裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

また、まおさんのこととか

2010年02月27日 08時53分28秒 | Weblog
「ヨナ、すごいね」と、酒場でナカヨシの韓国人に声をかけたら、「あなた、ナショナリストですか?」と怒られた。
「わたし、オリンピックに興味ないよ。その話題しないで」と本気の剣幕。
なんだとこの野郎、と思ったけど、しかしふと思う。
この話題のために、きっと毎日のようにいやな人間関係、心ない言葉、腹立たしい振る舞いにさらされてるにちがいない。
国際間のコミュニケーションはデリケートなもの、とあらためて心した。
いやー、それにしてもまおさんね。
「銀じゃだめですかね?金でないとだめなんですよね?」
ムカシ、競技前にそう言って泣いたのは、伊藤みどりさんでした。
それほどすごいプレッシャーなんだな、オリンピックというステージは。
しかも今回競い合ったのは、前回大会にギリギリの年齢制限で出られなかったふたり。
思うところあったでしょう。
で、ヨナさんは完璧に演じきり、まおさんはつまずいちゃった。
「つまずく」・・・というのがなー・・・痛い。
やりきって転ぶならともかく、なんとしても不運。
まおさんの競技後の曇った表情は、5年も待ったのに、あれほど楽しみにしてたのに、「やりきることができなかった」という忸怩たる思いの表出。
敗北感にまみれるよりもつらい悔悟といっていい。
いや、アスリートとしてまだ未熟だったということか?
銅はうれしいメダル、銀は悔しいメダル、という。
銅には、すべりこみで勝ち得た安堵があり、銀には、最後の最後に負けたという敗北感が焼き付く。
やっぱりアスリートにとって、価値あるものは金だけなのだなー、とあらためて感じたり。
ところで「入賞」ってなんなん?
あれって絶対、「勝てなくて満足を得られない日本人」を盛り上げるためのPRツールだよね。
おためごかし。
そんなんもらって本気でうれしがる選手っているのかな?
「6位までが入賞ですか?あ、8位まで?そうなんだ」とか素っ気なく言ってる選手がいたけど、そういうものでしょ。
選手はそんなものは眼中にない。
すべての選手が欲しいのはメダルであって、トップランカーが欲しいのは金メダルだけなの。
世界の一等賞を決める大会なんだから。
それをまず大前提にして、報道してほしい。
そして、生涯で必ず金を獲ってくれ、まおさん。
ところで、美姫さん。
ぬーるーすーぎーるーやーろ~。
恋にうつつをぬかしてるんじゃないっ、と、誰か言ったげるひとおらんのかな?

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フィギュアスケート女子・まおさんとヨナさんのこととか

2010年02月25日 21時08分59秒 | Weblog
まおさんとヨナさんのパフォーマンスを観ました。
まおさんのを観たときは、ああ、やっぱしこのひとは超一流のアスリートだなあ、と感じ入りました。(「ちゃん」とか呼んじゃだめ)
ところがヨナさんが出てくると、完璧な円を鑑賞するような気分にさせられて、ぐうの音も出ませんでした。
別格です。
ヨナさんのに比べると、まおさんのはまだ粗いもんなあ・・・
「飛びますよ飛びますよ、あ~らよ」と数日前にも、日本人男子の演技を評して書いたけど、あれがまおさんにもあります(ごまかせないほど顕著に)。
ヨナさんにはそれがなく、実になめらか。
スポーツニュースでは、ヨナさんのジャンプはスピードがあって、高くて、距離があって、あとさきの連動がなめらか、と解説してますが、確かに見栄えがまったく違います。
そして、よく言われてる表現力の問題ね。
ヨナさんの長い腕は、肩甲骨から伸び伸びと動いてて、可動域いっぱいまでよく開いてますね。
まおさんは、一生懸命に指先まで神経をゆきとどかせてるけど、背中が子供のまんまな感じだなあ・・・
だから動きが小さく見えるし、ところどころで表現の連結がよどみます。
肩関節で動きが途絶しちゃう。(ヨナさんの四肢は、背中と一体にコントロールされてます)
だから、からだ全体の統一した動きという点で甘い。
飛ぶときも、陸上選手の飛び方です。
ヨナさんは、ダンサーの飛び方をするもの。
奇しくもフィギュア男子では、「4回転を飛ばないヤツに王者の資格があるか?」「飛ぶことを競うのなら演技時間を10秒にすればいい」みたいな激論が交わされてます。
まおさんは3回転半に2回転をくっつけ、ヨナさんは3回転と3回転。
難度でどっちが上なのかわかりませんが、ぼくの印象では、まおさんのくっつける2回転は「オマケ」に見えてしまい、ヨナさんがナチュラルな流れの中でやってのける、つまり「一連のワザ」としての3-3とは見栄えが違いすぎます。
女子で3回転半を飛べるのはまおさんだけ、という点はものすごい事実だけど、もう少し効果的な見せ方がないものか?
それでも、これだけまおさんのこと悪く書いといてなんだけど、やっぱし世界一を決める大会では、人間の最高のポテンシャルというものに一票差し上げたい心情があります。
明日の本番(フリープログラム、っつーの?)では、まおさんは3回転半を二度飛ぶらしいです。
そんな人類の価値を示すことができる人物には、きちんとした評価を与えてほしい。
だけど、磨き抜いた美しさも認めたい。
フィギュアの得点法をあんま知らないからなんとも言えんけど、とにかくふたりとも転ばないで、ちゃんと滑りきって、余すところなく出しきって、その上で勝ち負けを決めてほしい。
どっちが勝ってもいいと思います。
なぜなら、ふたりともすばらしいから。

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最近の読書

2010年02月24日 08時59分14秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
「なんとかの法則」系の本が売れてるようで、これは「ありきたりのロジックをいろんな言葉で焼き直した手引書」であります。
そんな世の中の現象とはぜんぜん関係なく、ぼくはなぜだか15年ほど前に読んだ本をハタと思い出し、引っぱり出して再読してるところです。
その本の名は、「エントロピーの法則」。
ジェレミー・リフキン著、竹内均訳ナリ。
わー、流行ってんのか・・・系のスピリチュアル本でなく、物理学におけるひとつの絶対法則を解説したものです。
この世の中に存在する物理の法則は、そのことごとくが「仮性の真理」というべきもので、それが誤りでないと証明されてないか、それを超えるさらなる法則が未だ見つかってないか、のどちらからしいです、ただひとつの法則をのぞいては。
そして、ただひとつ「真性真理」と認められてる存在が、エントロピーの法則なんですと。
それ以外は、たとえば万有引力にしても、相対性理論にしても、真理と言いきるにははなはだ怪しいことになるらしいです。
万有引力は、原子やもっとミクロの世界にいくと通用しなくなるし、相対性理論は「構成ピースが足らんじゃろう」とヒゲのおっさん本人が予言したりしてまして、なかなか真理と呼ぶには遠い。
暫定的に真理としておきましょ、という科学界の約束に甘んじて存在してるわけです。
そんな中でもただひとつ、エントロピーの増大という現象だけが絶対的にこの世の中に存在してるそうです。
つまり、「エネルギーはこの世の中には一定量しか存在しなくて(熱力学の第1法則)、使用可能なものから使用不可能なものに変換されつづけてるよ(同第2法則)みたいなシンプルな約束ごとが。
なるほど、それはあたりまえに思える考え方。
だって事実、ガソリンは燃やしたら無くなるからね。
いや、それは正確じゃなくて、ちゃんと言えば、「ガソリン」というエネルギーをエンジン内で燃焼させると、「車体を移動させる運動エネルギー」と「熱」と「排気ガス」と「不完全燃焼したおつりガソリン」に変換されますよ、ってことです。
「エントロピーの増大」ってのは、つまり使用不可能なエネルギーが増えてますよ、ってことで、つまりエントロピーが最大値を示したとき、この世界は灰になるってことです。
この事実だけが世界を支配してるのです。
考えれば考えるほど、この法則は世界を支配してまして、絶対真理の力ってすげー、とか、世の森羅万象をまったく矛盾なく説明できる美しさに「ヘー」とか、これから再読して感心し直してみようと思ってます。
んでそのつながりで、数学も勉強してみるか、となり(となるか?)、そっち系の本まで買い込んで読みふけったりして。
ニュートンさんは、それまで教会が支配してた世界観を変えたひとといわれてます。
つまり、世界は神様がつくったから美しい調和にあふれてるのだ、というキリスト教の教えを、美しい調和は数学で説明できる、という考え方と三段論法に重ね合わせ、世界のすべての現象は数学で説明できる、としてしまったのです。
なるほど、世の中の物理法則を突き詰めれば突き詰めるほど、世界と数学とは一心同体に思えてきます。
なにしろ「宇宙は数学という言語で書かれている」らしいですから。
あ、なんでぼくがこう学問熱にうなされてるのかっつーと、あれを観たんでした、ほら、NHKスペシャルの「リーマン予測」の回。
フェボナッチ数列とかフラクタル幾何学とか聞くと興奮する男子であるぼくは、食いついてしまったのですよ。
ところでNHKオンデマンドつのがあるらしくて(うちの箱式14型ブラウン管テレビでは関係ないけど)、それのリクエストNo.1が「リーマン予測」だったんだって、みんな数学に興味あんのかな?
ぼくはたまたま放映日に観たんだけど、いやー、実に面白いのですよ、素数の配列。
ちなみに素数というのは、1とその数でしか割り切れない整数、すなわち数字の「素」のことね、5とか、11とか、19とか、611953なんていう。
その配列はでたらめで、数え上げれば数え上げるほど謎に満ちてくのです。
わずか1こ飛びのご近所に存在してたり、100万こも間が空いてたり、と。
ところがその規則性をいじくり倒してるうちに、なんと円周率とつながったり、はたまた素粒子の振動の係数かなんかとピタリ一致したり(よくわかんなかったんだけど)、あっと驚く展開。
この「数字の素」の配列が、「物質の素」である素粒子の配列とリンクしてるなんて、科学を通り越して、幻想的ともいえる話じゃないですか。
素数が宇宙を構成する秩序の謎を解くカギなのかも、そして「リーマン予想」の克服が地球を救うことになるかも、なんて大げさな話を聞いても、信じてみたくなります。
「フェルマーの最終定理」とか「ポアンカレ予想」なんて難しそうなヤツが最近になって次々と解かれてるんだけど、そんな難問の峰々が連なる中でも最高峰がこの「素数の並び方の規則性」に関する問題らしいです。
オレも解いてみようかな、リーマン予想。
・・・つのは無理なんで、まずはその周辺を理解するところからはじめてるわけです。
それで今さらながら、美しい数学についての書物を探したりしてるのでした。
さて、今年はピアノを習いたいなー、と思ってんだけど、音階、ってのも数学の産物なんだよね。
あの出来映えの美しさには、感心するしかありません。
「音」なんてつかみ所のない物体・・・ならぬ感覚現象を、数学はしっかりとその言語で表現してしまったのですよ、すごくない?
しかもそれによって導き出された数字の並び(すなわち音階=ドレミ)の精神性の高さ、普遍的な美しさ、なめらかさ。
そのごまかしのない耳ざわりには、驚くばかりです。
つわけで、数学と世の中の現象とをいちいち結びつけて考えては、ため息をついてる今日この頃です。
さて、ニュートンさんはこんなふうに、宇宙が数学の規則性に支配されてることを指摘したんですが、それを合理的に解釈してしまったのが人間のあやまちのはじまり。
つまり、宇宙法則を理解すれば、それのコントロールが可能となり、世界を自分たちにとってより価値ある状態へと導くことができる、と考えてしまったわけ。
それが産業革命以降のこの現代合理主義社会なわけです。
ところがここにエントロピーの増大問題が持ち上がってくるわけ。
というわけで、まあ陶芸しながらいろんなことを考えてまして。
もちろんこれは娯楽として楽しんでるんであって、社会を変革しようなんて野望はないからね、オレの文章読むとそういう勘違いするヤツが多いからな気をつけて注釈つけとかないと。
つわけで、また長文を書いてしまいました。
病床でヘンな夢を見すぎたせいかもしれないね。
では、また。

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布団の中の思索

2010年02月22日 23時56分38秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
体内で消化したものを下から全部出し、その後、未消化のものを口から全部戻して、エンプティになったのがゆうべのこと。
それでも胃痛にのたうち回って、朝まで過ごした。
なにこれ?
食あたり?
ノロウィルス、ってこんな感じだっけ?
O-157?
4126?
胃潰瘍・・・ノンストレスなのに?
コレラ・・・赤痢・・・サルモネラ・・・サキシトキシン・・・テトロドトキシン・・・モホロビチッチ不連続層・・・
もがくように寝返り打ちつつ考えてみるのだけれど、このからだ中の節々のだるさと頭の疼痛は、風邪っぽ。
わー、熱も出てきた。
胃もずっとシクシク痛い。
なんだよ~、これ。
それにしても、こうまで消化器官がぐずつくと、宇宙の崩壊なんかをイメージしたりして。
確固と構築されてた秩序が溶解してくような。
いや、むしろ、ビッグバンかな。
へその辺りで炸裂が起こり、無限の拡散がはじまってるわけで。
自分の中で何事かが創造されようとしてるのか?
人間の肉体は、小宇宙なんであるよ。
人間は、「自己」ひとりきりでは生きてない。
数えきれないほどの生命体で構成され、共同作業によって生かされてる一個体なんである。
そもそも、ひとを構成する最小単位である細胞の一個一個がすでにして独立した一生命体。
それをまた構成するミトコンドリア、ゴルジ体、リボゾーム、細胞核・・・とかいったっけ?全員が、協力してぼく(師範の自己)を守り、育て、機能させてくれる構成員なのだ。
体内で障害が起きれば白血球が出動して修復し、呼吸を荒くすればヘモグロビンが酸素を大急ぎで運んでエネルギー供給。
リンパ液はダッシュで体内を駆け巡り、免疫を高めてくれる。
体内のみんなが「細菌をやっつける」という統一した意志で一方向に動いてくれてる。
そんな体内で起きてる事態がリアルに体感できるね、お布団の中で苦しんでると。
ありがとう・・・ぼくの中のみんなのやさしさ・・・
とかいって、やっぱこれ、熱のせいでしょうか?
さて、明日はお茶の稽古なんだけど、そういったわけで参加しようかどうか迷ってます。
3月には卒業だしな、いきたいな・・・
だけど、ひとつの器から回し飲むこの奇妙な文化は、細菌をまき散らすことになりはしまいか?
ま、それしきのことで病気が伝染る虚弱な仲間たちとも思えないが。
今一緒にお茶をやってるメンバーは、ほぼさんとマミマミ。
ほぼさんは、何人かのお子さんを持つおかーさん(オレと同年代)で、明るく小柄でかわいらしい天然さん。
今その場で、両手の平を顔の前にかざしてみたまえ。
その左の手の平を自分の顔に向け、右の手の平を向こうに向ける。
で、左手は口元に、右手はあちらに向かって打ち振りつつ、「ほーほほほ」とか「ヤダーもう」とか言ってみ。
それが、ほぼさんだ。
またマミマミは、髪結いを職とする妙齢の美女なのだが、「立ち仕事で腰をこわしてしまって」などと言いつつ、フィットネスクラブでダンベルを持ちながらスクワットをしすぎ、ひざを痛めてしまうという満身創痍の体育会系。
うん、ふたりとも伝染るまい。
・・・つわけにもいかんか。
どうしょっか、明日考えよう。
今までずっと寝てて、もう寝飽きたんで、お布団の中の思索をダラダラと書き連ねてみた。
うなされてるときは、もっと深くまで思考を突き詰めることができてるんだけどな。
文字に起こすとまだ浅いな。
つづきは、再びお布団で考えるとします。
では、お大事に、オレ。

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またプルシェンコさんのこととか

2010年02月21日 03時04分21秒 | Weblog
プルシェンコさん、届かなかったね。
なんつーか、威厳と粗雑さとを見誤ってたみたい。
スポーツ観戦ってのはむずかしいね。
ことにフィギュアスケートみたいな採点ものは。
美の基準と技術の評価ってのが主観に基づいてからね。
シンプルに「点が入った」とかじゃないし。
勉強いたしました。

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またスノボ・国母選手のこととか

2010年02月19日 11時22分57秒 | Weblog
だらしない服装をしたばっかりに、袋だたきとなった国母選手ですが。
しかし日がたつにつれ、マスコミ各方面は好意的な論調になってます。
最初「格好の餌食を見つけた」とピラニアのように食いついたはいいけれど、彼がメダルを狙える選手と知り、あわててそのエクスキューズに美談を持ち出す。
ワルぶってても、ほんとは素直ないい子、という演出をしておき、メダルを獲った暁には、ゲイン・ロス効果で一層持ち上げようという皮算用でした。
最初に大々的に持ち上げてヒーローに仕立てておき、ひとつのスキャンダルが出ると一斉に悪い情報をバクロしておとしめるという、いつもの手法とまるで逆。
しかし国母がコケ、メダルが手からこぼれ落ち、メディアもコケて大ネタを取りこぼしたわけでした。
報道とは、シンプルにできてます。
誘導されやすい国民のみなさん、そうしたマスコミにまどわされず、むしろひとつ上手をいき、この構造を楽しむようにしようではありませんか。

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フィギュアスケート男子・プルシェンコさんのこととか

2010年02月18日 10時41分38秒 | Weblog
プルシェンコ、つーの?
すごいね、あいつ。
王者ってのはこういうものか、と感心したくなります。
演技中の余裕、ひとつひとつの所作の美しさ、演技後の振る舞いの風格・・・これじゃ誰も歯向かえないんじゃないですかね。
「一度やめて普通のひとにもどってパスタとか食べてみたけど飽きたんでもどってきた」らしいです、三年ぶり。
で、これだもんなあ。
オリンピックで勝つ、ってのはこういうことなんだろうな。
日本選手のも全部観てみたけど、動きがカチャカチャしてて、一生懸命やっとりますエエわたくし感がにじみすぎてて、「飛びますよ飛びますよ、あ~らよっ」ってな感じで、なめらかさとメリハリがない。
優雅じゃない。
王様は、颯爽と、軽々と、ヒョイと、プログラムを寸断することなく飛んでます。
美しさを競おう、って種目なんだから、日本選手はもっと見せ方を考えてほしい。
きちんと飛んだり、ややこしいステップを踏んだり、難度の高いものを正確にこなす、って作業は得点になるんだろうけど、あらゆる要素を詰め込みすぎると、物欲しげに感じられてしまいます。
プルシェンコ氏は演技後のインタビューで、「普通にやったよ。全部出せたと思うよ」なんて言ってました。
このやすやすっぷりこそ、ふてぶてしさこそ、真の実力ってもの。
練習でいくらできても、四年でたった一度の機会にすべてを完璧にやりきらなければならないってのは、心の充実が必要。
このひとのえらいところは、積み重ねの裏打ちをまったく感じさせないところね。
ものごっついえげっつない練習してるに決まってんのにね、それを見せない。
「楽しみます」という言葉を使うアスリートをぼくは信用してないんだけど、この王様は、演技の何分かを心から楽しんでて、ハッとさせられました。
「楽しむ」という言葉を、普通の選手はおまじないに使います。
その一言をつぶやけば、気が楽になりそうだからね。
だけど本当に楽しむには、100回やっても失敗しないという心のゆとりが必要なんだな。
このひとは、突き抜けちゃってます。
このひとの五輪に、魔物なんていませんね。
おめでとう、金メダルはあんたのものでしょ。

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モーグル・上村愛子さんのこととか

2010年02月15日 22時46分02秒 | Weblog
愛子さんですけどね。
30歳やから愛子ちゃんとは言わないけど。
愛子と呼び捨てにすると16歳になってまうし(昭和世代しかわからんか)。
とにかく愛子さんね。
やっぱし弱いから負けたんですよ、アスリートとして。
それは仕方ない、気の毒やけど。
しかし報道を見てると、惜しかっただの、よくやっただの、すばらしかっただの、バカげた言葉ばかり投げかけてて、そのせいでどんだけ愛子さんが傷ついてると思ってるんでしょうか。
なぐさめるのと侮辱するのとは、表裏一体なんだかんね。
競技自体で負けたことより、その後の扱いのほうがかわいそうになってきて、ぼかーもう見ちゃらんないからスポーツ報道見ないんですけどね。
「がんばったからいい」なんつーのは、世界のトップランカーに対して口にする言葉じゃないでしょ。
命ケズって闘っとんねん、本人たちは。
特に許せんかったのが、朝日の「それでも愛子は勝った」的な扱いね。
負けてる、っちゅーねん。
負けたアスリートに、「いや、あんたは勝ったんだよ」なんて言ったら、どつかれますよ。
どんなけ敬意を失した言葉か。
バカにすんな。
競技者の勝利への執着と、日頃の積み重ねと、五輪の価値と、すべてを踏みにじるような言葉ですよ。
それと、あれはやめてほしいなー。
負けた選手に、カメラの前で手づくりの金メダル渡すの。
いーたーすーぎーるーやーろ~。
無神経きわまりなし。
どアホか、っちゅー話ですよ。
本人、いったいどんな顔したらえーんですか?
一応喜んだフリするしかないだろうけど、針のむしろみたいな時間だと思います。
それは、いちばん親密なモンが、密室でふたりきりになったとき、そっと渡せや。
そういう質のもんじゃろが。
もうつらすぎて、見ちゃられません。

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スノボ・国母選手のこととか

2010年02月14日 23時41分18秒 | Weblog
鳥類の大好きな友だちは、トリノオリンピックが開催されると聞き、「と、と、鳥のオリンピック!?」と色めき立ったといいますが、今回はバンクーバーです、はは。
それにしてもスノボの国母選手ね。
別の友人はこの件(腰パン、シャツ出し事件)について、「ゆゆ許せん!」と息巻きますが、んー、許せなくはないが、ぼくは彼には、ルールとかエチケットとかを持ち出して滔々と懇々と諭すよりも、こう呆れてあげるべきだと思ってます。
「田舎町の中坊か?(21にもなって・・・)」と。
岐阜の田舎に帰ると、こんなのがよくローカル線の車両の入り口付近でうんこ座りしてます。
このこっぱずかしさ、チャラさ・・・本人には理解できんのやろなー・・・
彼の今回の態度を評してドン・小西(ほんとにこのひと、フャッション界を牛耳ってんのか?)は、「没個性の日本にあって、なかなか面白い存在だ(幼稚だけど)」的な発言をしてます。
だけどスノボ文化と身内ファッションだけを信奉する彼(国母選手)は、まさにその点で没個性なんであり、凡百のセンスしか持ち合わせてないひと、ということになります。
フォーマルな場所での振る舞い方を知らないという事実は、残念ながら国家を代表して国際大会に税金で派遣されるアスリートとしては、あまりそぐわない。
そして、バカな(いや、バカに見える)国家代表のせいで、顔に泥をぬられた国民が怒ってるというのは、悲しむべきいつもの図式。
ここでもやはり、他人の品格と礼節にはとても厳しい国民性が現れてますね、てめーら自分はどうなんだ。
これで彼が「金メダル」でも獲った日には、マスコミと世論がどんな反応を示すか見ものでもあったり。
これこそ、朝青龍のリリーフとして打ってつけのヒール誕生、的なムーヴメントが起きるんじゃないでしょうか?
やはりこういう下世話な話題は、お祭りには欠かせませんね。
ところで今回あらためて気になるのが、スポーツ紙の一面ね。
ニッカンでは「国母、強制送還・・・」と大見出しになっている。
うお!?と紙面をひろげてみると、一面で折りたたまれた下の部分に「・・・も」とあります。
なんやねん~。
またさっき焼き肉屋で見た、これもニッカンでは、「愛子、金メダル・・・」となっている。
今日のレース結果を知らないオレは、まさか、と思い、飛びついてみると、「・・・宣言」と小さな字。
レース前のかよ~、つか、時間を戻して、神様~。
この手のアイキャッチの方法論は、もちろん東スポが先駆者で、「ゴルバチョフ、宇宙人と面会・・・」ときて「・・・か?」とくる。
なんでもありなわけです。
相撲界が危機に陥ったときなど、一面に目くらむような大文字で「千代の富士、現役復帰・・・」とある。
うっそ、と思ってしまうオレもバカなんだけど、念のために紙面の下半分をひろげれば、「・・・しろ。たけし吠える」と出てきます。
これなどは、見てくれの話題からはるか遠い記事になってて、相撲界とはまるで関係がない。
ヒマな編集部がつくった紙面を、ヒマつぶしの読者がたのしむ、という実に優雅な文化として、市民生活に根付いてます。
こんなふうにですね、えーと、なんだっけ、あ、国母選手のはなしだっけ。
ま、このブログは、本文をそれてどんどん関係のない話題に飛んでしまうわけですね。
つわけで、バンクーバーネタはつづく。

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節分

2010年02月05日 10時20分58秒 | Weblog
節分といえば、豆をまいて鬼をやっつける、という奇妙な習わしがあります。
しかしこの画づら、思うに、どうにもバカバカしい。
演じるほうもこっ恥ずかしければ、見てるほうも気恥ずかしい。
なぜにこれをせねばならんのか?
そもそも、いじめを連想させて美しくない。
全国のお父ちゃんがかわいそう。
・・・と、同様に考える何者かがいて、あれやこれやを画策したあげくに、例の「恵方巻き」とやらいうニューウエーブな風習を世に放ったんではなかろうか?とぼくは怪しんでるのです。
つまりこのブームのシフトは、意図されたものです。
ケーキ業界がクリスマスを喧伝し、チョコ業界がバレンタインデイを仕込み、カボチャ業界がハロウィンをプロデュースしたように、寿司業界が新たなムーヴメントを築き上げた可能性は否めません。
しかし、あの「鬼をいじめる画づら」に嫌悪感と、言えばある種の寒さを抱くのは、ぼくばかりではないような気がするのですよ。
このまま「豆まき」と「恵方巻き」が世代交代すれば、豆業界も黙っちゃいないでしょうが、このシフト・ザ・フューチャーはしごく真っ当なものという気がしますね。
豆まきで鬼の役割をしなくてすんでホッと胸をなで下ろしてる父ちゃんは、全国でかなりの数にのぼるんじゃないでしょうか。
つか、恵方巻きは恵方巻きで、かなりバカバカしいんですけどね。
もう少しマシな対案はなかったのかな?

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