。何かを交わすようしっかり握りしめた手も。なんど形式的な握手を繰り返したろう、正直なのか正直かないのかまったく分からない数々の手。でも、手の印象の強い人は記憶の中で強く残っている。 

手は顔ほどに物語るんだね、今さらじゃないが。自分の手に目を落とせば、なんだか良く解らない手をしている。この手は何を表現してるだろ。強い印象を残せるような手だろうか。早くそんな手になりたい。



今日の一枚:鎌井田(仁ノ滝)産の文旦がジャムになって、このクッキーとコラボしている。マーマレードのように皮まで使っていただけ、ブンタンの苦味がじつに生き、まっこと美味しい。ちょっと大人のクッキー f^^このクッキー、じつは文中の「美しい手」の持ち主さんが作ってる。生では味わえない面までも引き出してくださって、ありがとうございます。