mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

<超訳>心から安らぐ仏教の言葉:価値のない人間は生まれない

2011年02月17日 | 人生

 先日、心から安らぐ仏教の言葉(中公新書ラクレ、本郷陽二編著)の「天上天下唯我独尊(自分はこの世にただ一人の存在)」(仏陀)についてレポートしまたが、今日は親鸞の「平生業成(へいぜいごうじょう)・・・価値のない人間は生まれない」についてお伝えしたいと思います。

 その超訳は、次のようです。

「誰にも生まれてきた目的がある。生まれてきた価値がない人はいない。成すべきものがない人もいない。

 何をしたらよいのかわからない。するべきことが見つからないという人は自分が見えていないだけである。

 まず、自分を見よ。そして、自分が成すべきことを見出し、それを成し遂げる手だてをよくよく考えてみよ。

 成すべきことは、必ず成就・完成できるようになっている。あわてる必要はない。だが、成就すべきことが何であるかを見出し、その実現に向けて動き出すのは、少しでも早いほうがいい。」

 となっています。平生業成という親鸞の言葉を作者は、超訳としてこのように理解しているそうですが、小生などは、この言葉を「平らに生きれば事はなる」と読んでしまいました。

 これに似た言葉を中国の旅行で書いてもらったことがあり、今も掛け軸にして床の間にかざってあります。

 ところで、著者がこの言葉で「価値のない人間などいない。」といいたいことは、よくわかるのですが、「自分が成すべきこと」がわからないうちは、生まれてきた目的がわからないことになってしまいます。

 ここは、「自分が成すべきことを見出し」などといわないで、単純に「生きていることに価値がある」と言った方が心が安らぐのではないでしょうか。

 親鸞といえば、五木寛之さんの「人間の覚悟(新潮新書)」を思い浮かべますが、その最終章に「生きている私は悪人である」という章があり、その中の五木さんの文章が印象的です。

「親鸞は、人はみな悪を抱えて生きている。人は誰もが悪人である。といったわけですが、私にとっては、引き揚げて生きて帰って来られた人はやはり皆悪人です。

「お先にどうぞ」と他人を逃がそうとするような優しい心の持ち主は、みなボートに乗れずに置き去りにされ、途中で倒れてしまった。エゴイスティックに人を押しのけ、人を犠牲にして走った人間だけが生き残ったのですから、生きのびて、引き揚げてこられた人間は全部悪人なのだ、そういう意識は一生、自分の中から消えることはありません。

 こうして生きている自分も悪人なのだと覚悟しています。自分は悪人であり、悪を抱えた人間であるという意識の中では、すべて悪人もすくわれる、という親鸞の言葉が自分にとっては唯一の光でした。」

 と述べているのですが、五木さんの凄まじい!とでも言うべき「悪性への自覚」と、親鸞への熱い思いが読みとれて、小生などは、悪性への自覚がないな!と感じながらも、心が軽くなったように思えるのです。

 今日は「心が安らぐ仏教の言葉」から「価値のない人間は生まれない」をお伝えしました。