裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

政権せんたく

2009年08月31日 07時42分49秒 | Weblog
選挙、いきました?
ぼくは小選挙区と比例区、別の党に入れてみました。
ぼくは選挙になると、台風の前日みたいにドキドキするのです。
競馬の結果を知るみたいに楽しいものね、選挙速報。
さて今回の選挙の結果、「政権交代」が行われるわけですが、これは「政権選択」の選挙じゃありませんでしたね。
よく言われてることですが、これは自民党政権にあきれた世論が示した拒絶反応です。
前回の総選挙では、小泉さん個人が圧倒的な好感度で自民党を絶対的第一党に押し上げたわけですが、今回の選挙は逆に、国民の自民党への圧倒的嫌悪感が野党を相対的に押し上げただけです。
前回は「ポジティブ投票」だったけど、今回は「ネガティブ(後ろ向き)投票」だったわけです。
選挙民は、ただ反対票を投じたにすぎません。
日本国民は、きっとこう思い悩んだはず。
「くたびれ果てた党だけど、引き続きまかせてみるか?」
「あやうい党だけど、一度ためしてみるか?」
んで、あやうい党のほうをためしてみることになりました、と。
そっちの意見が圧倒的だったのには、いろいろな訳がありそうです。
まず「4年前の自分の間抜けな判断に鉄槌」です。
これは「裏切られた感」と表裏一体をなすもので、雰囲気でもってあの党にすべてを任せてしまった後悔と反省でしょう。
また4年後に、同じ後悔を覚えてなきゃいいんですが。
それから、待ちに待たされた「焦らされ感」。
「はよせいや」「まだか」「まだなのか」なんて待たされ方をしてるうちに、なにがあっても政権党に煮え湯を飲まさないではいられない、という怨嗟が生じてしまいました、怖いね。
つまりまあ、民主党に期待して、なんて考え方じゃなく、自民党をこらしめたい、という後ろ向きなマインドになってしまったのですね。
自民党のCMで、アップになった麻生さんの他党の悪口ばかり言うダミ声を聞かされるたび、人々の心が離れてしまった、という些末な要素も積み重なりすぎました。
それが逆に、民主党の実体を隠すという効果ももたらし、皮肉にも相手に追い風を送る結果になったのですね。
というわけで今回、国民は政権選択をしたわけではなく、「やがて一度はためさなきゃならない」民主党政権というものを、このタイミングでためしてみようという判断をしたわけです。
つまり、本気で国を負託する決意ではない。
この試みは、おそらくかなりの確率で、そして大きな規模で失敗に終わると予想されるのですが、それは新しい世界を構築するためのコストと心得るべきでしょう。
とにかく二度か三度は好きに予算編成をさせてみないことには、民主党の力ってものを計りようにありません。
その結果と、過去50年間の自民党の実力とを天秤にかけた上で、ようやく「政権選択」という明晰な審判が行われるのでした。
それは4年後のこと。
そのとき、民主党が成熟してリアルな党に、自民党がヤスリにかけられてまっとうな党に、お互い成長してるといいですね。

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光明

2009年08月27日 01時12分59秒 | Weblog
生きるって、大変だ。
三度のメシよりも手首を切るのが先決(鮮血ではない)、という女の子が工房にたまにやってくる。
パニック障害だか、鬱だか、とにかくやっかいな精神の闇に取り憑かれてるのだ。
病気さえ発症しなければとてもいい子なのだけど、とにかく会えば、手首が新しい傷でズタズタになってるのだった。
こないだなどは手首に飽き足らず、首筋に残った生傷を見せてくれる。
発作的に頸動脈を切ろうとした、というのだな。
救急車やパトカーから消防車まで出動させたらしい。
おいおいほんとに死んじまったらどうするんだい、と笑いながら言ってやると、死のうとしてやってるんですけど、と笑いながら返してくる。
こうしたほがらかな会話を続けてるうちに(根はシリアスな芝居なのだが)彼女はやがて安定し、心を落ち着かせて帰ってゆくのだった。
その彼女が7月半ばに交通事故に遭って足を折り、そのおかげでバイトにいけなくなり、ようやく復帰しようとした矢先にシフトの関係でクビになり、またまた面倒なことになったぞ、と思ってたのだけれど。
さっき電話をくれた。
一晩泣いたけど、刃物は手にしなかった、と。
バイトのクビに納得するのは苦渋の極みだが、そのバイト先にはとてもよくしてもらったし、店長さんにお礼を言ってスッキリと受け入れた、と。
本来なら、大きめのカッターを手首にあてて10回往復させるべき場面。
よく我慢したもんだ。
リストカットという行為には、「わかって」という叫びの代わりの見せびらかしという側面もあるんだけど、彼女の場合は、本当に自分の気が狂ってしまわないために行う防衛行動という意味合いが濃厚。
そして今回思いとどまれたのは、彼女にその防衛行動が必要なくなったのだ、と解釈したい。
つまり、治ってきてるのだ。
世間はきびしいね、と意地悪なくすぐりを入れてやっても、私にも甘えがあった、などと殊勝なことを言う。
ちょっと気分が悪いだけで遅刻したり、休んだり、社会ってそんなものじゃなかったのだ、悪いのは私だったのだ、と驚くべき生意気を漏らす。
しかもしかも、電話で話を聞いてくれてありがとう、などとオレへの配慮まで口にする。
すごい、すごい、なんという進歩。
彼女は内向きをやめて前向きになり、ひとの立場に身を置けるようになり、ものがスッキリと見えるようになり、つまり心の闇から抜け出しつつあるにちがいない。
このまますこやかに、何事もなかったかのように、社会にもどっていってくれそうな気がして、ちょっとうれしかったな。
以上、報告でした。

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ブーイング

2009年08月26日 11時45分40秒 | Weblog
甲子園大会で、相手チームの好プレーに対して、拍手と歓声で応じたチームのことが話題になってます。
敵は敵として本気で戦うとして、そのよいところだけは別個にたたえる。
いいね、こういうの。
作法やしつけというよりも、こういうのって、人間が本来持ってる衝動みたいなものだと思う。
すごいプレーは、たとえそれが敵であっても「すごい」と感じてしまうもの。
素直で、自然で、人間的で、実に普通な話ではないですか。
実はオレ、「ブーイング」ってやつにはげしい嫌悪感を覚えるのです。
違和感というかな。
おかしいでしょ、あれ。
日本文化になじみませんよね。
汚いプレーや、悪辣な振る舞いや、ヒール(悪役)のショーマンシップに対する「敬意としての」ブーイングならまだ許せるけど、敵方のスターの登場や、好プレーといった場面にまでブーイングするのは、どう見てもおかしい。
百歩ゆずって「盛り上げ」と解釈したとしても、まったく賛同できません。
オレはいろんなスポーツをやってきたんだけど、相手チームのすごいプレーを見たら、ただそれだけでうれしいし、興奮するし、声を上げてしまう。
ああこのヤロー、と思うけど、まずは人類の劇的な動きの美しさ、奇跡のような光景に目を見開かされる。
そういうもんでしょ。
プロの試合を観に行って、相手チームのサヨナラ満塁ホームランにがっかりする、ライバルチームのスーパーゴールを見させられて「来なきゃよかった」と感じる、なんていう観客は筋金入りのファンだけで、本当はみんな希有なシーンにお目にかかれてうれしいものなんじゃないのかな?
こういう非日常的、超絶的な光景を焼きつけるために人々は現場にまでわざわざ足を運ぶんであって、自分のチームが勝ちさえすれば溜飲が下がる、というものでもないと思うわけです。
ヨーロッパや南米の国内サッカーを観てると、ライバル同士は本気で憎しみ合ってて、実際に血みどろの大ゲンカを演じたり、殺し合ったりしてるんだけど、我が国の風土や国民性には、そういうのはぜんぜん根差させるべきじゃありません。
「あっちのサッカーは戦争そのものなんだよ。日本は遅れてるんだよ」などと物知り顔の若年寄は語るわけですが、あっちのサッカーこそが間違ってるんだと教えてさしあげたい。
そんな一部トチ狂ったリーダー格に無理やりにあおられてブーイングをやらされてる子羊ちゃんたちの姿には、寒々しいものを感じざるをえません。
ブーイングなんてやめてさ、もっとのんびりと選手たちのプレーを楽しみましょうよ。
そう、楽しむのは「勝ち負け」じゃなく、「プレー」であるべきなのです。

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最近のワカモノ

2009年08月19日 10時28分55秒 | Weblog
「最近のワカモノは傍若無人で、礼儀も節度もない」
と言うひとがいますが、ワカモノとはどの時代もそういうものなんであり、「自分の若い頃を思い出してみろ」と、ぼくは言いたいのであります。
そしてこういった言動は、自分がワカモノでなくなったことを声高らかに宣言している、という行為以外の何ものでもないのであります。
ついでに言えば、「最近の年配者は傍若無人で、礼儀も節度もない」という事実も同時に存在するわけでありまして、この無自覚の主観性は、どの世代のどんな人間も持っている、まさに人間の本来的勘違いなのでした。
要は、異世代の文化の違いを認めたがらない不寛容からきてるすれ違いであります。
お互いのいいところを見て、お互いの悪い点には目をつぶる。
そうすれば、とてもいい関係が築けるはずなのにな、と思うんであります。
とかいって。

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夏の終わり

2009年08月17日 06時50分20秒 | Weblog
お盆を境に夏は終わりを迎えるわけですが、本当に8月15日を過ぎると秋の気配が立ち込めはじめますね。
不思議だなあ。
空気の感じがぜんぜん変わるものね。
異常気象が季節の端々で破裂してる昨今ですが、まだまだ健全に、律儀に、四季は移ろってます。
それにしても、この季節の切なさ、さびしさ、もの悲しさといったら、どう表現すればいいんでしょうね?
いかないで~的な・・・もう?的な・・・楽しすぎる逢い引きの夜のプラットホーム的な、なんとも言えない寂寥感があります。
だらけたのんびり感の後の、奇妙にせっぱ詰まったやり残し感というか。
この、肌から来て静かに深く情緒に訴えるものって、日本人独特の感じ方なんですかね?
海外なんかじゃ、「さあ、新学期」って季節ですもんね。
そういえば、この季節には一種独特の、「伸びきって」→「熟成に入る」という、大人へのステージアップみたいな感覚があります。
冬→春という「生まれ変わる」感覚とはまったく別の更新。
なんだか落ち着きたくなりますもんね。
大地を満たす光線や色彩、風の匂いと肌ざわり、虫の声・・・五感から入ってくる情報のすべてが、感性を澄ましてくれます。
ゲージュツにはいい季節。

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バカなひとの話

2009年08月10日 23時16分13秒 | Weblog
誤解を覚悟で言わせてもらえば、「ゲーノージン」にもクスリをやっていい人種と、決してやってはいけない人種があります。
例えば、ジミ・ヘンドリクスやキース・リチャーズはやっていいひとだし、やってるにきまってるし、やることによってキマってくるという見方もあるにはある。
勝新太郎がやれば笑えるし、芸術系のひとがやれば「まあしょうがないか」とあきらめたくもなる。
それをヤるたたずまいの見栄えの問題もあるけど、まず第一に「反社会性」というメッセージをふくんだキャラづくりをしてるから、まあ矛盾なく見られる、ということもある。
それでも、そんな甘やかしを加味したとしても、許容できるのはせいぜい「葉っぱ」どまりで、「粉系」しかも「覚せい剤」を用いたとなれば、いかな無法者といえどもドン引きするしかありません。
いかなジミヘンやキースあたりのつわものといえども、覚せい剤だけはさすがに画にはなりません。
ましてや、トップアイドルさんです。
社会に巻き起こる影響ってものを考えなかったんでしょうか?
人々はがっかりし、マスコミは大喜びし、自分の残した作品が世間から総ざらいに撤去され、スポンサーは大損失をこうむり、事務所は破滅的な違約金を支払わされ、なによりも自分の商品価値に致命的な傷がつく。
アイドルが日々ねり込み、つくり上げ、世間に向けて供給してるのは、「イメージ」という商品なんだけど、そいつが完全に瓦解するリスクを考えなかったんでしょうか?
いや、そんなリスクを知りつつ、こうむるコストも理解しつつなお、彼女らは覚せい剤と自分の価値とを天秤にかけて、覚せい剤を選んでしまうのデス。
とすれば、恐るべき魅力を持ってるってことになりますね、覚せい剤。
そんなものに魅入らされてしまったひとには、実にお気の毒でした。
そして、「すべて失え」と言い放ちたいですね。
甘いのです、考えが。
マンモス甘い!

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むかし、戦争があった

2009年08月07日 09時54分50秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
広島に原爆が投下された日、だったらしいです。
もう64年もたってるんですね。
「レコードを見たことがない」とCD世代は言い、「松井がジャイアンツにいたことを知らない」とメジャーリーグ世代は言うわけですが、「ゲンバク」も人類の記憶の彼方に消えつつあるんでしょうか?
それどころか、「日本が中国を支配しようとしてた」「日本がアメリカと戦争をしてた」という事実すら知らないワカモノも相当の%を占めてるらしいです。
ところでNHKが深夜に、当時の戦争を体験したひとたちの証言を集めたものを放映してるんですが、視聴率はどれくらい出てるんでしょうか?
今や戦争証言者たちは、絶滅危惧の筆頭に置いていいほどにさらばえているのですが、こんな貴重な現場の言葉は、今後一千年にわたって語り継いでいってほしいもの。
しかし気を付けなきゃいけないのが、こうした局面局面での「美しくも哀しい物語」が、戦争を美しい舞台として描き出してしまうこと、そしてそれを意図的に美しいものをして描き出そうという企てが存在するということです。
戦争の本質は、もっと深くて目に見えない部分にあるので、この点はほんとにだまされないように注意深く選り分けなきゃいけません。
「日本が東亜を開放(支配)する行為には、諸国政権とのコンセンサスがあった」という意見や「アメリカが原爆を落としてくれたおかげで戦争が早く終結した」という意見には、もちろん側面としては一理はあるんだけど、ぼくにはとうてい得心がいきません。
しかしそれに先だって根本的に考えなきゃいけないことは、「日本の軍隊はアジア諸国を蹂躙しつつ、自国民をもいたぶりつづけた」という事実です。
戦争指導者たちは、安全な最後方に立てこもって机上で駒を動かしてるうちに、最前線にいる生きた人間を、本当の手駒だと勘違いしてしまったみたいです。
現場の痛みや凄惨さに思い至らすことなく、数的・面積的・雰囲気的勝利のみが陶酔感をともなって伝えられる。
すると、どんどん殺せ、どんどん死ね、という具合になっていくんでしょう。
こわい話じゃありませんか。
「ゲゲゲの」水木しげるさんは、自分の隊に玉砕命令(一死一殺の突撃命令)が出たために、砲列の前にからだを開いて戦ったんだけど、妖怪たちの加護のおかげで生きてもどってきちゃったひとです。
ところが這々の体で後方部隊に帰り着いてみると、「玉砕命令が出た者は、生きていてはいかん」と言われて死人扱いされ、ひたすら「死ぬ戦線」に送り出されるまでの日々を過ごしたそうです。
NHKの証言集でも、兵隊たちははるか大後方、安全この上ない大本営から発せられた「出撃ハ特攻トス」というたったひと言の命令で、必ず死ななければならない片道の旅に発ちます。
「死ね」と言われたら、絶対に死ななければならないわけ。
これは要するに、「軍部に命をもてあそばれる国民」という図式です。
トノのために命はって戦います、という戦国時代の価値観を、軍部は近代戦争に持ち込んだわけですが、信頼の置けない(しかもトノの名を勝手にかざす)司令部のために命を捨てるほど、じくじたる心境はないでしょう。
そうした意味でも、戦争指導者と現場で死んだ人間とを同じ場所で同列に供養するなど、戦死者当人や遺族の心情としてもありえないと思うんですが、このへんどうなんでしょう?靖国問題。
先の戦争では、自国を苦しめた日本人と、苦しめられた日本人の二種類が存在する、という奇形の事実があるのを忘れちゃいけません。
前出の水木さんは、著書「昭和史」の中でこんなことを言ってます。
「幸か不幸か、日本をほしいままにしていた軍部を、外国の力で倒すことができた」
いろんな立場の人がいろんな歴史観を持ってると思うけど、この言葉は最も本質を突いた達見なんじゃないかな、とぼくは思ってます。

ところで言っとくけど、ぼくは特定の政治団体や活動のためにこんなこと書いてるわけじゃありません。
一般市民の、最も常識的な意見を自分の中で醸成しよう、という行動原理のみで動いてるので、どうぞお考え違いのなきよう。

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モスキートアタック

2009年08月06日 09時29分29秒 | Weblog
蚊に刺されても、3分後にはもうかゆみがとまってしまう、というひとがいます。
このぼくがそんな体質のひとです、ありがとうございます。
体内の毒消し作用が強いのかなあ?
強い免疫力?
早い新陳代謝?
自分自身が毒そのもので組成されてるから?
とにかく、蚊なんてぜんぜん怖くない。
・・・なんてことを考えたのもですね、ぼくの身近にいるひとが「蚊に刺されると、二日間は患部が腫れて、かゆみに悶絶させられる」と聞いて、驚愕したのです。
血の巡りが悪いのか?
後天性免疫不全?
毒気を知らない清潔なひとだから?
ぼくとしては、「このひとは異常体質なんだろうか?」といぶかしむしかないのですが、一般的なヒトビトの平均値はどうなんだろ?
だいたい虫さされのかゆみってのは、どれくらい続くものなんですか?
それにしても憤懣やる方ないのは、蚊の生活センスです。
血液くらいくれてやってもいいけど、なぜ彼らは、かゆい物質を注入せずには食事がとれないのでしょうか?
うまいものを頂戴しておきながら悪意の置き土産とは、盗人たけだけしいというものです。
彼らはかゆくなる物質でなく、気持ちよくなる物質を人間の体内に残していくような進化を遂げるべきです。
ぜひそんなハイブリッドを実現してもらいたい。
蚊たちの今後の努力に期待。
でも、ま、かゆさ知らずのぼくにはどうでもいい話なんですけどね、ありがとうございます。

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減量

2009年08月05日 20時07分52秒 | Weblog
ダイエット流行りの昨今ですな。
ぼくは以前、体重を三週間で9キロ落としたことがあります。
「どこまで落ちるのか、自分を試してみたかった」と述懐したくなるのですが、本当は、ビンボーだった当時、「体重をいちばん落としたヤツが掛け金総取り」という仲間内の競争に、生活をかけて挑んだだけの話です。
なにしろ5000円という賞金が懸かってましたからね、本気ですよ。
180センチ・72キロの体重を、63キロまで落とすのは、実はそれほど過酷なことではありません。
「やせないボクサーはいない」という格言(今ぼくがつくった)が示すとおり、がんばれば、体重は誰でも簡単に落とせます。
方法は、腹ぺこになるまで運動し、満腹になるまで食べない、という単純なものです。
カロリー摂取量が代謝量を上回らなければ、必ず体重は減るわけですもんね。
それを極端にすればいいのです。
でも、まあ、簡単だ単純だといっても、根性は必要です。
空腹時にそうめんとオレンジだけ摂って、水分も極力控え、時間さえあれば筋肉をいじめ抜く。
当時のぼくはマンガ家でネタも欲しかったし、ものは試し、でもないけど、自分のからだを使った人体実験に興味がありました。
しかしこれは怖いもんですよ。
減りつづける折れ線グラフに陶酔感を覚えはじめたときは、やばいと思いましたね。
かるくラリッてる感があります。
摂食障害ってのは、こうした脳内麻薬によって引き起こされるんじゃないですかね?
こうした極端な方法は、まったくおすすめできません。
きちんと食べて、きちんと運動して、長いスパンで徐々に徐々に落としましょうよ。
それは「減量」などという即物的な行為でなく、無駄をそいで磨きあげる「ブラッシュ・アップ」という誇れる行為になるはずですし。
つか、ほんとに磨きを入れないとそろそろやばいし、師範。

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政治の昨今

2009年08月04日 00時26分36秒 | Weblog
※政治ネタです。
過激な発言があります。
読みたくないひとは、読み進まないでください。

自民党が今回の総選挙に「責任、安心、活力」などというキーワードをかかげててびっくりするんだけど、責任においても、安心においても、活力においても、自民党さんに信頼を置いてるひとは、わが国民の中にはもちろん皆無です。
それにぼくがいちばんびっくりするのは、自民党が民主党の政策案に対して「財源が明確でない」と責め立ててるところです。
あんたのとこの財源はどう工面してるの?と言いたい。
財源なしのその場限りのサービスに、過去数十年で(言えば、わずか十年あまりのうちなんだけど)1000兆円(←確定未来予測)という膨大な借金を積み上げたのは、自民党あんた自身だったはずでは?
ほんとにほんとに、ここんとこはどうしても言いたいんだけど、どのツラさげて財源のことを言うのか、ほんと~・・・に理解できません。
ほんとにバカなのかなあ?
それとも、ほんとに国民をバカだと思ってるのかな?
財源がなかったら、赤字積み上げたらええんちゃいますの?
あんたのとこはそうして帳面あわせてきたんちゃいますの?
そう申し上げたいのであります。
ところで今夜の夕刊によると、民主党が小林興起元衆議院議員(自民党)を公認するらしく、選挙区の近いぼくとしても看過できないところ。
小林なにがしというひとは、もう自民党そのもののひととしてぼくの中では認識されてるので、逆に「民主党って、ほんとに自民党そのものなんだなあ」とつくづく再認識させられます。
帳尻が合えばなんでもいいんだなあ、と。
結局この党は、ただただ方法論によって目標を成形するという異形の形式をとってるので、「カイカク、カイカク」と言われても、まったく信頼が置けないのでした。
思想も、人間の質も、両党は一緒。
どちらを選んでも、たいして変わりはない。
むかしむかし、大政翼賛の時代には、国民には選ぶ権利もなにもなく、例えば「ナチス党とファシズム党と右翼、このうちどれかを選んでくださいね」などという奇天烈な選挙が行われてたわけですが、それを思い起こさせます。
だけどまだ現在はマシ。
平和政党の看板も福祉政党の看板もかなぐり捨て、自民党のコシギンチャクと成り果てた公明党を選ぶこともできれば、いったん自民党に抱かれて全国民から今後百年に及ぶ深刻な軽蔑を買った社民党を選ぶこともできます。
共産主義が廃れ果て、それでも化石と成り果てた自身が復活できるすべがあるのではないか?というありえない奇跡を本気で夢見てる共産党を選ぶ道もある。
幸福なんとか党というにぎやかしや、与党からこぼれた泡沫党を選ぶ道もある。
そんなふうに選べる分だけ、ぼくらは幸福な国民と言っていいのでしょう。
見限る寸前で「仕方なく」どの党を選ぶか、ほんと~にしんどい決断ですが、あと一ヶ月間、吟味してみましょ。
その先にどんな未来があるのかわかんないけど、んー・・・なんというか・・・「選ぶ」という行為がなんとなく、たのしそうではありませんか。
これはもう、シリアスな意味で「ギャンブル」なのですよ。

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