二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

国際感覚

2015-01-31 10:27:23 | 徒然に想う

久しぶりというか、いつぶりだろう、すきだなぁと思えるWebの記事を読んだのは。昨日掲載された邦人人質事件に関する報道についてのコメント。多くの論調が論調だけに、こう書けば逆に受けるかもと目論んでいたのなら庵主の至らないところであるが、論者の並行バランスというか、なかなかだと思わされる。

現代ビジネス 1月30日(金)6時2分配信、「イスラム国人質事件を、日本がヨルダンを「巻き込んでしまった」という視点で見てみると…」と題されているもの、だ。人質の運命に焦点が当たるのは当然なのだが、もう1つ大事な視点が失われているのではないか。それは「日本はヨルダンに大変な迷惑をかけている」いうことだ、と指摘する。

  1. 邦人解放をめぐる交渉に先立って、ヨルダンはパイロットの解放交渉をしていた
  2. そこに、イスラム国側が邦人の解放をヨルダンが拘束している女性死刑囚の釈放と引き換えにする条件を出す。パイロットの扱いが2の次に。
  3. それどころか、29日未明に公表された音声によれば、パイロットの命は解放どころか、邦人と死刑囚の取引促進材料に使われはじめた。

ヨルダンにしてみれば、邦人の命を救うために、自分たちが犠牲を払って拘束した死刑囚を釈放しなければならないどころか、もっとも肝心なパイロットの運命がはっきりしないのは、とても受け入れがたいだろう。

そこで、論者は、「私たちは邦人の運命を心配するあまり、ヨルダンの置かれた立場への配慮が不足していないか」と反省を促し、「そんな姿勢が行き過ぎると、どうなるか。「日本人の安全さえ守られれば、他国の人はどうなってもいい」という身勝手な主張と紙一重になるのだ」と主張。そして、

相手の立場を考えられないようでは、日本はとても国際社会で尊敬されるような国にはなりえない。今回の事件は、日本と日本人が苦しいときにどれだけ周囲を考え、毅然としてふるまえるか、品性が問われる分水嶺である。

と結論付ける。

別な時のことであったと思う。日本の報道は海外で事故や事件が起きると「日本人の被害・犠牲はありませんでした」と必ず「日本人」のことを言う。それはもちろん関心事としてトップになる。だが、そこで終わってしまって、その当事者や国などに関する配慮が見受けられないとの指摘を読んだことがある。そういわれればそうだと思ったものだが、このコメントを読んで日本の報道は確かにその通りだと納得。まさに、騒ぎ立てるだけで、そのスタンスには国際的な視点に立って何を主張したいのか全く含まれない。

いろいろな物事が国際化しているなか、報道のスタンスも変わっていかなければ、報道されるもので情報を得ているこちら側はどうすべきなんだろう。鵜呑みにせず、CNNやBBC等の海外媒体を読みにいく。これが庵主の結論になり…。でも、英語、苦手なんだよなぁ、どうしよう。

 

今日の一枚:昨日の雪がこんな美しい演出をしてくれた。神社と棲んでいるところの中間あたり、7時頃。

もう一枚:今年見かけた梅の一番花。神社近く、JRの高架の下で、7時前。


気になること

2015-01-30 11:53:11 | 徒然に想う

本格的に雪が降り積む。朝より激しさを増しているよう。予報で都内で5センチ。これはと思い、夜明け前ワイパーを上げに駐車場向う。その時はまだ粉雪が舞う程度。ただ、降ったりやんだりを繰り返したのか、ボンネットに1センチにいかないくらいで積もり、畑がうっすらと白くなっていた。それがどうだ、今窓からのぞき見れば、歩道や車道の上も白いところがある。

新電力への切り替えが進んでいる。去年の実績で、原発3基分の電力が大手電力から新電力へとなったんだとか。背景は火力発電の燃料費が膨らんだため、大手電力は企業向けの電力料金を約3割値上げした。これに対し、新電力の料金は大手電力より数%安いからだという。さらに来年には電力の小売りが自由化され、さらに新電力が増えるだろうとのこと。原発に依存したい大手ではまた料金を上げようとしているから、さらに大手離れが進み、原発はいらなくなる。

面白い話を聞いた。駅の開発というのは、駅ビルを建て商業施設を誘致してということだけではないらしい。もちろんそんな目先ばかりの開発を考える世代もいる。ただ、十年先とか長いスタンスに立ち文化施設やその他の社会的なインフラを含め考える若い世代が出始めているのだそうだ。イロコイ族の言葉に「どんなことでも、七代先まで考えて決めなければならない」というのがある。七代というと、百年、二百年先。駅開発には、そもそも交通手段が変わって、そんな先は読めないだろうが、目先では十分じゃないってことだ。

では、電力の世界はどうなんだろう。既得権益と原発にこだわりすぎじゃないんだろうか。大手の中でなされているかもしれない代価エネルギーの議論が聞こえてきてもいい。太陽しかり、波もある。大規模なダムを作るまでもなく、水車のような小さな水力発電(実際四国を歩いているとき、熱く語るおんちゃんに出会ったことがある)もある。大手の将来がどうなろうとかまわないが、長いスパンで物事を考えなければなるまい。

長いスパンで考える際、新しいことばかりじゃない。消滅させてはならない物も沢山ある。その存続性についても考えるべきだろう。我々は未来の子供たちから今を託されているだけ。彼らが知らないなんてことになってはならない。新しいものにいくか、絶やさないところにいくか、それが「どうしたいか」だ。

どれくらい積もるのだろう。予報では、去年のような大雪にならないが、この時間には霙になっているはず…。相変わらず、雪。心配事はいろんなところにある。

≪雪や降る 遥かかの地に 想い寄す≫

 

 

今日の一枚:北のべランダに置いてある朝顔のプランターの様子。8時過ぎ。


食事中のこと

2015-01-29 11:16:13 | 徒然に想う

夕飯を食べていた時、ケーブルTVのチャンネルをカチャカチャ回していたら、懐かしいスクリーン。ドリフターズの再放送をしていた。今やったらそれこそ「モンスター」達が出てきて叩き潰すにちがいないようなドタバタ、つい見いってしまった。何がいいって、当時のアイドル達をいじり倒す。とにかくいじり倒す。アッコでさえお茶の間の笑いネタに変えてしまう。こんな二人も出てきた。

それに加え、ドリフターズ達の体を張る真剣さ。今のようにただ雛壇にすわりしゃべりだけで済まそうと見える笑いとは異次元。懐古主義なんて言われようが、彼らのほうがずっと面白い。

昼のラーメンをすすりながら、Webを見ていた時、「シェールつぶし」という言葉(THE PAGE 2015/1/28 11:39)を見かけた。OPECがそんな戦略を採っているというのだ。読み進めると、ある意味、都市伝説的な内容。原油の価格がとにかく安くなっている。背景として考えられるのが、世界的な経済停滞で原油の「供給過剰」。これに昨年のOPEC総会での価格下落を容認したとして、下落を続けているとか。では、なぜOPECは容認したのか、である。アメリカでシェール革命が起こり、以前のような中東依存が減少。このため、原油の市場シェアを失うことを恐れたサウジアラビアが、1バレルあたり50ドルから80ドルとされるシェールオイルの生産コストを下回る水準に原油価格を誘導、採算割れで生産を成り立たなくさせるという戦略を採っている、というのだ。サウジアラビアは決してそうだなんて言わないだろう。ただそう説明されると、そのような気になってくる。

2008年の9月タスマニアでWWOOFしていた時、リーマンブラザースが潰れたことに関し、夕飯を食べながらみんなで議論。そんな中、一つの都市伝説が飛び出した。リーマンを救済しようとメリルリンチなどが動いていた。もし政府が公的資金のリーマンへの注入をすれば、単体ではリーマンを買収できるほど体力がないメリルなどでも救えたという。ところが、公的資金は注入されなかった、結果、連鎖的な金融危機へと。注目すべき点は、当時の米財務省やFRBの上層部にいたのはゴールドマンサックス出身者たちという点。これはロスチャイルド家の系列を組む。一方、メリルはロックフェラー家の流れ。つまり、ロスチャイルドvsロックフェラーという伝説の代理戦争の結果だというのだ。そのような気にさせられ、面白いことを考えると感心したものだ。

ここまでまとめてきて、ふと悩んでしまった。う~ん、食事をしている時、TVやWebじゃ味気ない、つまらん…。大勢であれやこれやと話しながらの方がずっといいよなぁ。

 

 

今日の一枚:差し込む朝陽に自転車の置物の影、今朝8時頃リビングにて。ちなみに本文中の写真は、左が小泉京子、右が松田聖子。分かりました?

 

 

 


週間天気予報

2015-01-28 18:04:50 | 徒然に想う

朝四時半からのNHKのニュースの天気予報をしっかり見るようになって久しい。畑に出るようになってからのことだが、その日の作業や週間での作業の目論見を立てるのに重宝させてもらっている。それに、明らかにミーハーなんだが、気象予報士の渡辺さんが何とも…。ただ、週間予報のところにくるとどうも気になることがある。

その日の予報は西から東へと地域が変わりながら説明してくれる。天気は西から変わるから、例えば大坂の朝の雨の予想が、昼の名古屋、夕方の東京となるであろうと想像しながら見れる。それが違えば、なんでかと説明に耳をそば立てる。ところが週間予報になると、北海道から始まり沖縄へとなる。これが解せないのだ。なぜ当日の予報のように西から東へと説明してくれない? 

ニュースの他の枠、例えばスポーツ。野球シーズンにはセリーグ、パリーグと結果を言う日の翌日はパリーグ、セリーグという順番。偏りがないようにとのことらしい。いかにもNHKらしい。これが文化としてあるだろうから、天気予報の枠でもこの原理が働く。だから当日の予報が西から東とやったのだから、週間の予報は東から西へとするのではないかと想像される。ただ、天気予報だけは例外にしてほしい。

こういうことだ。今の順番でいけば、北海道で来週土曜日に雨の予報。すると、金曜日に東北が雨で、木曜日に東京が雨。火曜日に大阪、月曜に沖縄で雨、って移ろいを遡るだけ。正直、東京が出てきた瞬間にあとはどうでもよくなってしまう。もし、沖縄から始まるとすれば、沖縄の週間予報全体を頭に入れ、それを徐々に西にシフトさせながら聞けば、変化も分かりやすい。しかも週間に入らないところすらも、自分の予報に加えることができる。北海道に至っては約2週間ほどにもわたることになるってもんだ。ずっとすっと週間予報の使い道が広がるし、より真剣に予報を聞くことになるじゃないだろか。

 

 

 

今日の一枚:ある日の昼食。左の皿の緑色はバジルソースと乾燥トマトのオリーブオイル漬け。右の皿にはフライパンで焼いたパンとビーツのピクルス。そう、バジルもトマトも小麦もビーツも去年畑で採れたもの。ちょっと滲んでいるように見えるのは、パンが焼き立て。その湯気がレンズについてしまった。


序章 その5

2015-01-25 21:40:27 | 徒然に想う

NHKで技術の未来の特集をしている。脳をアシストする「ウエアラブル・コンピューター」はコンタクトレンズ型なども登場し、いつも身につけられるようになる。思い出の仮想現実の中に自らを沈め、人工頭脳が作り出した祖先たちと会話をする。香りなどの情報もネットワーク上で伝えあえるようになるそうだ。

食事の世界でも起きるらしい。例えば、豚肉の成分を全て成分分解し、それらを一つ一つ全て化学合成する。同じように、オレンジの成分を分解、合成。で、実際にオレンジと豚肉を調理して作ったものとは異なる、全く新しいものを生み出せるのだそうだ。美味しいかどうかは別として、豚肉とオレンジという食材から無限の種類のものが作れるようになるんだとか。

最近朝の闇が消え去ると、木々がぼんやりしているように見える。それは、これまでのように冬枯れた枝々が風に揺れているのとは全く違う光景。どうも冬芽が徐々に赤みを増し大きくなっているからなんだ。事実、梅のつぼみも枝の色と同じような胡麻粒くらいだったのが、赤みを帯び、日に日に大きくなっている。確かに気のせいと言えば言えなくないが、実際目の当たりにできないが事実に変わりない。

やがて仮想現実の中で、合成された物に囲まれた現に囲まれ、生きていく。それ以上か、脳の情報をコンピューターにそのままコピーすることで人間を肉体から解放し、デジタル空間で永遠に生き続ける…。木々が萌え始める様子などどうでもよくなりそうである。ただ、その時人間の役割はいったい何になるんだろう。人間の肉体は何の意味をなすんだろう。生き物という存在が全て人工知能上に組みこまれ、ナマモノであるところの存在がなくなっているかもしれない。新しい技術の発展はそれはそれで素晴らしいことだろうが、ナマモノという存在や神=自然を凌駕することなど決して出来ないということを忘れるべきじゃない。ハイテクという美名の暴走、それが恐ろしいことにつながらなければいいが。 

 

今日の一枚:昨日の21時から始まったシリーズ第3回のワンシーンから。


行く手にあるもの

2015-01-24 09:34:17 | 徒然に想う
行く手にさそり座、土星。アークトゥルス辺りから人工天体がゆっくり東に。静かな朝の闇、カワセミの川へと切り通しへと下る。そんな時のこと、

『自分の都合ばかり、じゃないか。先方、当惑されてんじゃないの?』

なんて、内なる声。

カワセミの川沿いの雑木林の中、行く手から来られた散歩師が避けられた時、笹がガサガサとした音に我に帰る。そこまで、我を忘れて自問自答していた。そして、気付けば、神社下の公園の入り口。

刈払機の安全講習会なるものに出た。厚生労働省かの通達で、刈払機やチェーンソーなど危険を伴い振動が強い道具を長時間使う場合、安全と衛生管理について講習を受けなさいってことらしい。何も気にしなければ、使ったって問題ない。ただ、そんな道具を必要とする仕事を想定したら、そうはいかない。そんなアドバイスを有機農家の先達から頂いたのだった。行く手にある場合に備え自己投資。

神社に上がると、朝焼け。柏手打って…。それでも自分の配慮の無さに呆れ苛立っている。

『たいへんなのは先方のほう…』

行く手の空、カラスたちがバァ~カ、バァ~カと騒いでいた。






今日の一枚:6時10分頃、神社の境内から。

「立つ鳥、後を濁さず」?

2015-01-22 17:21:11 | 徒然に想う

昨日は日中雪が舞い、今日は雨模様で最高気温が4℃。大寒から立春にかけて一番冷え込むというが、まこと寒い。そんな寒さのもとではどこへ行く気も起らず、ケーブルテレビでNCIS 6の再放送に見入ってた。すると、ベランダから鳥の声。そーっと窓に近づけば、メジロの番がプランターの花を啄んでる。里山ではなかなか食べる物がないってことなんだろう。

写真を撮ろうとカーテンを静かにずらしたのだが、飛んでいってしまった。

 

 

今日の一枚:14時過ぎのこと、右手前のプランターにいた。


忘れない

2015-01-18 11:24:52 | 徒然に想う

人さまざまだろうが、いろいろ忘れちゃならないことってのがあると思う。例えば、庵主には、ある特定の「時刻」、5:46、8:15、11:02と14:46がある。正直、最初の三つはあまり意識にのぼることはなかった。引き金は14:46。これに発し、日本人には記憶すべき、伝えていくべき時刻があるんじゃないかと思い始めた。恥ずかしながら、いや迷惑をかけるだろうと思いながらも、腕時計のアラームが鳴るようにしている。

「出会い」というのも忘れちゃならない。アメリカインディアンの言葉を読むと、「偶然の出会いには、深い意味がある」というのを見かけた。これまで、出会いに、何か意味があると意識したことはなかったように思う。しかし、出会いには深い意味がある、と言われると、これまでの出会いが違って見えてきた。「ワイン」という共通での出会い、「畑」という共通での出会い、「お四国」での出会い、いろいろな「出会い」があって、ここまで来た。

≪朝霧の まやかし、ふと 冬芽手に≫

昨日配信された(TBS系(JNN) 1月17日(土)18時22分):襲撃を受けたフランスの新聞社『シャルリエブド』が最新号にイスラム教の預言者ムハンマドを描いた風刺画を再び掲載したことに対し、イスラム教の国々では反発が高まり、死者も出る事態となっています。

どう理解したらいいのだろう、なぜ風刺画を再び掲載する必要があったか。負の連鎖をさらに大きくしたいのだろうか。配慮しろとかではない。神や予言者の顔を書いてはいけないと知っていながら、なぜそれを尊重しないんだろう。自由は一つの規範の中だけで認められるものではない。「表現の自由」の名の下、他の規範を冒涜し、自分の属する規範を強要してる、そう映る…。何人足りとも、他人の生を奪うことは、どんな名目のもとでも許されない。テロだろうが、聖戦だろうが、なんでもだ。それを招きかねないと、思いも寄せないんだろう。「尊重しあう」ってのも、忘れちゃならないことの一つ。

先ほどのインディアンの言葉は続く。「自然から離れれば、心が頑なになる」(ラコダ族の格言)。「どんな動物もあなたよりずっと多く知っている」(ネズパース族の格言)。「植物は人の兄弟姉妹。耳を傾ければ語りかける声を聞くことができる」(アラバホ族の格言)。「知識でなく知恵を求めよ。知識は過去の産物だが、知恵は未来をもたらす」(ラムビー族の格言)。「素晴らしい夢を見てそれを行動に移せ」(ナバホ族の格言)。こんな彼らの「言葉」も忘れちゃならないものだ。「生きている間に、良く生きろ」(アパッチ族の格言)。よく生きてるだろうか。

 

 

今日の一枚:昨日の6時50分頃、遊水池にて。 


春への準備 - 「コ」殺し、「オヤ」殺し

2015-01-14 10:48:19 | 徒然に想う

借りていた畑を片付ける。これが意外に胸に刺さる。

耕すのは野菜や緑肥たちの根だと考えるから、畝を一回立てたら、それ以降自分では耕さぬようにしてきた。それで、これでもかというくらい白クローバーの種を蒔きに蒔いてきた。観察していると、白クローバーは結構旺盛で他の草を抑制したり、保温・保湿性があったりする。雨の降った後など、結構表土の流出も抑えてくれていた。ただ、根で竹のように広がっていくので、他の種を蒔くとき根まで切って土を表面に出さねばならないという手間がかかる。作業性を落とすが、そんなこんなで白クローバーたちは、他の野菜を助けてくれてきた。間違いなく、虫たちやカエルにもいい隠れ家ともなってきた。この季節、さすがに元気ないが、かわいい愛しいものである。

片付ける、つまり畝を崩さねばならない。もちろん、どの畝もあの愛しい白クローバーがある。それを万能鍬で掘り起こしていく。庵主の勝手な都合で、そこに根を降ろしたにもかかわらず、根を引きちぎられ…。万能鍬を振りおろしていると、根が縦横無尽に張り巡っていて抵抗しているかのよう。さすがに、悲鳴までは聞こえてこないが、親殺し、子殺しと呟いている自分に気付くことがある。

「Mother Land」を探しまわるための足、軽の四駆を手に入れた。ある先達のアドヴァイスに従い、刈払機の安全講習を今月末に受けることにした。農業簿記のことも少しずつ自分の家計をシュミレーションに使いながら勉強している。準備は辛いことばかりじゃない。ここでやれることはやっておこうと。春まで意外と時間が短い。

 

物騒な表題にした、驚かれませんように。

 

 

 

今日の一枚:神社下の公園から東の空、6時半頃。日の出時刻がついに一分早くなった、6時50分に顔を出す。

 


出まかせ?

2015-01-11 10:08:39 | 徒然に想う

いつぞやかNHK BSの番組「新日本風土記」の話をした。そのとき、次回見るところを「母なる土地=mother Land」があるかどうか確かめるために、そこに足を踏み入れたいとも書いた。それが、つい先日、9日の夜のこと。食後、何気にチャンネルを回したら、ちょうど始まった。テーマはなんと「四国遍路」。確かに、春からの生活を思えばまさにそうなのであるが、あまりにも、というか、なんだこりゃ というか…。こうなると眉唾物、与太話とかいった類じゃないかと不安に駆られる。

木。民家の庭先にそびえる一本や散歩コースの神社の御神木だけじゃなく、雑木林の中にふと頬を摺り寄せたくなるような木を見かけることがある。種類が決まっているわけでもなく、単純にいいなぁと感じるのだ。この感覚は中学、高校あたりからあって、どこで見たか分からぬ木に想いを寄せ、版画で掘り出し絵にしたりした。結局担当の教師から酷評されたが、思い出深い作品として自分の中に残っている。 先日もほれぼれする木の風景が散歩中見れた。

 

マーラーの「大地の歌」第6曲「告別」の中

Die Vögel hocken still in ihren Zweigen. 鳥はうずくまる、静かに自分たちの枝で。

Die Welt schläft ein! 世界は眠りにつく!

という部分がある。解説を読んでいくと、孟浩然の「宿業師山房待丁公不至」という詩から作られているのだそうだ。その中、『煙鳥棲初定   煙にかすむ鳥は棲にやっと定まった』という一節が出てくる。白居易の「香鑪峰下新置草堂即事詠懷題於石上」という詩の中に、「倦鳥得茂樹、涸魚反源」というのが出てくる。倦鳥得茂樹は「疲れた鳥は、(留まるべき)茂った木を見つけ」とか。さらに解説には、作者のまとめのことばであり、「生きとし生けるもの全て、自分に適した過ごす場所を得ようとするものである」の意だと。木は昔から「自分が落ち着く場所」を示すと考えられているのかもしれない。

去年「川」の流域のある町を尋ねた時のこと。その土地には残念ながら「Mother Land」を感じることができなかったのだが、ちょうど銀杏が黄色くなって綺麗だった。斜面のお茶の畑のなか、凛として佇んでいる姿が印象に残っている。木か、「木」もまた「川」とあわせて、「Mother Land」を導いてくれるかもしれぬ。去年は「川」ばかりにとらわれ過ぎていた、か。

 

 

今日の一枚:昨日、高校時代の仲間と今年の初山行、奥多摩の三頭山を登ってきた。10時頃、笹尾根に出たとき目に飛び込んできた風景。画像ではその迫力をとらえきれてない。