裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

ラーメン屋さん

2009年02月27日 22時09分50秒 | Weblog
「命かけてラーメンつくってます」みたいなこと言ってるラーメン屋さんがテレビ画面の中によくいますが、うるさいよ。
「感動の味を」とか「魂のスープ」とか、どうでもいいの。
おいしいもんつくってくれたらそれでいいよ。
なんでテレビカメラの前でそれを言わねばならんのか?
それは、商業的においしいから、なんだけど、あざとすぎます。
佐野、という、テレビ的に伝説になってるラーメン屋さんがいますが、あの男がいちばんうるさい。
「うちのカウンターでは、おしゃべり禁止!」とか言っていばってるらしいけど、ペラペラとしゃべりすぎのおまえに言われたくない。
だいたいカウンターテーブルっつーのは、対面でしゃべり合うことを意図してつくられてんの。
矛盾に満ちてます。
このひとのつくるラーメンがうまくないってことは、食べなくてもわかります。
そんな状況下で食べさせられるラーメンが、うまいわけないもの。
家畜がエサを摂取するようなシチュエーションではないですか。
ラーメンなんてざっかけな食べ物は、ワイワイおしゃべりしながら食べるのが、いちばんおいしいのです。
話し戻るけど、前述の「ラーメンに一期一会」的なものを求める態度って、一時ブームになったカリスマ美容師の「私たちは魂を形づくっているのです」的発言に酷似していて、少々気持ちが悪い。
そう思っててもかまわぬけれど、口にしなさるな。
さぶいから。
おまえは命かけてラーメンつくってるかもしれんけどね、そんなことは日本料理人も、イタリア料理人も、街の定食屋さんも、どんな料理人もやってるよ。
つか、料理人でなくても、仕事してるニンゲンなら誰でもそう思ってるのでは?
能書きはいいから、ちゃんとしたものつくりなさい。

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カウンター

2009年02月27日 22時09分00秒 | サイエンス・ガクジュツ的な

「カウンター」という構造について、場末の酒場で飲んでたりするとよく考えますね。
カウンター、ってのは、カウンター・パンチなんて使い方でわかるように、「差し向かえ」みたいな意味です。
要するに、面と向かって交わる、ってことでしょう。
言うまでもなく、カウンターテーブルは、供給側と消費側が気軽にコミュニケーションをとるための建築構造です。
寿司屋なんてのはその典型例で、「おっちゃん、トロね」「あいよ」なんて気安さで、第三者の手をわずらわすことなく、直接の受け答えができます。
だけど現代に生きる人類は、直接交渉を拒みたがる。
そこで必然的に、例の「回転寿司」ってスタイルが出現します。
回転寿司のカウンターでは、皿の縦方向の行き来はなく、常に横に動きます。
しかも「カウンター」とはいわず、「レーン」と呼ぶ。
レーンってのは、陸上短距離でもおなじみの通り、横切る者をさえぎるための構造です。
こうして現代人類は、厨房と食卓との完全な断裂に成功したわけ。
一言の会話もなく寿司を食することができるという、夢のような世界の実現です。
以前、奇妙なラーメン屋さんが人気を博してたんですが、このラーメン店の店主は、「カウンターで会話をするな!」というガンコ親父(というおそらく自分プロデュース)でした。
「黙ってラーメンを食え」「きちんと味わって食え」というのがこのひとのスタンスだったんですが、こんなラーメンがうまいわけがない。
カウンターというのは、会話を気安くたのしむための装置なのだから。
さらに言えば、食事などというものは、コミュニケーションのためのツールでしかない。
うまい・まずいは、気分で変わる。
すてきなひとと食べれば冷えきった牛丼も珠玉の美味となりうるし、嫌悪すべきひとと食卓をともにすれば高級フレンチも味気ない。
こんな奇妙なガンコ親父に叱られながら黙々とすするラーメンが、果たしてうまいわけがないのです。
「黙って食え」というのなら、店内構造をカウンタースタイルにする必要はありませんでしたな。
そのあたりに考えも及ばず、旧態依然としたスタイルで、しかも「俺のつくった作法に従え」というのは、完全なる矛盾。
それをしたいのなら、ちゃんとキッチンと卓を隔て、しかもパーテーションで客席を区切るところまでやらんかい!
・・・と思ってたら、本当にそんな店が街のあちこちにできてしまった。
最近流行りのラーメン屋は、キッチンとはカーテンによって隔離され、横の席とは間仕切りで遮断され、注文も紙に書いて提出→完全にひとりぼっちでラーメンを摂取することができる。
店に入ってから出るまで、誰の顔を見ることもなく、一言の会話を交わすこともなく、ただただ一杯のラーメンと向き合うことができる。
なんとも気が利いた演出ではないですか。
「味に自信があります」という過剰自意識のなせるワザか?
しかしこりゃ、オートメーションに組み込まれた気分になりますな。
いや、むしろ人間的に、座禅を組んでるような内観的心持ちに。
ラーメンと向き合うというよりも、こんな告解室のような小部屋では自分の心と向き合ってる心持ちにさせられ、懺悔のひとつもしたくなり、涙がちょちょ切れる。
おい、店主よ。
カウンター構造にするのなら、少し「なぜそうしたか」を考えろ。
ひとを、あなたという人物をこそ味わわせてくれよ!

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花粉症

2009年02月26日 09時34分19秒 | Weblog
花粉症は、超能力です。
ぼくらはついに、未だかつて人類が感知し得なかったコロンまでもをその鼻で嗅ぎ分けることができるようになったのです。
誇るべき異能の才というべきではありませんか。
偉大なる進化。
さあみんな、この季節、外に出て、その能力を遺憾なく発揮しようではありませんか。
はっくし!

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支持のひと

2009年02月25日 10時19分17秒 | Weblog
それでも10人に1人は応援してくれてんのかー、というのが率直なところです。
10%といえば、かなり大きな数字ですよ。
東京ドームの巨人ー広島戦における、赤帽かぶったひとくらいの割合か。
あるいは、「おーい、AB型のひとよー」と呼びかけて、「はーい」と返事を返してくれるひとの割合。
日本の人口が1億3千万人とすると、1千3百万人。
つまり、東京都の人口とほぼ同じ人数は、少なくともあのひとの味方。
毎日のニュースを見てて、あれだけのことを目の当たりにしても、なおそれだけのひとが応援するかね?
まさかとは思うけど、新聞をとってなくて、かつテレビのない家庭の比率がこれくらいある、ということなのだろうか?(んなわけないな)
彼は、まったく無知蒙昧・・・失礼、純朴無菌の秋葉原の人びとに支えられてその地位に就いたわけなんだけど、やはり今も、無明の凡夫の人びとに支えられてるのだろうか?
ま、「おもしろがる」を「=支持」と言いかえることも可能なら、ぼくもそのひとりに数えられるわけなのだが。
つか当初、熱烈的に彼の登場に喝采を送った人びとよ、今は何処に?
ちゃんと責任とってほしいんですが。
とにかく、雰囲気で押し寄せ、雰囲気で退くのが、この日本の人びとなのだった。

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村上春樹

2009年02月23日 20時03分02秒 | Weblog
村上春樹さんが、イスラエルの文学賞「エルサレム賞」をもらったときのスピーチが、各方面から賞賛の声をもって迎えられてます。
パレスチナ・ガザ地区の人々(弱者)を「卵」、イスラエルの圧倒的な軍事力を「壁」に例えて、武力による抑圧を非難したものです。
この勇気と行動力は、ぼくも買いたいです。
「賞という栄誉をいただくことにより、イスラエルの側につく人間だと思われたくなかった」「賞を拒絶して沈黙するよりも、むしろ乗り込んで、積極的に発言していこうと思った」という態度もリッパ。
しかしスピーチ自体が、どうもぼくには納得いきません。
まず、両国(国と組織、か?)を卵と壁に例えたレトリックが、あまり効果的でない。
というよりも、例えが的確でない。
かゆいところに手が届いてない。
つまり、何言ってんだかよくわかんない。
ノーベル賞にノミネートされるひとの表現としては、少々浅い。
もう少ししっくりとくる、ひねりとスパイスの利いた、知性的で、聴く者の感性に訴える言葉は見つからなかったものか?
さらにぼくがヘンだと思うのは、その後に続く「私はなにがあろうと卵の側につく。たとえどれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても」という部分です。
そんなわけはないと思うなー・・・
正しい方につくべきでしょう。
メッセージの前半部分を百歩ゆずって理解したとしても、この部分がどうにも納得いかなくて、困惑は深まるばかりです。
もっと素直なレトリックを使ってくれたらいいのに。
彼はすばらしい意見を世界に向けて発信しようとしたのですが、どうもそのメッセージがいまいちメディアに乗り切れてないのは、このへんの「煮詰めすぎ的消化不良」に原因があるんじゃないかと思いますね。
惜しい・・・
いいこと言おうとしたのに、返す返すも惜しい・・・

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ロシア指導者・ハゲフサ理論

2009年02月19日 09時15分19秒 | Weblog
プーチンさんを久しぶりに見たけど、だいぶ薄くなってきましたね。
天頂部が。
「ロシア指導者・ハゲフサ理論」を知ってますか?
ロシアの指導者は、ハゲの人物とフサの人物が交互にその座に就く、という有名な法則です。
ロシア革命でレーニンが最高指導者の席に就いて以来、その順序は厳格に守られてます。
レーニンは、ご存知の通り、つるっぱげでした。
その後に就任したスターリンは、ふさふさ。
そしてゆで卵のようにつるつるのフルシチョフがその後を継ぎ、次いで剛毛のブレジネフの長期政権→彼が死んだ後、アンドロポフというつるつるが短期間まかされ、その後にふさふさ白髪のチェルネンコ、その後に世界地図をつるつるおでこにかかげるゴルバチョフ、白髪の赤鬼エリツィン・・・そしてその後に現れたのがプーチンさんです。
ところがこのひと、薄いけれど、髪はある。
フサが二代続いちゃって、ここだけ理論が破綻してるわけです。
その金髪は、細く、危うく、はかなげに見えるんだけど、なかなかハゲてくれない。
そうこうしてるうちに、ふさふさのメドベージェフなんてのが、大統領の座に就いちゃった。
しかし彼の政権は傀儡で、プーチンさんの院政は相変わらず続いてます。
その筋のひとに言わせれば、「プーチンは、頭がハゲ上がるまで、政権を掌握しつづけるだろう」ということらしいですが、なるほど、長期に渡ってこのひとがロシアを征服しつづけるのは間違いない。
というわけで、プーチン・ロシアの命脈は、彼の天頂に残るわずかな髪の毛が担っている、というわけなのでした。
殺し屋上がりとも噂されるプーチンさんの恐怖政治・・・
いつまでつづくのか?
はよ抜けろ~。
北方四島返せ~。

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前向き

2009年02月11日 11時39分11秒 | Weblog
楽天性が、ぼくの行動を支えてます。
人生を明るくしてくれるのはこののんきな性格のおかげ、と信じて疑わない。
笑顔でいさえすれば、いつまでもしあわせでいられるはず。
無理しても笑ってるべきです。
そしたら、いつの間にかほんとに笑ってる自分がいたり。
幸福感のまじないです。
悲観的な性格は、周囲に伝染して、場の空気を酸のように侵していきます。
彼らは、周りをどんよりさせているのが自分の仕業だと感じることができない。
その部分こそが、彼らにとってのいちばんの悲劇であるわけです。
逆に言えば、ひとのしあわせは自分をうれしくさせてくれるし、自分のしあわせ感も周囲に伝播し、明るさが満ちてく。
つらい顔をしちゃいけません。
な~んにもいいことない。
さて、松下幸之助さんは、「自分はまともに学校に行けなかったが、それがよかった。ひとの話を謙虚に聞こうという心持ちになることができたし、そのおかげでたくさんのひとの力を借りることができた」とかなんとかおっしゃってたそうです。
すべての不幸は、実は幸福と表裏一体なんであって、楽観がひとの心を前向きにさせてくれるのでした。
オーストラリアで大規模な森林火災が発生してますが、被災者さんたちの映像を見てると(失礼な話だが)興味深い。
「家も財産もすべてを失ってしまったわ、ああ」と悲観に暮れてるひともあれば、「いやー、家は燃えちまったけど、みんな生きててよかった、なんという幸運だ。神様ありがとう」と抱きしめ合う家族あり。
↑これは極端な例だけど、やはりコップの水を「まだこんなにある」と考えるか「もうこれだけしかない」と考えるかで、ひとはしあわせになったり不幸になったりするみたいです。
最後に、モーグルの上村愛子さん。
彼女はレース前、足がすくむようなコブ斜面を前にして、こうとなえるんだそうですよ。
「たのしいな、うれしいな、愛子は上手だな」
ちょっといい話ではないですか。
なるほど、うまく滑れるはずだぜ、愛ちゃん。
自分を前向きにしてくれるのは、自分の姿勢でしかないのでした。

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ストーンズ

2009年02月10日 00時45分27秒 | Weblog
スコセッシが撮ったストーンズのライブ映画「Shine A Light」をちょっと前に観てきたんで、そのレビュー。
いいものを撮りたい巨匠の熱意と、そんなものをまったく意に介さずに自由に振る舞うストーンズのメンバーの対称が笑えます。
撮影をハナからバカバカしいものとして、メンバーはその日のライブの曲目すら教えず、スコセッシはひたすら低頭しつつ振り回されるという構図。
そんな位置関係を逆手に取って、自らを自虐的に描くスコセッシの冒頭の構成意図も、なるほど優れたもの。
どちらもプロフェッショナルです。
いやー、それにしてもかっこいいです、ミック。
還暦を過ぎても無駄な肉をそぎ落としたあのシャープなからだ。(「誰もがダイエットしたくなる映画」といううたい文句はわかる気がする)
なのに、わいせつでノリノリのあの腰のキレ。
ほぼ妖怪です。
感心したのが、声の伸び、張り、声量。
遊んでるようで、ぜんぜん禁欲的に鍛錬しまくってんじゃないですかね、このひと。
伝説を褪せさせない、という自尊心に生きてるのがわかります。
さて、このひとの歌唱は、ついに「吟ずる」という境地にまで達してしまいました。
つまりですね、このひとの歌は、すでにして音符をなぞってない。
「それを追うことになんの意味が?」という、いわば新観念の世界に突入してしまった感があります。
言葉で表現するのはむずかしいけど、わかりやすく言えば、ミックの歌は、わずかみっつの音階で事足りてます。
「ド」と「レ」と「ミ」さえあれば、持ち歌全部歌い上げられますよ、という、つまり「経」的達観。
なのにそれが、ちゃんとストーンズの音楽になってるから不思議。
オクターブの行き来なしに、伝えきり、見せきり、表現しきることができるわけ。
「スタート・ミー・アップ」はたったふたつの音階、「ブラウン・シュガー」に至っては、ただひとつの音階だけで歌い上げることができる、と言っても、理解してもらえるだろうか?
わからんひとは、映画観てみてください。(ライブに足を運ぶのもおすすめ)
キースは、一曲終わるたびに「神に祈りを捧げる」ようなたたずまいで、実はへたりこんで荒い息。
また、ミックの休憩中にヴォーカルをまかされるんだけど、ほんとに「歌わせてもらえるのがうれしい」感がありありとわかって、少々痛い。
まるで、カラオケでやっと順番がまわってきたひとのようです。
もう少し悪いひとでいてほしいのだが。
ミックも、キース・オン・ステージ中に楽屋に引き込んで、ドラッグでも吸っててくれたらうれしいんだけど、おそらく酸素を吸入されてるのでは?と想像される。
チャーリーの堅いドラムにはますます味が出てるし、このバンドはどこまでいくんだろう?
だけど「キースときみと、どっちがギターがうまいの?」と訊かれたロニーが、「オレさ」と言い放つのに対して、「ロニーときみとどっちが・・・」と訊かれたキースは、「どっちもヘタさ。ただし、ふたりそろったら最高だけどね」と答えるところに、なかなかの含蓄を感じましたな。
死ぬまでやるだろうなー、このひとたちなら。

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母ちゃん

2009年02月05日 10時07分53秒 | Weblog
作務衣のあつらえを、いつも田舎の母ちゃんの知り合いの「作務衣屋さん」にお願いしてるのです。
こないだも新しいのを二着つくってもらいました。
そのときに発生した親子のケンカ腰のやり取りがおもしろかったので、ここに収録。
いつも作務衣の制作は母ちゃん経由でお願いしてるので、完成品は母ちゃんの元に届きます。
次に記すのは、母ちゃんとの電話でのやり取り。
オレ「領収書はオレの名前でもらっといて」
母「わかったわ」
翌日、早朝に電話がかかってくる。
母「『杉山カズコ』でもらってまったんやけど、これでえーかね?」
オレ「それじゃまずい。オレの名前でないと」
母「ほんなら『森田工房』でもらったらえーんかね?」
オレ「『森田』じゃなく、『森魚』なんだけど(いつもまちがう)。それよりも、ただの『杉山』でもらってくれたらいい」
母「『杉山』でえーなら、『杉山カズコ』でえーがね」
オレ「だから、それだと確定申告で使えんのよ」
母「じゃ、『カズコ』の部分だけ、横線で消しといたるわ」
オレ「そんなん、偽造文書になるがな・・・」
母「やったら、新しく『杉山佳隆』でもらったらえーんやね?」
オレ「『佳隆』いらんて。いつも『杉山』でもらっとるから、それだけでいい」
母「『杉山』でえーなら、『杉山カズコ』でもえーがね」
オレ「だから『杉山カズコ』は、オレとは別の人物でしょ?だから国家に提出する書類では効力がないの」
母「ほんならちゃんと『森田工房・杉山佳隆』としたらえーがね」
オレ「オレは『森魚工房』もしてるけど、別の名前で執筆活動もしてるから、工房に限定するわけにいかないの(もう『森田工房』にはツッコまない)」
母「んなら、『杉山佳隆』でえーんやね?」
オレ「『佳隆』いらんて。ただの『杉山』でえーから」
母「したら『杉山カズ・・・』」
オレ「『カズコ』ではダメ!それは経費と関係ないひとだから!」
母「やったら、ただの『杉山』でえーがね」
オレ「だから最初っからそう言ってんでしょ~が!」
実際には、この三倍量のやり取りが延々くり返されたのだが、いったいこのひとは相手の話を聞きながら会話というものをしてるんだろうか?
しかし、「杉山」だけじゃつまんないし、その宛名の周囲を装飾した方が息子の仕事が少しばかり華々しく見栄えするかも、という親心なのかもしれない。
だけど母ちゃん、息子はシンプルに生きてます。

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風邪をこじらせる

2009年02月01日 02時49分04秒 | Weblog

「風邪をこじらせる」と最初に表現したひとはすごいなあ、と、風邪をこじらせてあらためて思いますね。
「風邪がひどくなる」では、症状が単純巨大化した感じだし、「風邪が深刻になる」では、説明的すぎるわりに抽象的すぎるし、「風邪に攻め込まれる」では、浸透の深さは表現できても、多頭多足で執拗なあの諸症状の陰湿さにまで迫り切れない。
「風邪をこじらせる」・・・観念を画づらで見せるようなユーモア、そしてその描き出すところのリアリズム。
実にかゆいところに手が届いてます。
「風邪を」と、自分に主体を置いたのもすごい。
「夢をくじく」と同じひとがつくりあげた文体に違いありません。(うそ。たぶんちがう)
ひとが集中して耳を利かし、音を拾おうとつとめることを「耳を澄ます」と言うわけですが、これも美しい表現です。
聴覚が透明に澄む・・・
静謐の中に、いっこの音が生き生きと立ち上がってくるさまが見えてくるようではありませんか。
文学的表現が、いつの間にかひろく一般に使われるようになった例はたくさんあるけれど、こういう言葉をコレクションするのはたのしい作業です。
そして、自分でもつくってみたりするのは。
日本語のスタンダードは、どんどんクオリティの高いものへと(つまり、よりジャストフィットするものへと)変遷していくのです。

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