二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

朝の夢

2016-10-28 19:57:53 | 徒然に想う

ニュースを見ていたら、たまには有益なものを伝えるなと感心。同じ時間枠の中、日本のどこぞかの交差点でハロウィーンの大騒ぎが出るからと警備など対策の話し、「そんなこと伝えるから、また人が寄るってくるものを」とため息をつきながらも見続ける。すると、「ダウンジャケットのリサイクル」が取り上げられた。

ファストファッションなどで安いダウンが出回るから、それだけ羽毛の需要が増える。羽毛の手に入れ方はどうでもいい、安く大量であればということになる。だから、現状として、生きたままアヒルなどから毛を毟って、ダウンジャケットの素材として売買されてるそうだ。もちろん、それだけじゃないし、代用品も探られてる。

ファストファッションは助かる。でも、その一方で搾取される立場の人たちが生まれる。うまく言葉にのせられないが、(先日見た)「トゥルー・コスト」のようなドキュメンタリーで提起されてる。じゃ、どうするか。ガンジーのように自分で紡ぐか。そこはこれからの課題、「衣」も自給自足という世界観がある。

使われてきたダウンを回収して、羽毛を取り出し、洗浄し、新しい製品とする、それを再び市場にだす。そういう「リサイクル・ダウンジャッケト」があるんだとか。その手順でどうしても以前よりも値が張ることもあるとか。それでも、買う人はいる。なるほど、衣料の世界では、フェアトレードの世界だけじゃなく、「リサイクル」という「売りっぱなし」じゃない(売った後も責任を負う)姿勢があるんだ、と痛感。どうか、衣料の世界だけじゃなく、他の世界でも広がりますように。それが、しいては、孫の孫たちがこの世界を見つづけてますように、自然が持続してますように。




今日の一枚:昨日の夕暮れ、対岸の山の頂に太陽が沈む。まるでダイヤモンド富士のよう。家の前で、16時頃。


秋祭り ー 昨日のこと

2016-10-17 19:14:40 | 徒然に想う

朝電話が鳴って、今日のお祭りの準備を8時から「老人里の家」(集落の公民館のような所)で始めるとのこと。そのとき、干してる稲を濡らすなよとも。時計を見れば、稲架掛けに雨よけをかける時間がある。山に文旦の野囲いに使ったビニールが残ってることを思いだし、早々に家を出た。

「老人里の家」につくと、しめ飾り用の藁と見本が二本おいてある。まっこと、きれいな見本。これまでも、以前貰った稲わらで練習することがあるのだけれど、綺麗に綯えたためしがない。三々五々人が集まり出し、しめ飾り作り講習会が始まる。お? なに? 使うだって? 練習のつもりで作っていたものを使うと?

最近、映画をなんだかんだと見る。街に映画館はないし、市内(高知市)に出かけるわけでもない。家でゆっくりDVDR・アッテンボロー監督の「ガンジー」。映画上のセリフだが、金言の嵐、こんな調子。「神さえ崇められれば、宗教なんてなんでもいい」。「何をされようと、我々は一切抵抗しない。受け入れてください」。「人間の幸福は物品にはない。幸福は労働と仕事に対する誇りからくる」。そうよ、彼は自分の着る服を作るため糸を紡ぐ。他国で作られたものを買うんじゃない。幸福は物になく、自分のものは自分で何とかする。資本主義を否定はしないだろうが、パラダイムの変化後の世界を予想させてないだろうか。それには、糸を紡ぐ、その技術を受け継いでおくことが要るだろうなぁ。

しめ飾りを作ることもだんだん減っている、既成の縄を使うことが多くなってるとか。手間やその技術の継投が難しくなってると思えば、そうなってくんだろう。幸いなことに、この集落ではまだ教えていただける。「あとは年期ぞ」とのこと。何年経てば、お墨付きが下りるだろう。そうか、それに合わせ、他に埋もれていきそうなものを継がせていただくなり、なくさないよう記録するなりをせにゃ、いかんにゃぁ。



今日の一枚:金毘羅様に向かう途中、振り返るとほぼ浅尾と鎌井田の全景が見れる。鎌井田絶景百選に入れよう。昨日の9時半ころ。


もう一枚:芋がら、皮をむいて天日干しにする。収穫してすぐ剥くより、10日ほどしてからの方が、皮をむきやすかった。


野菜たちの薫陶

2016-10-03 09:46:59 | 徒然に想う

過去を振り返ることを良しとするか悪しきとするかは置いといて、越知に来てからの山での作業を10年日記に書き残している。先月に一年を迎え、去年何をしたかを読んでとれるようになった。比べると面白い。例えば、昨年のこの時期、レタス類、根菜類などなど、かなり種まきを終えている。それに比べ、今年はまだまだ。白ネギ(長ネギ)では、去年の930日に発芽を確認している。が、今年は種を蒔いたばかり。この違いは、怠慢から?

向陽二号という名のニンジンを蒔いた。その袋の裏書きに、発芽適温15~25℃、生育適温18~21℃とあり、播き時・収穫期の暦には8月から9月上旬が適してるある。だから、今までのように、暦に合わせ93日に蒔いた。発芽しているにはしている。播種してから乾燥しないように灌水、雨が降れば過湿にならぬよう灌水を止め管理してきた。だが、一か月たっても、ちょぼちょぼ。発芽の様子が全く面白くない。なぜ? どうして? で、先日雨上がりに温度を測ってみた。すると、種が落ち着いているだろう深さ(地表から数ミリ)のところで24℃。もちろん裏書にある発芽適温じゃなくとも発芽するが、これまでの地温が15~25℃であったりしたろうか。温度が高すぎやしなかったか? そう思い始め発芽している状況を改めて見れば、草の葉の陰になっているところに多く発芽が見られる。それがどれほどの効果か、まだ様子を追いかけていかなきゃならないだろうが、今までは気にも留めてこなかった。

この一年で、沢山の恵みを手にすることが出来た。一方、種を蒔いたが収穫に至らなかったものも数多い。虫たちに取られたり、お世話するタイミングが遅れたり、原因は数多あるだろう。その原因の一つとして、野菜たちは、「あれ、環境を観てた? 単純に『栽培暦』に従ってたんじゃない?」と言いたかった。そう、彼らの立場に立ってじゃなく、人間の都合(他人の説明)ばかり、それではダメよ、ということなんだと思う。だから、早速長ネギの播種を10日ばかり遅くしてみたのだった。しかも、念を入れ「種まきカレンダー」にも従いながら・・・。さて、さて、どうなることでしょう。

 

 

 

今日の一枚:雨、雨、雨。それでも、収穫したゴマ、いい感じに乾燥が進んでる。近寄ると、ゴマの香りがフワーッと。9時半ころ、家の二階で。