mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

趣味の再開

2011年05月11日 | ブログ

 大震災の被災者でもないのに気が滅入ってブログやホームページの更新作業を休んでいました。

 また、パソコン以外では野菜や草花などの園芸だけではなく、毎日のように通っていたスポーツジムも、テレビやネットで知った美味そうなものを調理する「料理」などもやる気が起こらず「家でただボー」として休んでいました。

 でも、やっと気持ちが落ちついてきて、連休中にはナスやキュウリ、トマトなどの苗を買ってきて畑に植え付けてきました。水不足を心配していましたが、今日の雨でおちつき(活着)そうです。

 野菜といえば、原発が原因で海や陸が汚染されているため、食べ物に対する不安が拭えませんが、原子炉の制御がうまくいって放射性物質の飛散が一刻も速く止まるよう願うばかりです。

 自分の恵まれた立場を考えると、被災された皆さんに申し訳ないと思う気持ちで一杯になってしまいます。しかし、それでは何もできなくなってしまいそうです。所詮、自分には何にもできませんが、元気を出して自分のことだけでもやっていきたいものです。

 そこで、<超訳>心から安らぐ仏教の言葉(中公新書、本郷陽二編著)から人生の指針となる言葉を見つけて自分に言い聞かせています。

 今日は「光陰のひそかに移り、行道のいのちを奪うことを惜しむべし」・・・道元『正法眼蔵』の超訳です。     

 これ本ではこの言葉を「かぎりある人生だから意味がある」と題して次のように説明しています。

 「人生はかぎりあるからこそ、意味が深い。いつまでも元気でいたいとがんばるのは素晴らしい。だが、老いや死を意識から取り除こうとすると、だらだらとした生き方になってしまう。

 有限の時間を意識したときにはじめて、新しい生き方を考えようという気持が生まれてくる。

 歳月はどんどん過ぎて、大事なことをする時間は奪われていく。つねに老いや死を視野の先にとらえ、いざというときにあわてず、悔いのない生き方へと切り換えよう。」

 とても良い超訳だと思います。でも、小生は老いや死を意識から取り除こうとはしていませんが、これらを視野の先に考えて生きていくことは、できていないようです。

 大事なことをする時間が奪われていく、というのも理解できるのですが、何が人生にとって大事なことなのかの答が見つかっていないのです。

 五木寛之さんは「人生は雑事に追われて終わってしまう。」というようなことをおっしゃっていましたが、食べること、寝ること、健康のこと、家族のこと、友達のことなどで毎日が過ぎてしまい、これが「雑事」であるならば、人生は雑事の連続であるように思えるのです。

 人生の大事は「世のため、人のため」に貢献することだと思います。

 その意味では、海外旅行という趣味は人生の大事ではなく、雑事そのものかも知れませんが、仕事という大事を卒業した人間としては、旅行を楽しむという人生の楽園があってもよいのではないかと自分に言い聞かせています。

 なんだか、よくわからない話になってしまいましたが、今日から徐々に趣味を再開したいと考えています。

 とりあえず、パソコン関係は、「とっておき南イタリア・シチリア島の旅8(阪急交通)」の旅行記を手がけようと思います。

 そして、次の旅行先は、9月か10月に中国の九寨溝・黄龍や、北イタリア(ドロミテ、アオスタ)、スイス、イギリス、チェコ・ハンガリー周遊などの中からどれかに行きたい!と考えています。

 また、キュケンホフ公園のチューリップ、ベルギーのブルージュなどが見たくて、4月12日発のオランダ・ベルギーの旅(ユーラシア旅行社)を申し込んだのですが、キャンセルしましたので、このベネルクス3国には来年、挑戦したいな!と考えています。

 


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