二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

川への憧憬

2014-06-30 17:22:32 | 徒然に想う
川、川の辺を歩くと心が和む。川の辺に佇むと心が落ち着く。川の辺に向かうと童心に返ってゆく。そう、川。川なんだ。川が近くにあると、心が喜ぶんだ。

考えてみりゃ、今住んでいるところは、五分も歩けば、カワセミの川。大学時代、やはりアパートから五分位で広瀬川が流れてた。幼い頃、夏休みに父の故郷に帰れば、近くの川で蒲鉾の船を浮かべていた。生まれた場所の近所には、大きな赤い水門がある川。幸せな時には、川がある。

海はなぜか恐ろしい。例えば、大きな船なら問題ないが、小さな船の場合。海藻がゆらゆらしているのが見えたり、海水に手が届いたりすると、何かでてきて海中へ引きずり込まれるんじゃないかと思う。日常にはあり得ない場所だ。

川と強い縁があるわけでない。血が記憶しているのか、どこか川に憧憬を抱く。だから、新しい日常であろうところ『母なる土地(マザーランド)』には川があるに違いない。実は、一つ気になる川がある。秋になったら、辺を歩いて、上流へと遡ってみようと思っている。





今日の一枚:サトイモに草マルチをしていたら、蝉が鳴いているのに気付いた。今日13時過ぎ。

《風の向こう 一番蝉の 暑さかな》

味噌を作るぞ! ― 天地返し 2

2014-06-29 09:07:00 | 徒然に想う

仕込みから3カ月、4月30日、一回目の天地返しをした時、まだまだ大豆の感覚が残りタマリなぞコレッポッチも上がっていない。去年の場合、3カ月も過ぎたころにはタマリが上がり始めていた。それと比べると遅いどころじゃない。しくじったか…、という状況。でも意を決して、昨日、二回目に挑む。

蓋を開けてみれば、どうだろう、タマリは上がっていないのだけれど、見た目、味噌の「み」の気配。混ぜてみれば、なかなか大豆のツブツブ感覚が十分薄れている。舐めてみれば、もちろん味噌には程遠いが、前回ほど尖っていた塩気がない、丸くなりだした。ちょっと安堵。

24日に子規の講演会で司馬遼太郎と正岡子規の共通していた思いのことを書いた。それはこんな共通のことからわかるのだそうだ。まず、司馬遼太郎は、エッセイ集風塵抄に納められている「日本に明日をつくるために」の中でマックス・ウエーバーの「プロテスタンティズム倫理と資本主義の精神」(1904~1905年)を提示する。彼はこの著書をかつて地価の高騰の際に誰かが著わすべきだった土地投機に関する倫理書の例として挙げる。実は、このウエ―バーの著書、しばしばトーマス・フランクリンが引用されるのだという。一方、正岡子規であるが、「病床六尺」(1902年)の九月一日のくだりで、一年前の同じような頃にフランクリンの自叙伝に熱中したと記されている。ここに共通したものが生まれるのだという。

しかし、解らない、不思議だ。去年より一カ月早く仕込んだのに、やっと、去年の一ヶ月くらい(初めての天地返し)の状態に近付いてきた。麹の性格なのか…。瓶の違い(去年はプラスチックの物を、今年は陶器製のもの)で、成熟過程の温度に差ができたからなのか…。いわゆる「作り方」にはでてこない何かがある。昨日の石臼の使い方ではないが、やってみなければわからないことが多い。

 

今日の一枚:味噌の画像を取り忘れてしまった。古いものだけど6/16の朝6時散歩中に撮ったもの。


小麦、製粉

2014-06-28 22:22:19 | 徒然に想う

18日に脱穀した小麦、幸いにも石臼を持っている方を見つけることができ、今日使わせてもらってきた。約4.2キロの小麦から、一番粉1.5キロ、二番粉1.3キロ、フスマ1.3キロと、あいなった。写真では右から、一番、二番、フスマの順。作業時間であるが、14時に開始して、17時に石臼で挽き終えた。この時採れたのが一番粉としての1.5キロ。そのあとで、石臼を持っておられた方が電動のも持っておられ、それで残りの2.5キロを挽きなおして、二番粉とフスマに。最後まで篩って18時に終わった。

石臼を使ったのは初めて。やってみると、回せばいいってもんじゃないことがすぐに分かった。臼には回す方向がある、どんなタイミングで小麦を投入したらいいかなど、知らないことだらけ。方向は、当初いくらまわしても粉が出てこない。ところが投入口に粉がたまっている。ということは…と、逆に回してみたら、うまい具合に出始めたことで理解した。それでも、期待するほどには粉が出ず、入れたまんまの小麦が飛び出す事が多い。回していくにつれ、石臼の音、手に伝わってくる感触で、白い粉が沢山出てくるようないい具合というのが解り出してきた。上と下の石が擦れ合うような音が続くように入れる。すると、粉が多くでてくる、回転もスムーズ。多く入れてしまうと、上と下の石のぶつかる様な音や跳ねるような感じになる。こんなときには、そんな感触がなくなるまで、ゆっくり回す。すると重みで小麦が潰れはじめ、段々スムーズになってくる。そうなったらしめたもんで、白い粉が沢山でてきだす。

そんなこんなの4時間の仕事時間。長いか短いか、それは解らない。来年もやるか?今年だけなら、この得られた感覚がもったいない。間違いなく、どこを探したってこんなこと書いている物はあるまい。お爺ちゃんやお婆ちゃんが隣にいてこうやるんだと教えてくれる口伝的な事柄、だろう。4キロかぁ、それならやってもいいかと思う。

 

 

今日の一枚:フラッシュの反射で良く分からないかもしれないが、一番粉はまっ白で美しい。家に帰って21時半ころ、撮影。


局所化

2014-06-26 19:40:33 | 徒然に想う
なんてこったい! 畑からの帰り道、夕立。

駅までの五分、十分、ポンチョを着て歩く。ところが、電車で十分進めば、降っていない。降った気配すらない。

携帯を見れば、天気予報会社が、六十分以内に本格的な雨が降るとの警告げていた。雨雲のレーダー画像もあって、正に小川町辺りだけ。

警告を受け取ったのは17時40分頃。降り出したのは…。おぉ、18時半頃。しかも、小川町辺り。実に、警告通り。予報も雨も、全くピンポイント。昔は違ったよな。





今日の一枚:巨大なズッキーニ。やはり、一週間もほっておくとこうなる。9時半頃、ズッキーニの畝の隣、里芋の畝にて。
警告に付いていたレーダー画像。

愉快なこと

2014-06-24 16:48:54 | 徒然に想う

いつ雨が降り出すかわからない不安定な天気。今日も明日もだから、イライラさせられる。愛媛に行って、子規に関する講演会に行って、この天気模様。どうもほぼ一週間、畑に行けない状況になりそうである。こうなると、草も怖いが、野菜たちが大いに羽を伸ばしてスクスクと大きくなっているのも怖い。

一番は、黄色いズッキーニ…。先週初取りで、ちょうどいい具合で、2~3の太さだった。とりあえず、その時に採れそうなものは採ったのだが。もういかんだろう。一週間なんて彼らには十分、巨大化しているに間違いない。あぁ、恐ろしい。

≪雨降りて 外に出たしと 山椒魚≫

子規の講演会にて面白いことを知ることができた。

  • 正岡子規が寒川鼠骨に忠告している:「今迄おまいは餘り金を多く貰ひ過ぎておいでだ。少年にして高臺に上るは一の不幸ぢやといふぢやないか」
  • 司馬遼太郎が語っている:「若い人がマネーゲームに勤しむ。働いて、つまらない収入を得ることの大事さを誰も教えない。これでは社会は壊れてしまう」

 

この二人が同じようなことを時代を超えて語る。なんとも愉快。真実とはこういったことなんだろう。ちなみに、子規。先ほどの言に続けて、こんなことを言う。

「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライ人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は百の報酬で百の働きをする人よりエライのぞな。収入の多寡は人の尊卑でない事くらゐ分つとろがな」

 

今日の一枚:小一時間も降ると、上がってきた。これを畑でやられたら…。西の空、17時頃。

 

 


探し方?

2014-06-22 19:56:06 | 徒然に想う
『マザーランド(母なる土地』を探しに愛媛県の南予のある町まで行ってきた。結果は…、ぅ、うーん。

松山まで飛んで、レンタカー。国道56号線を南下。二時間ほど走り、投宿。翌日、目的地に入り、ある研修会に参加。座学の後、地元の人もあまり知らないところをも実地見学。庵主のポイントは、ここ。実際をみる。

56号線を走っていると、いろいろ懐かしい。そう、このトンネル…。初めての時、排ガスに包まれながら泣いて歩いてた。二度目は、それが嫌でトンネル回避、峠越えた。あぁ、この交差点。大師が雨で十日間足留めをくらい、橋の下に寝られたとされるところに建ったお堂がある…。おぅ、あのラーメン屋で昼食ったっけ。うら若き女性が二人、長い髪の毛抑えちゃハフハフしてた。

兎に角、現地に行くこと。そして、感じてみる。そこ、だとしたら、どう入るか。庵主という個は信頼されない…。公の後ろ盾は大変助かる。が、結果は繰り返される…。やり方を変えるか、探し方の方針を変えるか、しなければならなんだろう、か。はて、さて、どうしたものか。





今日の一枚:雨の一日。予定を早めに切り上げ、レンタカーを返却。子規記念博物館を見て、石手寺に。13時頃。

《杖なくば 一人行くのか カタツムリ》

小麦、脱穀まで

2014-06-18 15:47:01 | 徒然に想う

期せずして小麦を収穫出来た。で、小麦を刈り取り、数日天日干しにしてきた。次は脱穀だと思っていたら、雨の予報(昨日の今日の)。やばいと、急遽脱穀することに。もちろん脱穀機なぞない、何もない。あるのはプラスチックの箕とブルーシートだけ。

「麦打ち」なんてことを言う。何か棒になるようなものは、周りにたくさん篠竹はあるが…。実は、先月あたりから、小松菜、ルッコラ、のらぼう菜、ほうれん草と種取りをしてきた。手でしごけば簡単、面白いように取れる。脱穀だって、タネ取りじゃないかと、意を決して手で。揉むようにすると簡単にバラバラといく。出来るじゃないか! 二三時間かかったものの、とりあえず全てブルーシートに落とし終えた。

次は、芒やら小さな枝など余計なものを取り除かなければ…。唐箕があればいいが、借りるあてもない。第一、そんな量じゃない。箕を使って、ブルーシートに落ちた物を放り上げれば、風が余計なものを取り除いてくれる。完璧じゃないが、小松菜などの時もそれなりにできたし。やってみると、まぁ、出来るにはできたが、愕然とするくらいの芒やら小さな枝、その他もろもろのゴミが混じったままだ。さすがにこれは箕と風任せというわけにゆくまい。扇風機など風を送るものを使わないと。

ヘアードライヤーを持ち出した(温風じゃなく、冷風で)。笊に小麦をいれ、下に受け皿として置いた笊にゆっくり落としてゆく。その道筋にヘアードライヤーで風を送り余計なものを飛ばす。出来るんだが、どれくらい時間がかかる、か…。次に、扇風機を持ち出す。小麦を落とす笊の位置を間違えて、ほしいものまで飛ばしてしまう。結局、ヘアードライヤーを使い続けること、約2時間。どうにかこうにか、大方のゴミを取り除けた。あとは食べるときにでも。やったと達成感に包まれ、幸せ。

 

 

今日の一枚:風選が完了、10時ちょっと前。鍋に小麦と計量カップ。その向こう、ベランダに広げたレジャーシートの上、ドライヤー、笊、食べれない部分。

追伸:新たなる問題発覚! 「食べる」。 どうやって食べよう。小麦をお米のように炊いたらどうなんだろう。粉、粉にしなけらばならないんだろうか…。ウエッブには「小麦は皮のついた粒のまま炊飯しても、けっしておいしいものではない上に、消化率も悪くなります。 ところで、たんに栄養面から見れば、小麦の粉食はマイナスです。(以下、略)」なんてでてくる。どうしよう…。製粉機なんて買えないし。

 


タマムシ!

2014-06-15 18:30:52 | 徒然に想う
指先を、腕の上をもぞもぞ這い回る、タマムシ。生きているのは、何年ぶりか。…いや初めて、かもしれぬ。畑からの帰り道、出会った。


小川町でも田植えが最終的な段階に。畑周辺の田んぼ、ほとんど終わってきた。そんななか、朝歩いて畑へ。

《白き鷺 玉苗の静寂 破らんか》





今日の一枚:17時頃、Kファームさんの入り口近くで。

「足二本 同行二人 春の風」 - 子規

2014-06-12 08:53:42 | 徒然に想う

BSの「世界で一番美しい瞬間」という番組で、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路でのことが取り上げられていた。サンティアゴに住む四人家族のお父さん。マドリッドに住む40代の女性。3人の息子と歩く親父。こんな三組を断片的に追いながら、一番美しい瞬間を求めてカメラも進んでいく。つくづく洋の東西に関係なく人は「巡礼」ってことをするもんだ、と限りなく四国を歩いていた時と重ね合わせながら見ていた。

番組だから仕方ないのだろうが、なぜ歩いているのかをインタビューしている。歩いていると、他人から「どうしてですか」などと問われたくない。余計な御世話だ。自分と向き合う時間であるからこそ、そっとしておいて欲しい。語るにもかなり相当な勇気がいるものだ。だが覚えているのだが、何かを契機にその勇気がわいてくる。お父さんは十年前アルコール依存症に陥って、家族を失いはしなかったが周りが見えなくなっている。その答えを求めていた。40代の女性は三年前に大病から回復できたことに感謝したい。3人の息子と親父は家族の絆を再確認したかった。

ゆっくりとした時間が過ぎる、とナレーイション。そうじゃない。「ゆっくり」などなるものか。時間の流れは変わらない。勝手に自分を追い込んで毎日を慌ただしくし、本来の時の流れを忘れるにすぎない。自分を見失い、自分以外に所有され振り回される。チャップリンのモダンタイムスの職工と同じ、機械の一部となる。だが、歩く、には一歩を踏み出さなければならない。その速さは自分が持っている体力。だから、歩くことで、自分の時間の流れを再確認する、その早さにもどれるんだ。緩急なんかじゃない。

お父さんは答えを見つけた、家族を再び見つけた。親子四人は、到着前に絆を再確認できた。女性は、歩き通せるかの不安を乗り越え到着、無事自分の体の回復に感謝した。彼女、サンチャゴの大聖堂の尖塔を森の向こうに見出したとき、グッと涙する。印象的であった。このドキュメンタリーの中で一番美しい瞬間、だった。ああ、それにしても、余計なお世話とはまだまだ庵主は自分に囚われている…。いかんなぁ。

 

 

 

今日の一枚:去年のこぼれタネから発芽した朝顔。北のベランダ、9時頃。

 


過ぎたるは猶及ばざるが如し?

2014-06-11 17:46:19 | 徒然に想う

晴耕雨読とかっこをつけている。であるが、窓を開け放っているので、うるさい、気が散ってなかなか読み進められない。要は車が水を弾じく余計な音に邪魔されるのだ。どうしてこうもうるさいのだろう、いい加減静かにならないかと目を「松蘿玉液」から離す。視線を時計に向ければ、読み始めてから実に1時間をゆうに超え2時間に迫ろうとしている。あら、そうかね。18時前、仕事を終えた車の帰宅ラッシュといったころ合いだ。

先週来畑に出られる日が少ない。あんなに暑く雨が降らなかったのに、ブロック高気圧なるものと偏西風の予期せぬ悪戯に、このありさま。お天道様の機嫌が悪いのか、激しい日々が続く。過ぎたるは猶及ばざるが如し。一日、二日なら、慈雨ぞ、甘露甘露と野菜も喜んだろうに、これでは恨み節でも聞こえてきそうだ。

明日もまた傘マークに80%の確率。逆らえぬものには、逆らえぬ。邪魔するのは、雨の音ではない、車が作る音。もうしばらく、こうやってかっこつけておくしかあるまいだろう。

≪五月雨を うるさきものぞと 顔を上げ≫

 

 

今日の一枚:9日の朝、久しぶりに散歩コースに出る。山靴を慣らす為にでもあった、静かであった。5時半ころ、神社にて。