二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

崩落防止の柵 ー 記録ために

2016-11-30 18:13:05 | 徒然に想う

ず~っと気になっていた車止めから小屋までのスロープ、やっと整備をし終えた。気になっていた、どういうことか。スロープが法面からの崩落で人ひとり通るだけの幅しかない。管理機を入れるにしても何か機器を上げるにしても尻込みするような状態。崩落が輪をかけ荒れている雰囲気を醸し出す。そこへ、手を入れれば何とかなる、と思って、何もせずこの一年ほったらかし。だいたい、どう手を付けたらいいか、皆目見当がつかない・・・。

 

解決の糸口、それは、数か月前、FBを通じて、「しあわせみかん山」と巡り合えたことに始まる。そこでのワークショップに参加することで、ヒントをつかみはじめたのだ。そのキーワドが「天孔」と「キワ」。

  • 「天孔」、地中と地上に流れを作ることを目標に木や炭、いろいろなものを穴に入れ(構造を作る)、そこを埋め戻したとき煙突のように立てた筒と合わせた複合体のこと。数本立てることで、流れを誘導できるとも。竹を、節を抜いて使う。
  • 「キワ」、生態の多様性を目標にし、そこにいる生き物が心地よいと思う場所とそうでないところの境目。

圃場を歩きながら、ブンタンの木の下を歩きながら、スロープから見上げながら、なぜ崩落が起きたのか、考えた。果樹園の最上部にある崩落の始まるところ、岩から水がしみ出す。そこから、下を覘けば、崩落面がずっとスロープまで続く。スロープに面した崩落が激しいところの脇、湧き水のように水がジンワリ湧いてる。ということは、水の流れに問題があるからじゃないだろか。例えば、その地下で水が飽和し滞留してる状態なら・・・。雨が降れば、表層を水が流れる。そこにあるのは、風、地下にこもった熱等でもろくなった岩や土。それが水とともに崩れ去る。

これがあってるとしたら・・・。そうか、地下の水の流れを再び取り戻すこと、キワを明確にし、作業道(歩くところ)を確保することをやってみたら、いいんじゃなかろか! もちろん、技術などもってない、マニュアルもない。しかも、一回で、それは永遠とは言わないが、長い期間有効であってほしい。11月半ば、ワークショップに参加すると、ピンときた。おそらく、間違った方向は見てない。冬春ものの定植も終え、ブンタンに秋肥も終わってる。好機到来!といわんばかりに、下旬、ついに着手。


まず、竹の切り出し。これで「天孔」と崩落を支えるための「キワ」となる柵にする。竹は冬切ると虫が入りにくい、長持ちするときく。K兄が快くいくら切り出してもかまんと仰ってくれた。竹、確保!

さて、天孔をどこに立てるか。崩落前や以前、作業道と法面の境が付けられていた、はず。そこを探す、もう一度はっきりさせよう。金属の棒を持ちだし、法面とスロープの間にたまる土砂に何度も突き刺してみた。ワークショップで講師のK氏が言われた通り、石に当たる当たらないで、その感触が全く異なる。そこで柔らかいと感じる、二か所を選定。地の面がでるまで、水平方向、垂直方向と土をさらってゆく。この過程、まるで遺跡調査。まっこと、崩落で埋まったところと地の面では土の硬さ、石の混じり様が違う。境が分かる。一か所なんて、垂直方向に二回崩落が起き、のちに土が覆ってた。二か所とも地まで掘り出し、そこに天孔を立てることに。

天孔の次は、横木だ。横木を入れる。そして、立てた天孔の二か所の底に横木が納まるまで、その下の土砂をかきだす。うまくいくもんだ。このかきだす作業前、作業中、大きく崩れてしまわないか気が気でなかった。ところが、ゆっくり進めると、横木が底まで下りるまで崩落が起こらない。起きてもとても小規模。「焦っちゃダメ、焦っちゃダメ」、ゆっくり作業すればいい。入れる横木の本数は、崩落面とその横木の位置関係、にもよりそう。もし崩れたとき、一本では直ぐに支えきれなくなりそうだと感じるなら、その分最初から増やす。一本の方が扱いは楽なのは言うまでもなかった。理屈はない、五感。

横木が一本、二本と入っていくと、法面と横木の間の空間ができる。そこは格好のかきだした石と土の収納場所。その空間に、石・土を戻す。ただし、「天孔」を立てるときに「構造」作るということを参考にした。今回の「天孔」は、ほとんど杭と変わらない。石を使って法面と横木の間に「構造」を入れよう、石垣に似たような石の組み方(石の長い軸を横木に垂直になるよう地面に平行に、他の石と三点以上で接させて)をしよう。その上からまだ空いている空間に土や小石を詰め込んだ。

横木を通し、空間を土石で埋める。これを繰り返してゆくと、やがて埋めるものが少なくなってきた。その段に及んで横木を入れるのを止めた。以上で一通りの作業を終了。一言ご注意を。使った単語やその意味は、まったく自己流の解釈。講師の意図を正確に理解してるかは、別のお話し。

一息入れ、我が成果を眺めてると・・・。あれ? 埋めてできた平らな面と崩落面とで、新たなキワができてる。しかも崩落面を見れば、今にも崩れそう。いかん。そのキワ、なんとかしないと。ワークショップで見せてもらった構造を思い出した。竹数本を法面の崩落を抑えるように立てかける、残ってた土をかぶせ埋める。ポインとしたのは、法面から出来るだけなだらかに、新たにできた平らな面につながってゆくように。そう、富士山の裾野のようなイメージ。これで、完成。

うざいほど長くなってきたが、あと二点。

実は、果樹園内いたるところにザレ場や崩落しているところがある。で、それが結局、このスロープまでつながっている。つまりスロープが最下部になる。今回の柵はその最下部を支えることといっていい。これはワークショップで聞いたこと、一時的でもいいから、崩落を止めるには最下部からだと。それを実行した。次の一手は? 途中の崩落しているところ、ザレ場が崩れないよう小さな柵を、同じような手法で入れてく。だが、これは作業効率だけを考えてのこと。最終的にはどうなるかわからない。きっと、自然とその崩落面に土が戻り草が付き花が咲き、崩落は起こらなくなる、に違いない。ゴールなんていつどうなるか、分かったもんじゃない。そうそう、この一連のワークショップ、「オープン・エンド」の思想が楽しくもある。

ヒャー、長い! なに? ここまで読んでくださった? それはそれは、大変ありがとう。



今日の一枚:山々を写す鏡のような、川。午後14時ちょっと手前、山に向かう途中。

おまけ:家の二階の軒先、干し柿。これがまた倍くらいの数になってる。


コンニャク作り 追記

2016-11-23 06:23:52 | 徒然に想う

あく抜き。茹でること、水にさらすことで、灰汁が抜ける。茹で上がりは玉の真ん中を押すことで確認できる。灰汁の分量によっては、この茹ででOK。次に冷やす。ここでも灰汁が抜けてゆく。ここで試食が肝心。

食べてみて、灰汁が抜けてないように感じたら、また茹で直す。茹で直しても硬くならない。時間があれば、より水にさらしておけばいい。

 

(コンニャクの味、この灰汁の残し加減にもあるかも。残ってても、ちょっとピリッとしていい。)


コンニャク作り

2016-11-21 14:29:39 | 徒然に想う

やってみなければわからない、ってのが答え、でしたねぇ。作り方は、まるで作る人の数だけある。ただ、最低限の基本ラインがあって、芋200gに炭酸ナトリム15から20g、水が600㏄、これを守る。これを守れば、あとはダイタイだそうだ。必要な加減は作ればわかるってことらしい。

鍵は、どうも二つ。芋をゆでるとき、しっかり柔らくなるまで茹でる。圧力鍋なら、握りこぶしより一回り小さく適当に切って、火を点け10分。圧が下がったら終わり。普通に鍋なら30分以上とか。今日は圧力鍋で圧が下がるまで20分くらいだったそう。ミキサーにかける前突いてみたら、もうトロトロ。水加減。コンニャクの硬さは、水の総量で決まる。芋の重さの三倍量が目安。三倍量だと「堅め」。入れすぎるということはない、多く入れればそれだけ柔らかくなる。茹でるために沸かしたお湯に少し取って入れてみて散るようなことがなければOK。あとは何度か作るうちに、その加減が分かってくる。

茹で上がりは真ん中あたりを触って、ブヨブヨしてない、しっかりしていると感じられればOK。あとは水にさらして、余計な灰汁を流す。なんでも昔は一晩でも沢に入れて水にさらしたんだとか。水を入れて煉ったものは一晩くらいは、整形して茹でなくとも問題なく保存できるという。ようは、しっかり茹でて、しっかり水を入れるってこと。

 

教えてくれた小母さん、9時半ころ来られ、ガーっと教えてくださり、11時前に帰っていかれた。こうやって、集落に方に教えていただける幸せ、なんとありがたいことか、嬉しくて仕方ない。



今日の一枚:お昼のオカズとして刺身風にした頂く。うま~い。


”酒家”版、Anarchy in the UK

2016-11-18 21:39:25 | 徒然に想う

山に佇み、対岸の木々の色、足元の植えた野菜たちを眺める。あれ、時々刻々変わってる! 予想だにもしてなかった。見上げりゃ、雲が流れ、陽が射す。足元の川の彩りがグレーからブルーに変わる。そんな頭の上の風の騒めきが、一気に川面まで下り、色付いた木々を鏡のように映してたのに、クシャグシャにぶち壊し、なんだったのか分からなくなる。

発覚した後、亡くなった後、「不適切だった」と釈明す。で、謝罪するだけで責任を果たしたとみなし、根本的に問題を解決しようとする意志など微塵もなく。あるいは、臭いものの蓋、解決しようとする意志は無視され、配置換え。それで、解決、さっ。

政治屋たち、当選するために、手をすり、胡麻をすり。が、いったん当選しちまえば、それまで頭を下げていた人たちはどうでもいい。菓子折りを持ってくる輩に笑顔振り撒く。で、何かあった時、菓子折りの中身はなんであろうとも、その「先生」たちは詳細は知らぬ存ぜず。周りの誰かが責任を負って。でも、そんな貧乏くじも、いずれ「先生」。やめられねぇ。

山のことは、川に。川のことは、海に。海のことは、食卓に。食卓のことは山に。きちんと万象、循環しちゅう。どうあがいたって、ごまかそうたって、うやむやにしようとしたって、結局明白な事実として白日の下にさらされる。そう、やることときたら・・・:

Don't know what I want (てめえの欲しいものは知らねぇけど)

But I know how to get it (手に入れる方法は知ちゅう)

I wanna destroy passer-by(身に降りかかる火の粉なんぞ、さっさとふり払い)

Cause I wanna be anarchy, no dogsbody(だれにも従わねぇ。自然=神のみに、従うぜよ)

 

え? なに? 最後は、No future, no future, no future for you だって? いやいや、なら、どうして川面にきれいな同心円の波紋が広がっては消えるのさ?




今日の一枚:Sex Pistols のオフィシャルサイトの表紙。文中の英語、Anarchy in the UK の一節(約は庵主の御遊び)、God save the Queenの一節。

 


 


今日という一日

2016-11-08 19:48:48 | 徒然に想う

なぜか天気予報が当たる気がして、起きたときから、休日モード。でも、耳を澄ましても雨の音がしない。やばいな、「晴耕雨読」のモットーに反してまう。カレンダーは「根菜の日」か・・・。どうしようと思っていたら、雨が来た。ホッとした。

ご存知のように最近は6時台にならないと明るくならない。不思議なもんで、というか習性なのか、暗いと俄然調べものや勉強をしたくなる。テイツとザイガーの「植物生理学」を開く。何度読み返しても、無機栄養素の欠乏症状はよく見かけるとため息。文旦の秋肥、今年を振り返り何が足らないか。で、何入れよう。加里が足りない、か。レモン栽培の下調べ、品種はなにがいい? などなど。今日も今日とて、気付けば7時台。で、ハッとした。ご飯を炊き忘れた。

レモンの生理を読む。面白い、四季咲き性が強いとある。変な言い方だが、年がら年中、花を咲かす。で、結実する。冬の寒さに若い実は持ちこたえられない場合もあるが、越冬することも。ただ、マイナス3度を切ると樹全体が凍死し始める。篤農家の先進事例を読めば、剪定や草刈りも様々。剪定だって、ほったらかしという人もいれば、しっかり細かくする方も。それに苗を購入すれば、「しあわせみかん山」のワークショップで学ばせていただいたことを試すこともできる。これは楽しいことになる。ニマッとした。

11時に床屋さんに出かけ、さっぱり、気持ちいい! 昼を食べると30分落ちる。起きてボーっとしながら出した結論。直近の課題、ラー油とショウガを何とかする。ショウガ、ガリを作ろう。あれ、砂糖が足りない。ラー油を作ろう。ニンニクがない。街に出たのだから、買って帰れよ。再び街に出かけ、ニンニクと砂糖を構える。あぁ、なんと段取りの悪いことよ。思わず頭をふった。



今日の一枚:完成したガリとラー油。そうね、一週間ほどしてから使いだそう。17時半ころ、居間にて。


新三ものの消化不良

2016-11-06 06:04:33 | 徒然に想う

昨日の夜、3日から6日にかけ宮の前公園で催されているイヴェント「越知 おいしいキャンプ・ウィーク」に行ってきた。パネルディカッションがあって、「越知の魅力を発信しよう(仮称)」ってテーマ。面白そうと、四本畑(集落内の文旦の木が4本あるところ、家から歩いてすぐ)での作業を片付け、出かけていった。

魅力を発信してどうするか。人に来てもらいたい。つまり、移住してもらうにためにどうするかってこと。この町の魅力の一つとして、仁淀川があって、自然が身近にある。それを楽しんでいただくのはどうか、キャンプや今でいうグランピングにつなげる。その拡散手段として、ブログは有効だろう、というわけだ。

今日から秋のお祭りが始まる。10日に神祭があって、貢神社の神様に集落内に移動してもらう。その目印となる「おはけ」を作り立てる。それが今日。以前は個人の家の庭先に立てたそうだ。が、その準備も大変で、今じゃなかなか、そういかない。出れる人が「老人里の家」という集会所(昔は小学校(中学校?))に集まり、そこの庭にしつらえる。で、次の日曜、神様に帰っていただき、「おはけ」を川に流すことで、終わりになる。「おはけ立て」「おはけ下ろし」という行事。これ、残っているところが少ない伝統行事。こういう行事、地域内のことだから、地域内で残していければいい。だが、過疎高齢化の波に抗っていかなければ・・・。残し方として、新しい風を呼ぶ?

まだ消化しきれてないが、移住って考えると結構複雑。今回参加してみて、例えば、期間の長さは様々として「日常の持ち運び先」という立場と、ずっとと考える「存続させるために」という立場が二極としてある。こうも言える、「風の人」と「土の人」だ。「風の人」はいつか居なくなるかもしれない。「土の人」はそこにいる。地域を持続させる、そのためにどうするか。どうするのが効率的なのか。意外に、「灯台下暗し」なんてことかも、しれない。そんなことを思い始めた。集落の人たちはどちらに来てほしいんだろう。



今日の一枚:夜の「仁淀川移動水族館」の様子。パネルディスカッションが終わった7時半過ぎ。魅力的な企画で、その目の前に流れてる川にいる生き物を捕まえて、展示してる。子供たちは、自分のとこの川にこんなにも生き物があいるんだと大喜びだそうだ。企画の意図とは違うかもしれないが、こういったことで子供たちがこの町に残ってくれる切っ掛けにつながらないかと思ってしまう。昼間、見に行けばよかった。