裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

名前について

2009年05月29日 17時30分10秒 | Weblog

名は体を表す、のつづきだけど。
「坂本龍馬」は次男坊として生まれ落ちた人間で、その兄の名前は「坂本ゴンベエ」といい、日本を大改革する役割が次男坊に回ってきたのには、付けられた名前の必然がある、と以前に書きました。
ゴンベエさんに、日本の改革はできそうにないもんね、なんとなく。
このように、ヒーローにはヒーローとして活躍するに足る名前がちゃんと付けられてます。
「柳生十兵衛」は、「十兵衛」だからこそかっこいい。
風格を表すに申し分なく、権謀術数にすぐれた歴史の裏側の英雄に見合った響きがあります。
「十兵衛」が、いっこ間違って「九兵衛」だったら、寿司職人さんみたいになっちゃうし、ましてや「八兵衛」だったりしたら、すわ修羅場!という緊迫の場面で、うっかり火薬玉の代わりにきびだんごでも取り出してしまいそうです。
「石川五右衛門」も、実に堂々たる名前で、天下の悪役にふさわしいネーミング。
彼を産んだ母ちゃんも、「品のよい子に育っておくれ」と願ってこの名前を付けたなどとは決して思えない。
これが「よえもん」や「さんえもん」じゃ、弱そうすぎて子分たちに示しがつかないし、「どらえもん」や「にじゅういちえもん」だと、戦国ではない時代に活躍しそうになってしまう。
「ゴエモン」、これ以上に、彼の悪辣さを表現できる名前はないわけです。
そう呼ばれつづけてるうちに、言葉の音色のまじないにかかっちゃうのかもね。
五右衛門、五右衛門、とささやきつづけられるうちに、形相までが変化していき、「よ~し、悪く生きるぞ~」と、いつの間にか誓ってたにちがいありません。
それにしても、「ツヨシ」という人物に強そうなのがいないのはどういうわけなんだろう?
みんなも、自分の名前に見合った人生を送ってみようよ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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ぼくの名前は

2009年05月27日 09時43分51秒 | Weblog
名は体を表すというけれど、杉山佳隆って名前はどう見えてんだろうなー?
・・・と、よく考える。
四角くて堅いイメージがあるような、小役人じみてるような、そんな字づらに見える。
だけどサムライ風ではあるか。
森田森魚、のほうがいいな、柔らかくて、フリーな印象で。
スギヤマヨシタカだと、外国人相手に自己紹介するのに迷うんだよね。
「please call me sugi」とか「I'm yoshi」とか言ってみるんだけど、自分で吹き出しそうになる。
絶対ありえない呼び名だもんね。
「ロン・ヤスか」と、ひとりツッコミしたくなる。
友だちの子供なんかには、「スギヤ~マさん」と外人さん風にアクセントを付けて呼ばせてるんだけど、それで統一しようかな。
「call me sugiYAhaaaMA-sun」
これでいこう、うん。
目の青いやつらにも発音しやすかろう。
それにしてもオレ、気になるのが、「my name is ~」というあの文法なんだよね。
ほんとにネイティヴはこんな武骨な言い回ししてんのかな?
「私の名前は~です」なんて慇懃無礼な自己紹介、絶対しねーよ。
なんか融通きかない戦後教育の手本みたいで、奇怪に見えるね。(現地でほんとにこんな言い方をしてるのなら、すまん)
タモリが小さい頃に、近くの教会で草むしりをしたとき、外国人牧師さんはこう言ったそうだよ。
「あなたは、こっちの草を、抜いてください。そして、イマヒトリのあなたは、こっちを、抜いてください」
つまり、そういうことだと思うんだ。

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ダイエット

2009年05月23日 08時41分03秒 | Weblog
最近じわじわとおなかに肉が積もってきて、苦々しく思ってます。
周囲の美女たちの「あこがれの師範」へのまなざしに対しても、夢壊してるようで心苦しかったり。(←自意識過剰)
そこで「引き締めよう」と、近くの畑地帯を一時間も走り込んだり、腕が上がらなくなるまで腕立て伏せをしたり、と極端なことをやってるわけです。(腹筋はしんどいからやらない)
だけどその疲れが翌々日にきたりして、ほんとブルーになります。
「疲れ」とは成長の代償である、とぼくは信じてます。
疲れないダイエット、というものの存在を信じない。
労力なしのお手軽「体重落とし」は、退化と呼ぶべきであって、肉体内の機能のロスです。
ぼくはもう十数年も前に、「三週間で体重をより多く落とした者が5000円をせしめることができる」という賭けを仲間たちとして、総取りしたことがあります。
そのときは極限ビンボー生活だったので、そうめんとオレンジだけで毎日を過ごし、やすやすと9kg落としました。(71→62)
だけどなんだか骨がスカスカになったような気がして、怖かったなあ。
折れ線グラフが急角度で下降してくのを見るのは楽しみだったけど、そんなマインド自体が恐怖だったり。
5年ほど前の陶芸修行時代にも、一年間で7kgそげたけど、このときは全身のだらしない部位が筋肉に転換されていく過程が目に見えるようで、楽しかった。
やっぱし、単純に数値を落とすよりも、からだの質を変えたいものです。
「食べないダイエット」なんてのは、そうからだにいいもんじゃありません。
なぜやせないのか?と考えるよりも、なぜ太るのか?と考えるのがいい。
それはもちろん、摂取する熱量が代謝分を上回ってるからなわけですが、なんでそのバランスがうまくいかないかといえば、おなかが減らないうちに次のものを食べてしまうからです。
別の言い方をすれば、ハラペコのときにだけ最小限量を食べればいい。
ところがこれがなかなか、この飽食の時代にはしんどい。
でも人為的・強制的に、この状況をつくりだせばいいわけです。
食事の前に体重計に乗り、水準値をオーバーしてたら、外に飛び出してあぜ道を走るか、その場で腕立て伏せをしてカロリーを消費し、数値をクリアしたのち、食卓に着けばいいわけです。
計量でリミットをクリアしないとリングに上がれないのは、ボクシングの世界では常識。
「やせないボクサーはいない」わけですから、この方法は効果的です。
さらに、目標数値を毎日数十gずつ減らしていけば、自然にやせていくはず。
どうですか?このすばらしき机上の空論。
こんなアイデアをですね、毎日夢想しつつ、工房で始終お菓子をつまみ、夜は酒場を飲み歩き、深夜には晩飯を摂ってすぐに眠りに就く師範であります。
ああ、鋼鉄の肉体を取り戻したい・・・

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A lesson of the tea

2009年05月19日 18時15分29秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
サムライになりたくて、お茶の稽古にかよってます。
笑いの絶えないゆる~い雰囲気で、着物美人の先生に教えていただいてまして、どうもサムライにはなりきれてませんが。
「お茶の稽古のどこが楽しいんだ?」というひともいようかと思いますが、なかなか考えさせられることも多いし、所作の美しさにもひかれるし、日本古来の価値観「わびさび」の趣も興味深い。
性に合ってるみたいです。
季節感あふれる和菓子(ほんとに芸術です!)をいただいて、みずみずしい芳香漂うお抹茶を服すると、うつつ世を忘れて思索にふけりたくなります。
さて、お茶を点てるとですね、そのあとに主人と客とでとんちゲームみたいなやり取りをするのですよ、知ってました?
「お茶入れのお窯元は?」「瀬戸でございます」「お茶杓(ちゃしゃく)のお作は?」「ゲンゲンサイでございます」なんていうアレです。
ま、最初は「バカバカしいことをするもんだな」と思ってたのですよ。
だけどこれがやってみると、なかなかに深い。
その日のお茶席のテーマや季節感に合わせて、茶道具に名前(銘)のつけっこをするのですが、ここで機智と感性が問われます。
簡単に例を言えば、床にアジサイがかざってあり、お菓子に虹色のアラレが出てたら、道具の銘を問われたときに「カタツムリと申します(こんなバカな答えはありえないけど)」と返す。
するとみんなは、ああ梅雨空な雰囲気でトータルコーディネートしたのね、とか、ほほーこの茶席のテーマを詩的に消化しておるな(こんなマヌケな感想もありえないけど)、とか、なんとなくキリリと場が締まるわけです。
これが結構むつかしいの。
なにしろ知性が問われてますから、
ぼくが稽古にかよってるとこは、まあ砕けた雰囲気なんで、お茶を点ててるときに5時半の「夕焼け小焼け」が広報スピーカーから流れてきたら、「この茶杓は『山のお寺の鐘が鳴る』と申します」なぞとテキトーな回答で笑いをとったりできます。
あるとき、こんな問答の最中に、空がにわかにかき曇り風雲急を告げる、という事態になってきまして。
雨ツブが窓を叩きはじめ、遠くに雷鳴が聞こえる。
こんなとき、とっさに目の前の茶杓に「いかづち」とか「へきれき」などという銘をつけたくなるわけだけれど、それでは少々表現が直接的すぎて面白みがない。
そこで、ちょっと文学的に「はやぐもです」などと言えば、ほう、とか、およ、などと感心させることができ、ポイントが上がります。
中秋の名月がぽっかりと地平に浮かんでたとしても、うっかり「まんげつ」とか「げっこう」などという知恵のない名前をつけるのは御法度。
「あぽろ」とか「しょうじょうじ」とか「だんしんぐらびっと」などと、ちょっとひねりを加えれば、ウケます。
もちろん道具の形なんかとリンクさせることも重要で、図1のような先っぽ形をした茶杓(虫食い穴がある)を用いたお茶席では、初春ならば、「さわらび(早い時期のワラビ)です」なんて言うと、かしこそうに見えて、モテる。
ぼくがいちばん自信を持って銘をつけたのは、図2のような形の茶杓です。
その日は母の日で、こんな形の茶杓が出されてぼくは一目見てぴーんときて、即座に「たらちねです」と名付けました。
「たらちね」は「母」にマクラする言葉で、「垂乳根」と漢字で表します。
そう考えると、見れば見るほどこれは「タレたチチの根っこ」のようではありませんか。
こんな当意即妙のやりとりも、お茶の稽古の魅力のひとつなのです。
たのしいな、お茶の稽古。
みんなもやってみませんか?

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2009年05月14日 10時57分24秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
知識のあるひとと知性のあるひととは別物でして。
知識ばっかり持ってても、なかなか敬意をもちづらい人物というのは存在します。
アタマのいいひとと聡明なひともまったく違ってます。
知恵をどう使うか、によって人間の価値は変わってくるみたいです。
おどろくほど学識のない人物が、おどろくほどの叡智に満ちた発言をすることがありますし、とてつもなく博学な人物が、実に人としてどうなのか?的発言をすることもあります。
「知的なひと」とは、脳みその容量の問題じゃなくて、人間性をも包括した表現です。
いっこ知識をインプットしたら、アウトプットの仕方にこそ知性が問われます。
そこんところをこそ心がけましょ。
と、自分に言い聞かせる今日この頃。
「無知の知」と言ったひとがいますが、自分は何も知らないのだという事実を知ったときから、知という行為がスタートします。
知というのは、自分自身を認識する、と同義なんですね。
などと。

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ルーシー

2009年05月07日 09時38分26秒 | レビュー
六本木の美術館でやってる「ルーシー・リー展」を観にいってきたんだけど、あかんかった~。
なんやろなー、この街の軽薄さを象徴するようなこのこざかしい陳列は・・・
あのね、来場者はルーシーの器を観にきたんだから、当然、器を見せるように並べるのが美術館の責任ってものだよね?
だけどここにあったのは、巨大な水盤のあちこちにルーシーの作品を配置した「学芸員によるインスタレーション」とでも呼ぶべきアホ細工。
なに勘違いしとんねん~!
器自体が遠くて見えへんわ~。
「ルーシーの器展」を謳うこの展示場に連れてこられて、「まあ、部屋全体がキラキラしててとってもきれいでその中にルーシーが散りばめられててとっても浪漫ちっくね~」などと大ヨロコビする客がいるとでも思ってんだろうか?
独りよがりの主催者側が、作品を弄んでるとしか思えなかったなー。
考えるに、安藤忠雄大先生が図面を引いたこのすばらしい建物と、ルーシーの器をコラボさせよう、という意図だと思うんだ。
だとすれば、それは安藤忠雄の作品でもルーシー・リーの作品でもなく、レイアウト者の作品、ということになろう。
了見違いもはなはだしい。
フンイキだけやん~・・
やはり六本木とは、そういう街なんだろうか?

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不景気なはなし

2009年05月06日 11時05分03秒 | Weblog
論理的に説明できないものは、実在しない。
・・・とまでは考えてませんが。
書き物をしてるせいもあるんだろうけど、世の中の森羅万象を構造的に突き詰めたい、という欲求がありまして。
これはまあ、欲求というよりは知的好奇心、野望というよりはクセのようなものかも。
身の周りで起きた現象や、相手の反応、自分の内的な揺れ動き・・・ぜんぶをきちんと考え詰めてみることで、自分の心がなんとか平穏に保たれてます。
ところで、ニュース画面を見るたび、こんにちの不景気について考えてしまうんですけど。
日本のこれは、海外からの「失態ひっかぶり」的不景気と見られてるんですが、それはもうその通りなんですが、だけどそれは引き金に過ぎなくて、もちょっと構造的なものなのではないか、と。
街頭インタビューで、マイクを向けられたワカモノたちは、「不満というより不安」「先が見えない」「夢を持ってもしょうがない」と、口々に絶望の言葉を口にしてます。
これは、アメリカ経済破綻以来ヘコんだ浮き世の空気が言わせる一過性のもの・・・なんかじゃない。
過去に連綿とくり返された我が国の失政による、未来まで延々と続く質のもの。
頭のすみに膨大な借金返済額の憂いをはびこらせる者が、目の前に置かれた甘い商品に手を出すか?と、端的に言えばそういうこと。
お金は持ってるんですから、ひとも企業も。
だけど将来返さなきゃいけない国の借金、もらえないかもしれない年金、細る一方の医療・福祉関連予算・・・そんなものが、じわじわと社会の意欲を蝕んでるわけです。
企業は内部留保(貯金)ってやつに手をつけることなく人を切り、個人は貯蓄をふくらます一方でサイフのヒモは引き締める。
将来「必ずやってくる」災厄に備えてるわけです。
政府の今年度予算における、税収に匹敵するほどの借金は、とりあえず死なないためのもので、未来を豊かにするものではない。
ぼくら庶民は、景気刺激の散財に喜ぶどころか、借金残高を見て恐怖を覚えるばかりです。
芥川龍之介さんという文豪は「ぼんやりした不安」に負けて自死しました。
もの書きの彼は、このぼんやりしたものをどうしても論理化できず、自分の中に取り込めず、病んで、さいなまれて、蝕まれて、進退極まったわけ。
昨今の世の中を取り巻くこのぼんやり感も、ひとのマインドを死に至らしめるものと思えて仕方がありません。
これが解消されないかぎり、人々の中には不景気感は居座りつづけるし、サイフのヒモなどゆるめようもない。
防衛本能、つか、生存本能ですよ、このお金の使わなさは。
スッキリと、明確に、未来の道すじを知りたい。
きびしくていいから、ちゃんと借金を返したい。
借金が減りはじめさえすればね、そしたらね、誰もがお金を使いたくなりますよ。
この不景気は、ただそれだけのものだと思うのですが。

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