裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

死んだらどうなるか?問題・23

2022年05月24日 09時40分30秒 | 死んだらどうなるか?問題

「この世界は空である」推しがますます極まりつつあるこの読みものですが、その先に果たしてタイトルに準じた着地点はあるのでしょうか?
筆者としては、深い考えなしに(知識と科学的裏付けには正確を期しているつもりですが)その場での思いつきを並べ立て、ロンリの行方は成り行きにまかせているので、自分の指先から編まれる文章を読み返しては、「ええっ、世界ってこんな姿だったのか?」と驚き、興奮し、得心がいっているわけではないものの、それでもただ書き進めるしかないのが現状です。
こうしてまったく不意に現れてしまった、サイエンスでは説明のつかない「生気」なるものの存在は、筆者の手に負えるものではないので、いったんは横に置いておきます。
ここではまた深海底に場所を移し、分子が生物の前駆体である粗機能を組み立てているところまで、話を巻き戻しましょう。
ところで、ダーウィンの雰囲気的進化論は、今や精密に理論立てられた「ドーキンスの進化論」に取って代わられた感じです。
進化論を「キリンは、高い枝の葉っぱを食べようとがんばった結果、首が長くなった」という、今だに昭和時代の解釈(というよりも俗説)を信じているひとは少し問題があるので、きちんと理解しましょう。
キリンの首は、正確には「短いもの、太いもの、曲がったもの・・・いろんな姿に枝分かれした結果、長くまっすぐに伸びる方向に進化したものが適者として生き残った」のでした。
首の短い種が、何世代にもわたって高い枝の葉っぱを食べようとしたところで、首が長くはなりません。
たった一度の遺伝子のコピーミスが首の長い種をつくり出し、その有利な形質を獲得した当たり組が生存競争を勝ち抜いていくことで、ついに全キリンが首の長い種の子孫に置き換えられたわけです。
進化はランダムかつ全方向的であり、強い意欲と指向が種の形態を変貌させていくわけではありません。
要するに、あなたが肉体改造を試みてムキムキになったところで、その変わりっぷりは子孫の姿かたちにはつゆほども影響を与えない、ということです。
後天的な獲得形質は、次の世代に遺伝することはないのでした。
さて、話題は海底深くの熱水噴出口に戻っています。
その煙突は半導体素材でできており、側壁にうがたれた微細な小部屋内で、自然の力で発動するエンジンが・・・電子の通過による分子間のドミノ押し出しで駆動する機構が奇跡的に組み上がり、なおも物質の掛け合わせを繰り返して、洗練と複雑化を進めているのでした。
そして、素材の数知れないコンビネーションのトライアルは、ついにベストマッチを見つけ出したようですよ。
こうしてついに、有機物の合成は(はなはだ都合よくはありますが)RNAの形成にまでたどり着いたのです!
RNAはご存知の通りに、遺伝子の元、進化の基本単位みたいな性質のひとなので、おおいよいよか?という感じになってきますね。
ここで思い出したいのが、生物という概念における三大基本要素です。
それは、1・外界から独立している(膜に包まれたりとか)、2・自己管理をする(新陳代謝をしたりとか)、3・自己複製をする(子孫を残したりとか)・・・というものでした。
この中では、1番があまりにも簡単に実現できそうに見えるために、おっちょこちょいなひとは、最初の生命体が「まずあぶくの中に材料を詰め込み」「その中で新陳代謝を学ばせ」「最終的に自らの完コピを制作」できるようになるのが真っ当な順序だと考えるわけです。
ところが、これは残念ながら引っ掛け問題のNG解答です。
なぜなら、あぶくは儚いものだからです。
いっとき、奇跡のようにあぶく生物が発生したとしても、その命脈が一日と保つことはありません。
あぶくがはじけるまでの制限時間内に、新陳代謝と自己複製の能力を身につけることは、絶対的に不可能です(1億年もらっても足りないほどでしょう)。
だとしたら、ある場所に留まってじっくりと生命現象を身につけ、機能を完成させてから自前の容器(ぶっちゃけ、細胞膜)をつくり、満を持してその環境を離脱してポータブルになるのが現実的です。
つまり、この順序並べ替え問題の正解は、「まずは小部屋の中で自己複製の機能までをつくり上げる」でした。
われわれのご先祖さまであるRNAは、どうやらこの問題に正解したようです。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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死んだらどうなるか?問題・22

2022年05月23日 15時36分21秒 | 死んだらどうなるか?問題

生命の原質としての、例えば「生気」なるものの存在が先にあり、とある何物か(純粋な物質)に取り憑いて、その内面で意識を形成する・・・という順序は、科学サイドには受け入れがたいことです。
その考え方は、神の存在を認める=科学的な説明を回避する、という行為に等しいわけですから。
やはりここは、自然がつくりあげた機能が進化を経るうちに、徐々に内面に意識が発生した、と考えたいところです。
ただ、この生命観は、表裏一体の形で、死観の解答をズバリと含んでいます。
つまり、生命や意識の正体が純粋な物理的機能なのだとすれば、生物のメカニズムが滅んだ(肉体が死んだ)のちに、魂には行き場がない、ということです。
魂の器であるところの生命機械が灰になれば、内容物であったアイデンティティがおさまりどころを失うことは自明です。
認めたくない事態ですが、その答えはまたしても棚に上げておいて、先に生命の発生を考え詰めてみましょう。
ついては、発生・・・この言葉の意味を、根本的に考え詰めてみます。
この読みものが量子力学を説明するくだりで、筆者は「粒子とは、現象である」ことを明らかにしてきました。
この言葉はシュレディンガーさんのものですが、要するに波と粒子の二面性を持つ素粒子は、素粒子間の相互作用によってのみ、その「効果」であるところの姿を見せるのです。
くどいようですが、またこの例え話を出させてください。
三つのクォークがグルーオン(これらすべてが、素粒子という仮名をあてがわれた波)と相互作用をして原子核を形成し、これがフォトンの媒介で電子と相互作用をして、やっと原子という形の物質になります。
ところが、粒子とは名ばかりの素粒子は、実は波なのであって、「場」として世界に展開しており、個々が各位置に座標を持って漂っているわけではありません。
要するに、素粒子とは「ひろがり」そのものなのであって、それを収縮して粒子化させるには、観測者の存在が必要となります。
この世には時間も空間もなく、「素粒子」とうっかり表現されてしまった波が立っており、その波が何者かの意識による観測によって一点に収縮し、ようやくわれわれ人類種に感じることができる様式であるところの粒子の形状を取るのでした。
結果、その粒子を手触りあるものとして感じるわれわれの内面が、ひとりひとりの脳の中に物質的世界を形づくっているわけです。
こんな幻想みたいな茫洋としてつかみどころのない世界観が、最先端の理論(そして当代最高の知性の巨人たちによるコンセンサスに近い解釈)なのであります。
・・・まだ疑います?
確かに、これってオカルトみたいで、スピリチュアルじみていて、筆者が狂っていて・・・みたいなやつですが、アインシュタインやシュレディンガーが基礎をつくって、その後につづく物理学者たちが最先端技術を駆使して精緻極まる実験結果を限りなく積み上げて構築したモデルなのですよ。
そこだけはちゃんと理解してください(つまり、筆者がマッドな人間ではないことを)。
このオカルト物語・・・もとい、最新理論は、理解力に限りのある人類をさらに深淵な暗闇の奥へと導きます。
それはあまりにも現実離れした、「観測者がいない場所では、物質は存在し得ない」という事実です。
いや、ここでは「場所」という言葉を用いることも許されません。
なぜなら、観測者のいない世界には、場所そのものが存在しないのですから。
「世界」そのものがあるのかどうかも疑わしいところです。
が、これは積み上げてきた理論の、結論と言ってよろしい部分です。
観測者が波動を収縮させて世界を三次元の様式に変換し、実体化させないことには、粒子が相互作用によってつくり出す物質世界は永遠に実現しないのです。
ということはですよ、またまた驚くべき事態が明らかになります。
それは、「素粒子に先立って、生命が存在する必要がある」ということです!
観測者が粒子を生み出すというのなら、そう考えるしかありません。
生命から発生する意識による観測なしに、波は粒子化してくれないわけですから、これは「ニワトリが先か卵が先か?」の議論よりも解答が明白に思えます。
議論は最初に戻りますが、科学が試行錯誤してたどり着いた結論はこうです。
魂の入れものである物質的機能に先立って、内容物である生命が存在していなければ、世界そのものを誕生させることができない。
よって、「生気」は存在する!
おめでとうございます、これであなたの死後、あなたの中身は行き場を獲得する可能性が出てきました。
・・・ほんとかなあ?

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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