裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

しはん流

2017年01月25日 21時50分16秒 | Weblog
うち、子供がいないんで、なんなんですけど。
最近、「ほめてほめてほめちぎって、叱らないで育てる」みたいなの、あるじゃないですか。
オレはこの育て方に批判的です。
ものすごくほめて育てられて、アホみたいになっちゃってるガキ、おるやないですか。
天下無敵、わがまま放題、みたいな。
ただただムカつきます。
無制限にほめられすぎたんですな。
子供なんて世間のことをなにも知らなくて、言えば野生の犬や猫と同じですから、きちんと制御することを覚えさせないと危険です。
ほめて伸ばすばかりじゃ、縮めてしまっとかなあかんとこも増幅させることになります。
5こほめたら、2こ叱らな。
100ほめて、叱り0って・・・大王つくってます?おくさん。
そもそも、わが子をほめちぎる親って、見てて気持ち悪いです。
気持ち悪くないです?
思ってても言えないでしょ、こういうの、世間的に。
オレは言いますよ、ええ、それがこのブログですし。
そして、オレはどやしつけますよ、実際に。
工房にきたガキの振る舞いが気にさわったら、容赦なくガレージに呼び出します。
「ちょっとこいや」言うてね。
で、懇々と説教たれますよ。
親がその場にいようがいまいが、必ずどやしつけます。
そういう人間になろうと思ってますから、オレ。
で、そうすると子供って、ちゃんと理解しますよ。
その瞬間からいい子になります。
そう振る舞うようになる、じゃなくて、ちゃんと心を入れ替えますよ。
そんなやり方を知らんの、実の親だけなんとちゃうかな。
何人もどやしつけたけど、どの子とも確実にいい関係になれます。
子供がアホなのは、親がアホやからです。
アホな子、アホにされてかわいそう。
アホ親、将来復讐されてかわいそう。
と思うんです。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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反トランプデモ

2017年01月24日 09時23分04秒 | Weblog
トランプさん、面白いね。
発言もたのしいが、全米の大モメっぷりも愉快だ。
バカな騒ぎだなあ・・・
一年間もかけてちゃんとした手順を踏んで選ばれた大統領に向かって、「出ていけ」はない。
政策いっこいっこに対しての批判なら理解できるけど、ただのヒステリーみたいな反トランプデモは見苦しい(というか、やはり面白い)。
それを見たトランプさんの発言もいい。
「だいたいお前ら、選挙にいったのか?」
まったく妥当な意見だと思う。
選挙にいってないやつらが騒いでるとしたら、これは本当に意味がわからない。
投票するチャンスをドブに捨てたやつに、投票結果をどうこういう資格なんかない。
一切の権利を白紙で委任した身なんだから、どんな結果が出ても土下座してありがたがらないと。
トランプさんは、完璧な民主主義の元で、まったく真っ当に戦い、公明正大に勝利を得た、どこにも傷のない大統領だ。
掲げる政策は実に品性のないものだが、それはアメリカの民度そのものと言える。
トランプさん=アメリカの選択、って点だけは揺るがないんで、ヒステリックなデモ参加者たちは、もう少しそこを理解しないといけない。
ただ、デモはもっとつづけてほしい。
あの画づらは面白すぎる。

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動的平衡のひと・2

2017年01月19日 08時47分20秒 | Weblog
昔はあいつも純粋だったのにな・・・と思うのです。
あいつってのは、遺伝子のことです。
あいつら(ぼくそのもの、とも言えますが)の目的は自己複製なので、とにかく自らのアイデンティティを未来に連綿とつないでいくことだけを考えてます。
いや、考えてたはずでした。
だけど、なん億年もたつうちに、目的もテクニカルな方向に展開したくなるもんなんですね。
感覚とか、思考とか、感情とかを生存機械(肉体という乗りもの)に与えてるうちに、目的が散漫となり、朦朧となって、原形質の頃に「のこすぞーっ」と純粋だった想いが、にごってきたようです。
その結果、ぼくはぼくの乗りものに乗っ取られようとしてます。
人類がAIに乗っ取られようとしてる構図と似てますね。
生存機械はこうして、自分で考える能力を手に入れたわけですが、その考えてることと言ったら、もともとのぼく(遺伝子)が望むところのものではない。
確かに「セックスしてえ」とか、「あのこがすきだ」とかは思うわけで、それは自己複製の本能の命じるところとも言えます。
しかしそれは、純粋な生存という意味合いから見たら、にごってます。
「想い」なんてものが発生してる時点で、かなりのにごりようです。
ぼくら生存機械は日々、物思うわけですが、そのほとんどすべての事柄は、感覚と思考と感情とに根ざすもの。
「痛い」とか、「ああ、〆切りが」とか、「あのやろー、ゆるさん」とか、遺伝子自体の生存、淘汰、自己複製とはまるで関係ありません。
関係なくはないけど、にごりが著しい。
摂食と代謝に多くの労力をかけはじめて以来、余計な枝葉が付随してきたんですね。
それは知恵とも言えますが、少なくともシンプルな目的意識からは外れてしまいました。
だいたい栄養摂取にしても、「おいしい」が発生した時点で、すでに方向が散漫になってるでしょ。
生存の目的を差し置いて、おいしい、が目的化してしまうわけです。
純粋な想いはどこへ・・・?
また、つづく。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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動的平衡のひと・1

2017年01月18日 23時02分06秒 | Weblog
このからだは、暫定的なものなわけですよ。
ぼくの正体は、突き詰めると「遺伝子」という姿かたちのないひとひらの情報なのであって、物質的な肉体はその乗りものとして機能してるに過ぎない、ぼくの影。
・・・って、狂っちゃったふりをしてるわけじゃないのです、真面目な話。
ここに、ちょこんと情報があります。
その情報が、周囲から物質を集め、乗りものをつくり上げます。
乗りものはすぐに部分部分が劣化するので、ひっきりなしに別の物質を取り込み、修理し、いらない箇所を捨てなければなりません。
それが「摂食」「新陳代謝」「排泄」の意味です。
それを間断なくくり返す結果、今日のぼくは一ヶ月前のぼくとはまるで入れ替わってます。
どこにも一ヶ月前のぼくが残ってないのです。
まったく新しい別のぼくが出現してるにもかかわらず、ぼくはまだこのからだをかつてのぼくと信じて疑わないのですね、不思議。
ぼくはぼくではなくなりました。
なのになんでこのぼくが、一ヶ月前のぼくというアイデンティティを持ちつづけ得るかというと、それは「遺伝子」という情報が絶えず、古い細胞から新しい細胞に伝言してくれるからです。
ゆく川の流れは絶えずしてまた元の水にあらず。
ぼくの肉体は、ぼくのようであって、自然の中で移ろう一部分、吹きだまりのようなものなのです。
あっちからきて、こっちに去りゆくぼくの正体は、ついにひとひらの情報でしかない。
それが「動的平衡」の概念でした。
それをベースに、最近はさらに思惟を深めて発展させてるのですが、お酒飲みつつだったり、お風呂の湯舟につかりつつだったりで。
それは「死」のことです。
ああ・・・お風呂の中ではうまく考えがまとまってるのに、文字に起こすとなんだか散らかるなあ・・・
とりあえず、つづく。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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くれ

2017年01月17日 09時30分19秒 | Weblog
ものの貸し借りって、結構なストレスなんだよね。
ものを借りたときの「返さなきゃプレッシャー」ったらないし、汚しでもしたら、壊しでもしたら・・・と思うと夜もおちおちと寝てられなくなる。
ものを貸したときも、「あいつ(貸したもの)は今どうしてるかな・・・」と思い出が走馬灯のように巡って、はやく手元に戻ってきてほしくなる。
細かいかなあ?
ってわけで、借りるくらいなら散財して手に入れたいし、貸すくらいならあげちゃう。
「貸して」って気軽な言葉は、実は「くれ」と言ってんのと同じだと思う。
そう考えると、「くれ」って言葉はいっそ清々しいな。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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予言者

2017年01月13日 23時25分19秒 | Weblog
「風の谷のナウシカ」を久しぶりに地上波で観たら、やっぱしすごいわ。
達見というほかない。
でも宮崎駿監督の作品は他にも観るんだけど、このひとのつくるものはどれもこれも、最後は結局、魔法と呪文に逃げちゃうんで、どうしても不満が残るのだ。
ものすごい期待にはじまって、ものすごい消化不良で終わる。
ナウシカも・・・まあ最後は「なんだこれ?どーゆーことやねん」なんだけど、それを差し引いても、この物語は世界観も展開も卓越した見識で描かれてて、すごい千里眼で未来を見通してるとしか思えない。
30年以上も前の作品なのに、ここら数年で起きてる問題の一切が予言されてんじゃないかしらん。
それにしても、いいよなあ、映画の中の世界は。
なんたって、この現実世界にないものを持ってるからね。
それはなにかっつーと、まあ希望と言ってもいいし、ナウシカと言ってもいいんだけど。
要するに、この現代に起こってることは、ああいうふうに(魔法で)便利には解決できないのだな。
美しく一件落着に終わるなんてことはありえない。
ぺしゃんこになりかけたら、あとはもうぺしゃんこになるしかないだろう。
あ、でも「風の谷のナウシカ」の中でも、一回ぺしゃんこになってんだっけ、この「旧」世界。
それはまあ、監督の予言でもなんでもなく、必ず起きるに決まってることなんだろうけど。
ぺしゃんこかあ・・・考えてみたら、映画では誰がどう近未来を描いても、あたりまえにそうなってるな。
近未来がぺしゃんこ前提での、遠未来表現を競い合う形。
この分だと、この現実世界にナウシカの出現を期待するなんて、夢物語だ。
別の言い方をすれば、ナウシカのいない「風の谷の物語」が、この現実世界なんだった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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