mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

命は重い

2008年12月13日 | 社会・経済

 裁判員制度がはじまろうとしています。

 その候補者に裁判所から「お手紙」が届いたそうですが、皆さん自身や、親戚、知人の方で「当たった」方はいないでしょうか?

 小生の親戚で30代の甥がいるのですが、責任の重さに当惑しているという話を聞きました。

 そんなときに、先日、テレビで殺人事件の模擬裁判をやっていたのを偶然、見てしまいました。

 内容としては、物的証拠がなく、また、捜査官の取り調べが違法であるといった点が争点になっているものではなく、「死刑か無期懲役か」の判断材料として「殺意」があったかどうかが議論されていました。

 具体的には、ナイフで被害者を刺しているのですが、大腿部?(腹?)の動脈を刺せば出血多量で死亡することが解っているのだから「殺意」があったいうような議論があったと思います。

 結論は、殺意があったということになったのですが、問題は、どのような刑罰を科すかという点であります。

 その判断基準はいくつかあると思うのですが、大きなものとしては、「動機」があると思います。

 それこそ推理小説に出てくる世界かも知れませんが、被害者を殺害した理由がどのような内容で、どの程度かということです。

 解りやすくいえば、殺人の動機がやむにやまれぬもので「人情として理解できる」かということです。

 それと、遺族や社会に謝罪や反省しているかという点も考慮しているようです。

 そのほかにも判断すべき情状があると思いますが、裁判員となった人にとっては、「死刑か無期か」という判断は、重く、また、大変、難しいものだと思います。

 また、人が人の命を奪ってしまう死刑制度そのものに反対している人も多数、いると思います。

 そんなときに、12月11日の読売新聞トップに「命は重い でも・・・」と題する記事が出ていました。

 内容としては、オウム真理教の事件で被害にあった坂本弁護士の遺族(坂本弁護士の妻、都子さんの父)の気持を記事にしたものですが、「遺族になって考え変わった」という言葉は、何とも言いようのない心の変化を表した言葉でした。

 人は自分に降りかかってきた来た場合に本音が出る、というな単純なことではなく、「死刑制度に反対だ」という自分の考えが揺らいでしまうという人間の弱さというか、自分の中に「理性」と「感情」の戦いがあるのではないかと思うのです。

 東京地検が作成した友之さん(父)の調書では「・・・・、私の心情としては、1回には殺したくないという気持です。死刑台に載せては下ろし、載せては下ろし、何日もやってもらいたいです。都子の分、堤の分、そして龍彦の分をやってやりたいです。」

 と述べているそうです。

 ここだけを読んでみますと、「何と恐ろしいことを考えるのか」と感じる方もいるかと思いますが、3人がどのように殺されたのかを考えますと、心情として理解できてしまうのです。

 それどころか、小生は、遺族の悲しみが胸に溢れて涙が止まりませんでした。

 「誰も人の死は望まない。死刑が執行されてもなんにもならない。娘たちは帰ってこないのだから。でも・・・」

 この言葉には、人間としての真実が溢れていると思います。

 このような事件の裁判に自分が裁判員としてどのような判断を下すことができるのか、という思いを強くした記事でした。

 


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