二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

見るということ

2011-01-10 11:35:34 | 徒然に想う

内房にドライブに行ってきた。いつもなら、それこそ二人で猿のように走り回り、疲れるために出かけるようなものなのだが、今回は昼食から始まって、いたってのんびりムード。アナゴのお刺身、青柳のナメロウに舌鼓。挙句の果てに温泉につかる。残念なのは出かけることを決めたのが一昨日。泊って来るというわけにはいかなかったけど。

風呂がいい。昔の国民休暇村みたいなところで、さほど期待しなかったのだが…。夕陽も沈み夜の帳に覆われたころ日帰り客も使えるようになり、早速入浴。露天があったので体を流しすぐさまそこへ。なんと潮騒が聞こえてくる。海の側だから当たり前、か。そんな状況、まったく期待していなかったから驚いてしまった。もちろん堪能。そして考えた。

なぜ、「見えているものが見えない」「見えていないものが見える」なんてことが起こるのだろう。「見えるはずがない」「何としても見たい」という思いがそうさせるんだろうか。それとも、見える見えないという区別をつけようとしているから、ホントのことが見えなくなってしまうのか。では、物を見るときにどうすればいいのだろう。無になって見るしかない…? 

壁にかかっている眺望の案内板によれば、目の前には東京湾が広がり正面に富士山が望める。この帳の中では、潮騒と灯台の一定の間隔の点滅が目に入るだけ。ほんとに富士山が見えるんだろうか、そう書いてあるから見えると思うのか。自分の目で、邪心なく見てみなければ。見上げると、齢四つの月がすっきりと西の空高く。

 

 

今日の一枚:今朝の桜の様子。絵画の中で神の祝福の光を一身に受けているマリアような映像になった。偶然の賜物。