即席の足跡《CURIO DAYS》

毎日の不思議に思ったことを感じるままに。キーワードは、知的?好奇心、生活者発想。観る将棋ファン。線路内人立ち入り研究。

ジャーナリズムの本質

2011年07月22日 23時15分20秒 | メディア
先日書いた記事、マウンティング体質

内田樹さんの記事、暴言と知性については全編なるほどと思うことばかりでした。

さて、そのことについて書かれているこの記事がまた素晴らしいです。
恫喝と恐怖支配からの脱却/インターネットは日本を救ったか
何度か取り上げている、風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観るというブログです。

今日は、この部分について。
「書いたら終わりだよ。」という恫喝に関してです。(部分的に引用させていただきます。)
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松本氏は宮城県知事とのやりとりの最後に、発言はオフレコであり、『書いたらその社は終わり』と恫喝し、実際当初は大手メディアは明らかにこの恫喝に屈して沈黙していたことが後に暴露された。政治家が恫喝し、メディアがそれに屈するというとんでもない構図だ。今回は、地元メディア(東北放送)がどういう背景かはわからないが、この恫喝に屈することなく一部始終を放映し、それがYouTubeに取り上げられて、100万回という驚異的な視聴となり、本来闇に葬られていたはずのやりとりが表沙汰になった。大手メディアが松本氏の背後の団体を恐れて普段から自主規制気味であることも同時に明らかになったため、こうした大手メディアの弱腰にも非難が集中しているが、何より問題なのは、日本がこれほど危機的な状況にある中で、恫喝が実行力のダイナモ(エンジン)である人物に復興担当相のような要職を任せようとしていたこと自体だ。如何に実行力が必須とは言え、これは恐るべき事だと私は思う。
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この記事の中にもリンクされてますが、月明飛錫というブログの「書いたら終わり」― 松本復興相が迫った踏み絵という記事もポイントを突いてます。
少し長いけどポイントの部分、引用させてもらいます。
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今回問題となった会談は、3日に行われたものだったが、当日それを放送したのはTBS系列のローカル局・東北放送だけだった。その映像がYouTubeにアップされ、それが深夜のうちにネット上で話題となり、翌日メディアが一斉に報道したのだ。この経緯は、昨年の尖閣諸島問題のビデオがYouTubeにアップされてから広まったことを髣髴とさせる。マスメディアの横並び体質は、半年以上経っても、アラブに春が訪れても、まったく変わっていないということだ。

そうした中で、最初に放送した東北放送の行動は賞賛に値する。
ところで、松本氏の発言の最後は、
「最後の言葉はオフレコです、いいですか、みなさん。書いたらその社は終わりですからね。」となっている。
当日東北放送以外はどこも報じなかったのは、この言葉が効いていたのであろう。
翌日になって、多くのメディアがこの言葉を掲載したが、この発言の真意をただしたり、論評した新聞は、私の見た範囲ではなかった。

それにしても、「その社は終わり」とは、何を意味するのか?
そして、どのようにして「その社は終わり」に至るのだろうか?
常識的に考えると、「その社は終わり」というのは、倒産するか、記者クラブからはずされる、放送局であれば免許を剥奪されるなどして活動できなくなるということだ。

権力者によるこの発言は、明白な言論統制ではないだろうか。
この発言に対する批判が、いまだにマスメディア側から出ないのは、異常な事態だ。
こうした発言は政治家には珍しくない、という指摘はある。実際、そうなのかもしれない。しかし、そうした慣行があったとしても、それを守り続けるべきかどうか考える時期にきている。
昨年11月に尖閣諸島のビデオが流出したとき、インターネットの普及によって、権力側が、都合よく情報をコントロールをすることが、どんどん難しくなってきているということがわかったはずだ。今回に限らず、民主党の議員は現代の情報社会についての認識が甘い傾向にあるのではないだろうか。
もちろん、政治家の発言にオフレコがあること自体は、やむをえない。合併交渉中の企業のトップが表立って言えないことがあるように、あるいはそれ以上に、政治の世界に微妙な問題があることは間違いない。しかしこの発言は、ビデオを見ればわかるように、誰かの命や国家機密にかかわるようことではない。
たんなる「踏み絵」―その場にいる記者たちの松本氏への忠誠心を試す―でしかない。
いや、松本氏にとっては「踏み絵」ですらなく、大手メディアは政治家にとって内輪であり、当然コントロールできる存在だったのかもしれない。
それでも、この発言は、結果としてメディアの報道姿勢を試す「踏み絵」となった。
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御用組合的記者クラブの話もいろいろ取り沙汰されているけど、今回のことでクローズアップされたのは、マスメディアの姿勢です。

個人の偉そうな恫喝体質を問題にして、辞任だなんだって騒ぎ立てることよりも、ずっと大きな問題だと思います。

完全に牛耳られているその体質の中に、果たしてジャーナリズムなんてもののかけらすら存在するのか。

田原総一朗の政財界「ここだけの話」「社会党の麻生太郎」こと松本龍氏の辞任劇という記事の中にこんな一節がある。
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マスコミがだらしないのは、5日になっていっせいに松本批判を展開したことだ。岩手や宮城での発言が3日。翌4日の朝刊では小さな記事しか書かなかった。つまり、一日様子を見て、テレビのワイドショーなどがさんざん批判し、松本さんは悪だと世論ができたのを知ってから、新聞各紙はそろって強烈な批判を始めたのである。
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完全に骨抜き体質。権力側、お上の方ばかり見ている。その次に世論。

何を伝えるべきか、ではなく、何を伝えたら問題ないか、どうすれば横並びで安泰な毎日を送れるか、ということに腐心している。

普段はガキ大将の後ろについてうろちょろしていて、そのガキ大将がちょっと悪いことして先生に怒られて、PTAも含め問題になったりすると、最初からあいつはよくないと言ってる皆の後ろに回って、そうだそうだと口を合わせる。

一番最低です。
辞任したからいいとか言う問題でなく、書いたら終わりだよ、というこの発言を、なぜ問題にしないのでしょうか?
この国は当たり前のように言論統制がまかり通っている国なんでしょうか?

そうであってもなくても、今回のユーチューブ然り、昨年の尖閣諸島ビデオ流出事件もそうだけど、ソーシャルメディアが完全にそのポジションを担っているのが現実だ。
もしもソーシャルメディアやインターネットがなかったら、この国はどこまで封建的恐怖政治体質になっていたのでしょうか。まるでどこかの国みたいです。
真実が伝わらないまま、限られた、あるいは間違った情報を元に判断せざるを得ない状況を想像するのが恐ろしい。
いや、今だってもしかしたらかなりそうなのかもしれない。

我々もしっかりと見ていかなければならないのだろうけど、大手メディアが、どこも『あの書いたら終わり』ってのはどういうことなのか?って、特集を組むなり、特番をやるなり、社説を書くなりしないのは、どう見てもおかしい。
松本大臣はたまたま言っちゃったのだろうけど、その背景や伏線が絶対にあるはず。
決して彼だけの問題ではないはず。

メディアの皆様、ジャーナリストとして頑張っている皆様、
この問題、見過ごしたままでこのまま放置しておいていいのでしょうか?
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2 コメント

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書かないのが異常なような (こてくん)
2011-07-23 06:13:45
こてくんです。

「最後の言葉はオフレコです、いいですか、みなさん。書いたらその社は終わりですからね。」

オフレコは先に宣言しないと・・・・・。

いや、それにしても、この場合
『オフレコ』は容認できないし、
・・・・それ以前に書かない会社が
終わっているのに・・・・・。

結構、すごいネタなのですが、
結局なんの問題にもなりませんでしたねぇ~~~。

何故なんでしょ(笑)

日本のジャーナリズムは、「東北放送」が
辛うじて守っているみたいです。

ではではっ。
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Unknown (じい)
2011-07-27 22:27:53
 オフレコ発言の真意は、あそこに同席していた普通の感覚をもっている取材陣なら、悪意あってのことではないと理解できていたはずです。だから報道しなかったと見る方が常識的な見方です。東北放送は子供じみたミステイクをしたと思っています。彼らが編集した切り貼りの映像ではなく、あの席で交わされた全てのコトバ。また震災以降に開かれている松本大臣の記者会見や知事側が進めている特区の問題点を理解していれば、騒ぐべき性質のものではない「蛇足」だと判断する方が常識的なスタンスです。第一、オフレコ発言よりだいぶ前に、ここからはマスコミは退室してください、という場面にさしかかったにもかかわらず、いやいやこのまま取材してもいいよ、とオッケーを出して取材を続行させてくれたのは、大臣その人なんです。

 あのオフレコうんぬんは村井知事が叱責されている様子を映してしまうと知事のイメージが悪くなるからという、ただそれだけのことから出たコトバでした。脅迫的表現も、ある種の「お遊び」です。この後の騒動の中、したり顔のテレビコメンテーターや司会者などは、知事が遅れて入って来たのはマナー違反ではないというもっともらしい意見を言っていましたが、あれは間違いです。通常とおりの正しい姿勢より、重大事における自分の気持ちを見せる方が、あの場面では大切だったんです。ケースバイケース、何を優先させるのか。それが外交センスなんです。知事も痛い思いをして勉強をしたのでしょう。後任の平野大臣が1週間後に、それも遅刻して来た時は、カタチ通りの「マナー」などを重視せず、自ら出迎えていました。恩師にいわれたか、親父さんに叱られたか。忘れていた大切なことに気付いたのではないでしょうか。

 あの時の本当のミステイク。実は村井知事がしてしまったのであり、情況を冷静に判断できなかった東北放送だったのだと感じています。もちろん、あれはジャーナリズムでもなんでもなく、ただの週刊誌的ゴシップをお茶の間に提供しただけです。あのフライデーのような市民ウケする安直な映像により特区構想の不備というジャーナリズムが伝えるべき本質が隠されてしまいました。
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