裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

続・ニホンゴ

2009年07月10日 09時07分48秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
きのうのブログを書いてから、日本語についてもう少し考えてたんです。
ところで、別の話をします。
むかし日本の家屋は、内と外とを「紙」で隔ててましたよね。
ふらち者が悪いことを企てれば、いくらでも突き破って入れる構造です。
これは、相手を信用するというか、突き破る・破らないの判断をゆだねるというか、「無法を働くかどうかは矜持の問題」という、そんな性善説に立ってます。
「結界を侵さない」という暗黙の約束ごとを誇りにかけて守る、そんな信頼関係が思想の根っこにあるわけです。
茶道をやってるとよく理解できるんだけど、お茶の席にもさまざまなところに結界が張られてます。
畳のへりからあっちは相手の世界なので、遠慮する。
へりがなければ、自分のひざ前に扇子を一文字に置き、彼岸と此岸を分かつ。
せま苦しい茶室に一本の線を引くことによって、せめぎあう空気が安定し、心地が据わるわけです
竹でつくられた茶道具(ひしゃく、茶せん、茶しゃく、フタ置き・・・)には、根のほうと先っぽとの中間にフシが通ってて、それもまた結界になってます。
道具を扱うときは根っこ側を持ち、水や茶に触れる先っぽ側(つまりフシから先)はお客様のものとして尊び、決して素手で触れることはありません。
この相手との距離を保つ不可侵の結界は、「わたくしの領土に踏み入ってくださるな」という警告ではなく、「あなたの世界を侵しません」という、へりくだった意味をもってます。
なんとわびた文化ではないですか。
日本語にも同様にそんな美意識があるのでは?と、ふと感じたわけです。
ずけずけと本音で語ることによって相手からの信頼を得る外国語の「効率的」「合理的」レトリックもいいけれど、日本語には日本語の作法があって、それは「相手の心に踏み込まない奥ゆかしさ」のレトリックなのです。
謙譲とか尊敬とか建前とか読み合いとかめんどくさい技術も必要だけど、そこには「相手へのおもんぱかり」という底通した心根が流れてるのでした。
これを感じたというのもですね、例のマイケルの追悼ライブをテレビで観てたのですよ。
そこにマイケルの幼い娘が出てきて、父親に最期の言葉をたむけるわけです。
「どうしても言っておきたいの。パパ、愛してる!」
日本人ならここは、「安らかに眠ってください」とか「今までありがとう」あたりをあてがう場面です。
つまり両者の違いは、自分の立場から言いたいことを言う「自分主体」か、相手の立場に立って言葉に気を配る「相手主体」か、ってことなのです。
文化の違いだなあ、と感じるとともに、日本語の文章表現の奥深さに気付かされた事件なのでした。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
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