裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

陸前高田ボラ紀行・4

2011年09月30日 09時52分39秒 | 被災地ルポルタージュ
雨足が強くなり、現場での事故が心配、ということで、ボラセン本部から作業中止勧告。
午後早くのサスペンデッドとなった。
道具を片付け、車に積み込み、撤収。
その帰りの道すがら、被災地の状況を垣間見ることができた。
その有り様たるや、すさまじい。
宮城野や石巻の海岸線にもギョッとしたけど、ひろびろと海抜ゼロメートル地帯のひろがる陸前高田の侵され方は半端じゃない。
壊滅状態。
家、街、市・・・生活環境の一切が解体し、海の藻くずとなって流され、潮が去ったあとには、広大ながれきの原がひろがってたのだと想像できる。
それらをいっこいっこ寄せ集め、几帳面に分別し(このへんが日本人はえらい)、木材の山、コンクリートの山、車体の山、タイヤの山・・・と、人間は遠大な山脈を築いてく。

かつて市街地が存在した場所は、つるんと更地にされ、あわてて設えた信号機と電柱だけが彼方まで連なる。
地盤沈下した土地は、いまだ海の波に洗われる場所もある。

被災地の撮影はあまりお行儀のいい行為じゃないので控えてるんだけど、少しだけ公開。
球場も海の底に沈み、いったいなんの競技場なのかわかんなくなってる。
ゼロメートル地帯はどこもこんな感じなので、どう生活を立て直したらいいのか、という根本的な問題に突き当たる。
その荒野のはるか後方に、山がせり出してくるわけなんだけど、その緑豊かな樹々の中で、最前列のものだけが葉を赤茶けさせ、塩枯れしてる。
どの山々のどの個所を見てもそうなってるので、本当に平野全体が津波に呑まれたのだとわかる。
フロントラインで身を呈して頓死するのはフォワードの宿命とはいえ、塩分で干涸びきって大往生する彼ら第一列の姿は劇的で、心動かされる。
その面積もすごいが、高さもすごい。
わずかに残った鉄筋の建物の中で、最も高層なビルがある。
その10階建ての9階までが、窓を突き破られてる。
そこまで水がきて、素通しに抜けてったのだと知れる。
ほとほと、自然の脅威に畏怖したくなった。

つづく

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陸前高田ボラ紀行・3

2011年09月28日 10時33分27秒 | 被災地ルポルタージュ
まずすべきは、足の確保。
このボラセンから泥出しの現場までは、数キロもあるのだ。
徒歩行はもちろん無理。
同志となったとなりのおっちゃん二人組に話しかけ、ワゴンの後部に押し込んでもらうことに成功した。
この二人は、東京の町田から来てる仲良しご近所さんらしい。
テントで寝起きし、アウトドアの自活をしながら、数日間のボランティア参加中。
世の中には強くて楽しげなヒトビトがいるもんだ。
そんなこんなで、いざ出発。

途中、「奇跡の一本松」の脇を通り、その生命力に感動した。
この松は、海岸線に七万本も密生してた松原の中でただ一本、津波に耐えて生き残った、強くて孤独なコ。
樹丈が30メートルもあって、震災前から抜きん出てたらしいけど、あっち方に見えるユースホステルが身を呈して波から守ってくれたおかげで、奇跡的に助かったんだそう。
だけどいろんな理由づけの中でも、オレが信じるのは「意思」説ね。
やっぱしこのたたずまいは、どう考えてみても、神様からの「東北よ、がんばれ」のメッセージ。
その強い意志が、この松をがんばらせたのだと考えたい。
その点にも感銘を受けるけど、なによりもその凛とした美しさに見惚れたよ。
自然はすごいな。
・・・だけどこの奇跡も、風前の灯と言わざるをえないのがつらい・・・
一本松の塩枯れはかなり進んでて、幹は土気色、葉はまっ茶っちゃだった。
なんとか回復して長らえてほしい、と願わずにはいられないよ。
被災地のヒトビトのためにも、この日本の希望のためにもね。
さて、現場着。
高台に立つお寺の石段のふもとの側溝をきれいにせよ、というのがこの日に与えられたミッション。
しかし寺に着いてはみたものの、はて、側溝なるものの姿かたちが見えない。
聞けばこの辺りは、震災が起きた後の数ヶ月間は、海の底となってたらしい。
ようやく潮は引いたが、土地には海砂とヘドロが堆積し、溝という溝は埋め立てられ、平らな状態になってるという。
なるほど、と思い、まずは側溝の場所探し開始。
道路に積もった泥をこそげ取ってくと、「発見!」。
剣スコを突っ込み、砂質な泥を掻き出して、それがU字溝であることを確認した。
見つけたら、どんどん掘り起こして、長々と連なる側溝を復元してく。
まるで遺跡の発掘作業だ。
剣スコで泥をほじくり返し、角スコですくい出し、ネコで移送する。
泥といっても、海砂と汚泥の混合土がガチガチに固まったものなので、相当な力がいる。
しかも、至るところでがれき(生活用品など)が噛んだり、ごろた石が眠ったりしてて、なかなか順調にとはいかない。
被災地の草刈りなどをしててもわかるのだが、もともとあった土地の上に、汚泥が堆積し、そこにがれきや岩石が食いつき、その上を草が覆う、という構造になってる。
それらは重機ではなんともならないので、結局はひとの手でやるしかないのだ。
そして、まさにそのためにボランティアたちは集まってくるのだった。
雨は、降ったり、やんだり、強くなったり、そぼ降ったり。
カッパの外はびしょぬれ、内側は汗まみれ。
それでもみんな、黙々と作業を続け、時間を惜しみ、休むことを知らない。
発掘された側溝の底やサイドに張り付いた泥をこそぎ、ピカピカのコンクリのU字溝が現れ、それが長城のように伸びてく。
仕事の結果には充実感を覚える。
けど、まったく人手が足りず、たいした距離にはならない。
この側溝が付近住民の生活の役に立つ日は、ずっと先。
それでも、一千回もスコップを振るい、てんこ盛りのネコで定点間をひたすら往復する。
こうして、ちょっとずつ、ちょっとずつ、復興は進み、町はピカピカになってくのだった。

つづく

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陸前高田ボラ紀行・2

2011年09月27日 11時21分22秒 | 被災地ルポルタージュ
折りたたみイスを引っぱり出し、ひとりぽつねんと文庫本を開く午前7時。
たしかここで、8時半になったらボランティア団体の「マッチング」が行われるはずなのだ。

マッチングというのは、被災地の各方面から出された要望と仕事の諸条件を、全国から集まってくるボランティアたちに提示し、突き合わせる作業だ。
ボランティア団体とは、主にそのコーディネイトのために存在する。
この小雨そぼ降る山間部の掘っ建て小屋がほんとにそんな競り場になるのか?と、少々の疑義が脳裏にきざすが、信じて待ってみる。
するとすると、8時を過ぎた頃から見る見るうちにひとが集まりはじめ、マッチング予定時刻には500人を超える勇者たちが、この敷地を埋め尽くしてしまった。
ちょっと感動を覚えたほどだよ。
何人かで車で乗り合わせてこの場に駆けつける者たちもいれば、大荷物を背にチャリで乗り込む猛者らもいる。
「参加は二名以上のグループ限定(安全確保のため)」との触れ込みだったが、オレ自身を含めた無鉄砲な個人参加者も数多い。
しかしなんといっても目立つのが、観光バスをチャーターして大挙する学生や企業の団体だ。
東京経済大学、ものつくり大学、専修大学、新潟なんとか大学・・・
彼らはたぶん、昼間に被災地で汗を流し、夜には温泉宿に逗留する「ボラツアー組」なんだけど、なんとすばらしい活動ではないの、どんどんやんなさい。
オレは、被災地をその目で見ることが最大最重要の目的と考えてて、これ以降の日本のルール、ひいては世界スタンダードな思想・人間性を形成するために、現場に足を運ぶのは必要不可避な作業だと思ってる。
見て、何かを感じるためにバスを出してくれるなら、ほんとにそれは「誰のためにもなる」すばらしいことではないの。

というわけで、午前8時半ピッタシにマッチング開始。
バス組は、広大な土地に残されたがれき処理のために、十把一からげに次々と狩り出されてく。
オレたち個人参加組は、被災現場からの要望書にリストアップされた比較的小規模な仕事の中から、おのおのに求職する。
具体的には、こんな感じ。
「なんとか町、かんとかさん家の畑、草刈りとがれき撤去、30名」
「なんとかさん家の家財道具移送、男子3名」
「なんとか寺の前の側溝の泥出し、屈強なひと10名」
あと、水没しちゃったジャズ喫茶のレコードのリストアップに女子二名、とか、掘り出されたアルバムや写真の洗浄に女子数名、とか、力がいらない仕事も山ほどあるんで、「力になりたいけど足手まといになるんじゃないかしら?」と悩んでるか弱いヒトビトも、まずはいってみてよね。
力になれないひとなんてひとりもいないんだ。
さて、んなわけで、マッチング担当者が「やってくれるひと~」と仕事を提示したときに、挙手の早いもん勝ちで競り落とさなければならないので、そこはほとんど魚市場の雰囲気となる。
オレはもちろん、マッチョ仕事希望。(力仕事は、なぜか非常に競争率が高い。わかりやすく役立ってることが自覚できるせいか?)
最前列に陣取ってたおかげで、無事に「お寺の門前の側溝の泥出し仕事」を獲得した。
聞けば、あの「奇跡の一本松」のすぐ近くらしい。
作業着に着替え、ヘルメット、雨ガッパ、さらにクギ踏み抜き防止の鉄板入り長靴を装着。
仲間は10名。
角スコ、剣スコ、ネコ(一輪車)、土嚢袋、装備完了。
いざ、張りつめて。

つづく

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陸前高田ボラ紀行・1

2011年09月26日 11時30分54秒 | 被災地ルポルタージュ
午後10時50分、池袋発の深夜バス「けせんライナー」で、被災地・陸前高田に向かった。
だけど、現地がどんな状況なのか、まったく情報なし。
ま、なんとかなるだろう、という、いつもの出たとこ勝負な旅。
ところが今回は、想像をはるかに超える、オモシロ悲しい出来事の連続でありました。
例によって、現象面の描写(ウエット忌避)による紀行記としたいので、「たのしんで」読んでちょうだい。

さて、定期便バスはゆきます、およそ7時間の走行。
「陸前高田です。お降りの方~」というバス運転手の声に起こされ、小雨そぼ降るその地に降り立った勇者・わが輩。
第一印象は、ズバリ、
「・・・!」。
「うわあ、悲惨・・・」でも「ようし、がんばらねば・・・」でもない意味で、思わず息を呑んだ。
なんでかっつーと、放り出されたその場所は、山ふところにいだかれた中腹にたった一軒きり建つ小さな小さなスポーツジム、だったからさ。

起き抜けのボケた頭で考えてみるが、どうにもわけがわからない。
なぜここで降ろす?
もちょっと大きな駅の前とかじゃなくて?
周囲を見渡すと、ここで降車した数人のヒトビトは、どうやらボランティアというわけではなく、お里帰りな雰囲気。
それぞれにお迎えの車がきてて、次々に乗り込み、散ってく。
目の前にぽつねんとたたずむ平屋建てのスポーツジムは、もちろんこの早朝6時には扉を閉ざしてる。
公共交通機関も皆無。
よし、だったら徒歩で、と地図を見ると、ボランティアセンターまでは、一本道を「すぐそこ」と見える距離。
ところが現地のひとに聞いても、とても歩ける距離じゃないよ、道路がないからシンプルに見えるだけだよ、という。
が、途方に暮れててもしょうがないので、いざ、ヒッチハイク開始。
「役場で臨時職員をやってます」という初老のご夫婦が相乗りを受け入れてくださり、命拾いした。
助けにきたつもりが、はやくも助けられる、間抜けな旅のはじまりと相成ったわけだ。
ご夫婦は、家を流され、老いた母親をさらわれ、現在に至ってもまだ仮設住宅に身を置く被災者さんだった。
車中、様々な重い話をほがらかな口調で語ってくださる。
大変な思いをされてるのに、「一目見てガテン系ボランティア」のオレをボラセン前で降ろすと、ふたりで深々と頭を下げてくださった。
お礼を言うべきはこちらのほうなのに、と当惑しつつ、決意が固まってく。
なのに、目の前に現れたボラセンを見て再び、
「・・・!」。

周囲になにもない山腹の平場に、コンテナ、プレハブ、物置き小屋を配置しただけのその施設には、人っ子ひとりいない。
本当にここで何事かが行われるのか?
いよいよ途方に暮れつつ、まずはセルフタイマーで記念写真を撮った。


つづく

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諦めるな、と帆立が言う。

2011年09月23日 10時05分02秒 | 被災地ルポルタージュ
ちょっとしびれた、現地の復興キャンペーンポスター。
この訴求力!
盛岡で見つけました。
パソコンの大きな画面でスクロールしながら見て、味わってね。



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ふたたび北へ

2011年09月16日 08時53分32秒 | 被災地ルポルタージュ
いい感じに5連休ができたんで、今度は陸前高田(思いつきで決めた)にいくことにした。
・・・はいいけど、いったいどのルートでいけばいいのか?
車なんてもちろんないんで、汽車か、バスか、船しかない。(同志が見つかれば「相乗り」って手もあるが)
それにしても、かの地の路線の心細さときたら。
交通機関をいろいろとネットであたったものの、情報きわめて少なし。
それに輪をかけた混乱と猥雑さ。
さしあたり陸前高田のボランティアセンターまでたどり着ければ、そこで仕事のマッチングをしてもらって、半日のがれき処理でもして、車の相乗りかヒッチハイクでベースキャンプにまで連れてってもらって、無料の雑魚寝部屋に泊めてもらえそう。(「してもらって」ばっかだね。しかし、これこそがボランティアさ)
が、肝心のボラセンまでの足が見つからない。
少し離れた気仙沼か一関か大船渡までいって、そこから路線バスに乗れば、とりあえず付近まではつながりそうだけど、そのバスがなんと一日に二本しか出てない。
しかも実働時間を大量ロスする、あり得ない時間帯の運行。
仙台か盛岡から高速バスが出てるが、こちらは移動に3時間ほどもかかり、東京から新幹線に乗ることを考え合わせたら、さらなるロスを食う。
朝出は無理そう。
なんとかなんねっかなー、と、根気づよくネットを渡り歩いてたら、ついに見つけた!
なんとそのバス会社に電話したら、「池袋からボラセンまで直接の深夜便がありますよ」ときた。
信じがたいほどのどんぴしゃアクセス。
なんだ、それならそうとちゃんとサイトに情報のっけといてよ、陸前高田災害ボランティアセンター。
まったく、お上仕事はこういうとこに気が利かねえよなあ。
情報は、出す側の都合じゃなく、受ける側の利便性に立って考えてほしい。(役人の最も苦手な思考方法だけど)
つわけで、とりあえずいってくらー。
気合い入れ直して、再び武装・・・いや、荷造り。
白暑の夏は去っても、まだまだ熱い気はみなぎってるぜ。
負けんな、東北。
いざ、助太刀に向かわん。

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宿題

2011年09月13日 17時49分35秒 | Weblog
正直に打ち明けるよ。
思えば、夏休みの宿題、というやつをやったことがなかった。
昭和時代には「夏のとも」という、四教科を網羅したドリル的なものがあったんだけど(今もあんのかな?)、まったくの白紙状態で提出してた。
いや、一、二行はやってたかもしれないけど、ほとんど手つかずだったな。
飽きちゃうんだよね。
あれは「作業」であって、学術の本質たる「創造」ではない、と気づいてたわけだ。
夏休みは遊ぶものだ、と信じ込んでた。
サボろうと思ってたわけじゃなく、ただ漫然と、宿題なんてしなくていいんじゃないか、と決め込んでたんだ。
「叱られてもいい」と腹をくくったというよりは、「しょうもない作業」とたかをくくったとこがあった。
子供時代の自分は劣等でも優等でもなかったけれど、思えば、剛胆だったもんだ。
そして、目にもまばゆい「白書」を提出しても、先生からはたいしたお叱りなどなかった。
その気風が、こんにちの自分をつくった。
そう思うんだよね。
子供たちよ、なんで宿題などするか?と思う。
あんなバカバカしい作業をさ。

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キー

2011年09月04日 00時02分37秒 | Weblog
ついに聴き分けたコードをピアノの鍵に見つけて押さえてると、なんという心地よさだろう、と思うよ。
今いちばんたのしい、そして興奮する謎解きさ。

skinny dipping

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