裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

超絶ピアニスト

2011年05月10日 16時27分09秒 | レビュー
ピアノの練習を(たま~に)してます。
楽譜が読めないんで、音を聴いてはコードを探し、さいあくユーチューブで映像を見て鍵盤の位置を探り、探り出しては特殊な方法で譜面に書き付け、実際に反復して、指に覚え込ませる方法をとってます。
で、↓今いちばん聴き込んでるやつ。
River man
このメドベージェフに似たおっさんの、ナルシズムと隣り合わせのリリシズム、っつの?これにハマってまして。
左手で正確にリズムとコードを刻みつつ、メロディラインをつむぐ右手のタメがハンパなくケレン味を出してます。
縦軸と横軸の綾ってのはこうして織り成されるものなのだ、ってのが端的かつ究極的に理解できます。
それにしても、右手と左手でオーケストラの楽感を構成するのがピアノって楽器の特色ですが、こんなにも別々のパートを、あるいはへだたった音づくりと言っていい作業を、同時にやってのける(しかもアドリブで)、その頭の中をのぞいてみたいです。
ああ、後世ではピアニストになりたい。
現世でも努力してみろ、って話ですが、ピアノを前に「いよいよ」ってむつかしい作業に入ると、頭が煮え立ってくるんだよね・・・
だから、おいしいとこだけ練習してます。
そこまでの人間よ。

気に入ってくれたひとは、↓こっちも聴いてみて。
The Falcon Will Fly Again
ああ、ピアノの音を聴いてるときがいちばんしあわせ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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エイプリル・フール

2011年04月01日 08時54分24秒 | レビュー
さて、4月1日には毎年ブログでウソをついてるわけだけど、今年もみなさんに脱力してもらおうかな。
これからのたまうことは、全部ウソだと思ってほしい。
本気に受け取ってもらっては困るので、そこんところをよろしくお願いしたい。
うちのよめはんは、ほんとにいいひとなんだ。
オレがこの現世で引けたいちばんの当たりクジと言える。
かれこれ20年もつき合ってるけど、飽きがくるということがない。
いついてもたのしいし、どれだけ話しつづけても話題が尽きるということがない。
よめはんは無口に見えるけど(見えないか)、とてつもなくよくしゃべるひとだ。
「なんか面白い話しして」とムチャを振っても、ネタを無尽蔵に持ってるので、すぐさま用意して、そして「やめてよし」というまで話しつづけてくれる。
話法の天才だと思う。
内容はたわいのないものだけど、毒気がなく、トーンが丸いので、うっとりと聴き入らされる。
そんな彼女は、終電まで働きづめに働いて、へとへとのからだで毎夜、午前1時半近くに帰ってくる。
ところが帰り着くと、「ごめんね、おそくなって」などと殊勝なことを言う。
ひとのことばかりを考えてる。
粗末なメシを与えても、つねに「ありがとう」「おいしい」と言ってくれる。
よめはんは小食で、たちまち食事をすませてしまうのだが、オレは酒を飲みながらだらだらと長々と食べつづける。
その間、それが作法だとでも思ってるのか、読みたい本も新聞も開かず、横で「今日の出来事」を聞かせてくれる。
で、オレがついに食べ終わると、後片付けをし、新聞を読みはじめる。
そうして読みつつ、ことりと眠りこけてしまう。
あぐらをかいて座ったままの姿で。
いつも限界まで疲れ果て、いつもゴリゴリに凝り固まった肩を背負ってる。
このひとの眠りは、気絶に近い。
気を失ったときだけが、気の張りから解かれた状態になるのかもしれない。
ポカポカカーペットに横にしてやると「しあわせだ」などと口ごもって言う。
なのに頭の中は仕事のことでいっぱいになってるので、寝言で「かいぎ、うちあわせ・・・」とか「昨対比120・・・」とか「カップ&ソーサ-1600円で・・・」などとつぶやいてる。
たまに、どういうわけか「特約マックスつけてください・・・」などとも言う。
どんな夢を見てるのか。
オレは根っからのエピキュリアンなのだが、よめはんは禁欲的哲学によって自分の人生を導こうとする。
それでも両者にまったく対立という事態が起きないのは、すべてよめはんの聡明さのなせるワザだと思う。
ダンナが、マンガを描く、と言いだそうが、陶芸家になる、と言いだそうが、小説家になる、と言いだそうが、「そうですか」と相づちを打ち、一切を吸収してしまう。
「宇宙飛行士になりたい」と言いだしても、同じ反応をするにちがいない。
相手のことを信じきってる。
驚くべき自然体。
ひとの悪口は決して言わないが、社会の理不尽に対しては堅固な意志を持ち、信ずるところに忠実に行動する。
葬式に遅刻してきた坊さんを親戚一同の前で一喝するし、集団で痴漢行為をはたらく卑劣漢を見つければ、相手が何人であろうと食ってかかっていく。
電車内でエロ画像を見てるオヤジの携帯を叩き落としもするし、寿司屋でタバコの煙が漂ってくれば、メニューをあおいで煙を押し返しもする。
自分の倫理観に照らした「悪」を絶対に許さない。
なのに万人に対して寛容で、自己犠牲のもとに博愛を振りまき、惜しむことを知らない。
野心のない純粋な情熱をみなぎらせつつ、水に花を流すように気負いなく振る舞う姿には、つくづくと感心させられる。
顔の造作は特別に整ってるとは思えないが、その豊かな表情はしみじみと味わい深い。
風呂にはふたり一緒に入るわけだが、鶏ガラのような肢体についたおっぱいの形の美しいことこの上ない。
今年40になったが、肉体も精神もまったく老いることを知らないのは、みずみずしい感性のおかげにちがいない。
素直さは才人の第一の要素だが、それが生まれつきに備わってる。
こんなにも無垢に笑うひとを見たことがない。
それが清潔な心の現れであることは疑いがない。
この世の中で、最も美しいひとだと思う。
小さくてか細いのに、しなやかで、強い。
よくこんな拾い物を見つけたものだと、ほとほと自分の眼力に恐れ入る。
よめはん、万歳。
さて、思いつくままにウソをついてみたが、こんなところか。
4月1日だからと思って、調子にのって長々と書き連ねてしまった。
ウソをつきすぎだろうか?
ま、一年に一度のことだから、これくらいやってもバチはあたるまい。
とにかく、ここに書き出したすべてがウソなので、うっかりと本気に取らないように。
4月1日の、なんと便利な日であることか。

画面左がよめはんです(ウソ)。

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長谷川穂積

2010年11月26日 23時54分27秒 | レビュー
ぼくはかつて、ボクシングファンでした。
プチマニアといっていい程度の。
タマビでボクシングをやってる友だちに頼んで、ド素人なのにリングに上げてもらい、他流試合に挑んだこともあります(こてんぱんにのされたけど)。
「ボクシングマガジン」は、毎月欠かさず買ってました。
もう15年ほども前だけど、当時その誌面で香川照之がコラムを書いてて、あまりの博識と達見(つまりオタクっぷり)に「なんとすごいボクシング・ジャーナリストがいるものだ」と感心したものでしたが、なんだ、俳優さんだったのね。
ま、こんな話は関係ないのだ。
かっこいいなー、ホヅミは。
こんなに魅力的なチャンピオンはいませんね。
うまいし、強いし、美しい。
ディフェンスを見てるだけで陶然としてしまいます。
なのに前に前に出ていってギャンブルしつづけ、得るべきものを獲りにいきます。
気高いボクサーです。
サムライといってよろしい。
昨今の騒々しいボクシングシーンにうんざりして、ろくに情報収集(つか観戦)もしてませんでしたが、ホヅミの試合は別!
彼のファイトは、掛け値なしの傑作芸術です。
弱い相手と凡庸な戦いをして大金をふところにしてる亀田兄弟や内藤なにがしに、爪の垢を煎じて飲ませたいです。
この熱さを見て、彼らはなにか感じるのかな。
それでも歌の練習をするかな。
バラエティーに出まくれるかな。
やっぱし、ひとに感動を与えるのは、一意専心の清潔な心根です。
圧倒的なものを学ばされます。
ずっとチャンピオンでいつづけてほしいです。

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飛ぶ本

2009年10月28日 23時45分09秒 | レビュー
無人島に一冊を持っていくなら、サン=テグジュペリの「人間の土地」にしよう。
・・・と以前このブログに書いたのですが、こないだ新聞読んでたら、なんとなんと宮崎駿さんの座右の書もおんなしチョイスでした。
しかも彼も同様に堀口大學氏の訳について言及してて、この考え方のおんなしっぷりにうれしくなってます。
この本は、「星の王子様」を著した作家の、自分の冒険譚を素材にした哲学書みたいなものです。
ヒコーキ乗りらしく、人間界の暮らしっぷりを俯瞰でとらえ、神様の視点で人間の苦悩と精神世界を描いてます。
大傑作というよりは、さまざまなエッセンスをぶち込んで凝縮した、珠玉の知性。
みっしりと、本当に濃密に思想が詰まってて息苦しくなるくらいなんですが、そのおかげで、何度しがんでみても新しい味わい方ができるので、無人島に持っていくにうってつけ。
好みは絶対に割れる、異様な文学ですが、ヒマすぎるひとは読んでみてもいいかも。
ぼくは常にカバンの中に持ち歩き、アホすぎる人間たちに囲まれた電車内で、彼らから隔絶された文字の世界に閉じこもってます。

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プルートゥ

2009年07月24日 08時06分25秒 | レビュー
ご存知のとおり、ぼくは週刊誌でマンガを描いてました。
その頃は精神を病んでて、とてもひとのマンガなんて読めなかったんだけど、最近はたのしく読めるようになりました。
「プルートゥ」が完結しました。
「鉄腕アトム」の中の一話を原案に、浦沢直樹さんが長大なミステリーに仕立て直したものです。
おもしろかったなー。
手塚さんの原案も読んだけど、どちらにも打たれました。
浦沢さんのマンガは、いつもその場限りの思いつきでディテールを煮詰めすぎて、後々つじつま合わせに苦労するきらいがあって、好きじゃありませんでした。
宮部みゆきさんの小説のように、局所局所はすごくおもしろいんだけど、最後には茫洋としてなにも残らないというか。
それがこの作品は、細部を描き込みつつつくり切った、というか、きちんと輪が閉じて得心できる内容になってます。
手塚さんの威光もあろうけれど(おかしなもの描くわけにいかないものね)、浦沢さんのイマジネーションと画力によって、オリジナルな仕事に昇華されてます。
それにしても思い知らされたのは、画力=説得力ってことですね。
大傑作だと思います。
みんなも読んでみてね。
全8巻、工房でお貸ししますよ。

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マイケル

2009年06月27日 09時32分50秒 | レビュー
スーパースター、と言えば、つまりそれはマイケルのことを差してました。
それくらいの存在だったなあ。
不世出のひとです。
もうこんなひとが現れることはあるんでしょうか?
プレスリー、ビートルズ・・・んでマイケル・ジャクソン。
ここまで図抜けたヘビー級は、没個性で軽薄短小、そして「カワイイ」の移ろいの激しいこの現代では、もう打ち止めでしょう。
ローリング・ストーンズは、その最後の候補者だけど、長いキャリアの間に俗に落ち入りすぎ、ミステリアスでなくなりすぎ、つまり生きすぎました。
それを恐れたんじゃないかな、マイケル。
若いうちに死ななきゃ、伝説にはなれないものね。
焦ってたのかも。
50、という彼の享年を顧みても、やはりちょっと「マイケル」という存在をつづけるには違和感が残るものね。
そのへんも、見てる側の勝手な印象にすぎないんですが。
でもやっぱし、永遠に少年でいたいひとには、この事実は恐るべき負担だったに違いありません。
90になったマイケルをほんのちょっと見たかった、とも思いますけどね。
ただ、90や100に至っても、マイケルなら少年のようなたたずまいを貫いてるだろうと、容易に想像できます。
さまざまな変態をくり返しながらね。
そんな幻想を抱かせるところも、スーパースターなのです。
アーメン。

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評論って

2009年06月14日 09時11分22秒 | レビュー
開高健でいちばん面白いのは、評論です。
彼の本質はルポルタージュで、創作はあまりうまくない気がする。
ストーリーテリング(話の筋立て)で読まそうって作家ではなく、レトリック(文章表現)で引き込むひとだから、ノンフィクションが生きるわけです。
彼の表現は、俳句のように濃密で簡潔です。
いっこの言葉で物事をデッサンする達人。
「都が焼け落ちるような夕陽」とか、「青空にシンバルを一撃したようなひまわり」とか、「おかゆのように暑い夏」とか、風景がまざまざと見えてくるようではないですか。
戦争を描くためにベトナムで従軍したり、世界を描写するために釣り竿一本かついで冒険の旅に出たり、と素材を求めつづけたひとですが、やっぱり煮詰められるのは文章表現の方で、創作にはならなかった。
結局ルポルタージュが面白すぎて、それを取りまとめようとする創作の方は、逆に散らかっちゃう印象です。
彼の創作で最も面白いのは、芥川賞を獲るデビュー前に書かれた「パニック」「裸の王様」「流亡記」きり(ぼくの個人的意見)で、あとはもう達者な作品になっちゃう。
そのかわりに描写力が磨かれ、ルポルタージュがとてつもなく面白くなってくわけです。
それを煎じ詰めたのが、評論。
評論が面白い作家、なんてのは聞いたことがないけれど、このひとがそうです。
ひとの作品を介して自分の表現をする、というのが評論だけど、このひとは、評論する相手の作品世界の裏側にある膨大な広さを使って、別の世界を描き出してみせます。
それは説明でなく、評論する相手を主人公としたモノガタリ、という新たな創作になってくわけです。
沢木耕太郎の映画評論は、ただのネタばらしとなるあらすじ説明と粗悪な感想とに終わってるので、新聞を読むぼくらを心からがっかりさせてくれるわけだけど、評論の本当の意味は、対象作品の持つ世界の新たな切り口での描き出しなわけで、作品の再プリントではないのです。
もちろん評論は、ある意味でのルポルタージュですが、そのルポは、本人が描き出す創作世界よりも入念に練れた創作なわけ。
評論にも「おもしろい作品」ってのがあるわけですね。
ハラハラドキドキな評論ってのも奇妙なものだけど、開高さんのそれは、確かな審美眼と咀嚼力と明晰な表現で貫かれてるので、耽溺・・・じゃなく、耽読させられます。
池波正太郎の軽いやつと、開高健の重いやつを、交互にバスタブに持ち込んでは長湯してる最近です。

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ちあきなおみさん

2009年06月12日 09時07分31秒 | レビュー
よくいく場末酒場は、二丁目で修行した「おねえ」なマスター(ママ?)が切り盛りしてます。
そこではよく、ちあきなおみの歌がかかってて、これにはまったくもって聞き惚れさせられます。
掛け値なしの天才です、ちあきなおみ。
聖飢魔2の小暮閣下が、「東海林太郎や淡谷のり子は歌がうまいというひとがいるけれど、それは間違いだ。吾輩のように、腹から声を出してこそ、歌がうまいと言えるのだ」と語ってるけれど、大声を張り上げてビブラートを効かせればうまいというものでもない。
ちあきなおみの声は、とても低くてささやくような声なのに、なぜか高音で伸びやかに聴こえます。
遠くを吹き渡る風みたいな声。
「もののけ姫」の米良美一の声質に近い。
米良さんは、カウンターテナーという特殊な音域をあやつるオペラ歌手さんだけど、彼はただ単に、女が歌うソプラノのパートを男の声で歌い上げてるわけじゃありません。
低くて荘重な男の声で、高い音階を、しかも甲高く抜けることなく声を張って歌い上げるのは、天性の資質がなきゃできない離れ業。
それはもう、もののけ姫を聴いてくれたらわかると思うけど、実にナチュラルで、風が絹を振るわすような声ではないですか。
そんな声に近いのです、ちあきなおみ。
DVDでみる本人のたたずまいにも、もののけのようなすごみと、気狂いじみた才気が見てとれます。
歌をうたうという行為は、もちろん「表現」なんだけど、このひとたちをみてると「発露」という言葉を使いたくなります。
そのことをするという目的以外のために生きてる価値などありましょうか?的な、自分が内包する本物の価値をですね、本人たちは理解してるんだかしてないんだか、露骨に表出させて、しかも自己顕示のかけらもこちらに感知させない。
技術もあるけど、第一に、素材だと考えざるを得ない。
だからですね、こんなひとの歌は、どっしょーもなく美しくて、とてつもなく魅惑的で、怖いです。
そして反面、やっぱしこんなぼくも笑いだしそうになるのは、なんでだろ?
本気であればあるほど、失礼だけどおもしろいです、ちあきなおみ。

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盲目のひと

2009年06月09日 00時36分55秒 | レビュー
午後9時になったんで、NHKにチャンネルを合わせると、辻井さんという盲目のピアニストが海外のすごいピアノコンクールで優勝した、という話題をニュースの冒頭で伝えている。
画面がスタジオに切り変わって、美しいキャスターが「ニュースウォッチ9です」と挨拶したあと、解説委員と声を合わせ、「辻井さん、おめでとうございます」と祝福のコメント。
オバマがサルコジと会談し、北朝鮮が即戦的な核実験を計画し、秋葉原の虐殺からちょうど一年後を迎え、というこの時節に、この話題をヘッドラインに持ってくる。
いいね、このセンス。
そして、キャスターと解説委員との声の合わせ様にほほえましくなる。
本番前に練習したにちがいない。
朝日新聞の夕刊を読むと、「この全盲のピアニストは、聴衆を驚かせるだけじゃなく、感動させる」と書かれている。
通常、盲目のひとは「ピアノが弾けるだけで感心され、ほめられる」のだが、それは差別なんである。
しかし、それはどうしてもほめたたたえられるべき奇跡だと思えるので、ぼくらは処置に窮してしまう。
ただ、件のツジイさんなる人物は、そのレベルをはるかに凌駕して、ひとの心を動かす境地にまで達しているらしき様子。
この事実を知り、ぼくらは実にらくちんに喜ぶことができるのだった。
ぼくの大好きなミシェル・ペトルチアーニというジャズピアノ弾きは「コビト」で、つまりなんというか、オースチン・パワーズに出てくるミニー・ミーみたいというか、チャーリーとチョコレート工場に出てくるウンパ・ルンパみたいというか、そんな容貌なのに、すばらしく知性的で美しい旋律をつむぎ出す大天才です。
ぼくらはそんな、「事件」と言ったらまた差別になるんだけど、そんな事実に出くわしたとき、驚きとは別格の胸の突かれ方をするわけ。
そこには、音楽に向かう姿勢や、思い入れや、凡人が想像だにし得ないような努力といったものに対する尊敬の他に、哀切感や、言えばカワイソ感がふくまれてて、ぼくらはその点を意識するつもりがなくても、知らず知らずにそれらを加味しつつ、「いつもより多めに」揺さぶられてしまう。
ぼくはペトルチアーニの音楽が純粋に好きで、来る日も来る日も聴いてた時期があったんだけど、その底には「こんなにも手足が短いひとなのに」という差別意識がなかったか?あったんじゃねーの?と考えると、なかなかに自信がない。
ツジイさんというヘッドラインの人物も、「盲目の~」とあえて紹介されなければ、こんなにも大ニュースにはならないような気がしたり。
「盲目である」ことを伏せて普通に報じても大ニュースだったのかもしれないが、だったらそういう、つまり「盲目のひとが賞を獲った」という言い方でなく、「賞を獲ったのは盲目のひとだった」という言い方をせねばならない。
そのへんは、本人がどう感じてるんだろうなー?と思わずにはいられない。
むつかしいな。
ところでアメリカには、驚くなかれ「盲目の野球解説者」というのがいるのだ。
彼は、点字で記された過去の膨大なデータを超人的な速さであやつりつつ、滑舌なめらかに紹介し、アナウンサーの実況を助ける。
野球というスポーツを実際にその目でみたこともない人物が、である。
そして彼は、「どんな解説者になりたいですか?」というインタビューに、こう答える。
「ずっと後になって、ああ、あいつはいい解説者だったね、って言われたいね」
と。
そして、
「そういえば、あいつは、目が見えないんだったね、と」
深い・・・
そして、自分の置かれた立場と、本物の精進の目標とを、よく理解している。
そこまでいって、ようやく差別とは無縁となるんである。
やはり、むつかしい。

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ルーシー

2009年05月07日 09時38分26秒 | レビュー
六本木の美術館でやってる「ルーシー・リー展」を観にいってきたんだけど、あかんかった~。
なんやろなー、この街の軽薄さを象徴するようなこのこざかしい陳列は・・・
あのね、来場者はルーシーの器を観にきたんだから、当然、器を見せるように並べるのが美術館の責任ってものだよね?
だけどここにあったのは、巨大な水盤のあちこちにルーシーの作品を配置した「学芸員によるインスタレーション」とでも呼ぶべきアホ細工。
なに勘違いしとんねん~!
器自体が遠くて見えへんわ~。
「ルーシーの器展」を謳うこの展示場に連れてこられて、「まあ、部屋全体がキラキラしててとってもきれいでその中にルーシーが散りばめられててとっても浪漫ちっくね~」などと大ヨロコビする客がいるとでも思ってんだろうか?
独りよがりの主催者側が、作品を弄んでるとしか思えなかったなー。
考えるに、安藤忠雄大先生が図面を引いたこのすばらしい建物と、ルーシーの器をコラボさせよう、という意図だと思うんだ。
だとすれば、それは安藤忠雄の作品でもルーシー・リーの作品でもなく、レイアウト者の作品、ということになろう。
了見違いもはなはだしい。
フンイキだけやん~・・
やはり六本木とは、そういう街なんだろうか?

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