このサイトは「gooブログ」って会社のやつで、そのサービスを使って書かれてる(書かれてた)んですが、10月になるとそれが終了してしまうんですって。
なので、情報ごとそっくりとお引っ越しをしました。
新しいサイトは「アメーバ」さんとこの、下記の住所です。
https://ameblo.jp/forestfish/
よろしければ、今後もそちらでしはんの独り言におつき合いくださいな。
お気に入りなんかに登録してくださってる方は、お手数ですが、住所変更の方もよろしくお願いします。
ではでは、アメーバさんの方でお待ちしてます。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
アメリカは変わったわけじゃない、ただ正直になっただけだ・・・って説はうなずける。
トランプさんは、ただあけすけなだけで、アメリカは過去もずっとこうだった。
他国が持っててうらやましいものは力ずくで奪ってきたし、自分がいちばんじゃなきゃ気がすまないって態度もこれまでと一緒。
ただ、それを隠さない、バレることに臆さない、軽蔑されても恥じ入らない、って点が更新されたにすぎない。
ブッシュ(Jr.)さんあたりは、トランプさんと等量の強欲と下品さを持ってたけど、もう少し陰湿で姑息で・・・つまりスマートだった。
その点でトランプさんは、吹っ切れてる。
アメリカはずっと自分たちが尊敬されてると思い込んできたけど、それはとんでもない勘違いだ。
世界から彼らは常に一貫して、侮蔑の眼差しで見られてきた。
なのにアメリカは、動じない・・・というより、それに気づく感性がなかった(こここそがアメリカ的なのだ)。
トランプさんは違う。
侮蔑されても構わないし、嫌われてることに気づく感性はあるが、それをものともしない別の感性もある。
さすがだ、わかってらっしゃる、これは手強い。
映画のジャイアンは「バカだけど力持ち」ってキャラだけど、テレビになると「力持ちのバカ」になり下がる。
この転換が、ブッシュさんあたりからトランプさんへのアップデイトかもしれない。
考えてみれば確かに、隠す必要なんかなにもない。
ロシアと組めば、この上ない強さを手に入れられるし、欲しいものがなんでも強奪できることは明白だ。
そうしなくても、体の大きさと声のデカささえ見せつければ、周囲のザコたち相手なら大概の言うことを聞かせることはできる。
そのことを隠さないことがいちばんの得策(つか、お得)だ、とトランプさんは知ってる。
あの国はリミッターが外れた。
「合衆国」なんておためごかしもやめて、きちんと「帝国」と名乗るのがいいかもしれない。
グローバル世界って幻想が大失敗の末に霧散して久しいけど、いよいよその後のパラダイムがシリアスにシフトしてきたなあ、と感じずにはいられない。
だけど日本は安心だ。
親分がますます強くなったんで、ますますなんでも言うことを聞いて頭を下げてれば、たくさんのおこぼれにあずかることができるぞ。
石破さん、あのこぼれんばかりの笑顔とお手てすりすりで、トランプさんの心をわしづかみだ!
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
エントロピーは面白い。
「エネルギーは使うと減る」「集まったものは散らかる」と、それだけの法則なんだけど、事あるごとにそれを感じて「へえ」となる。
ところで、風呂に入るのが好き!
何時間でも湯船につかってられる。
お湯の中でじっと本を読んでると、億劫になって動けなくなって、そこにいるまま生活したいとまで考える。
ただ、お湯はだんだんとぬるくなっていく。
お湯と水との境界線、ってところまでこらえるんで、ようやく風呂から上がると体が冷えきってたりする。
入浴は、体温対お湯の温度の戦いと言える。
お湯の温度が高いうちは体は温まるが、お湯が冷めてやがてその温度が体温を下回ると、体温が逆に周囲のお湯を(水を)温めはじめる。
相対的に、体温は冷えていく。
お湯の温度もまた時間にしたがって周囲の空間に散逸していくため、ついには両者ともが冷めきる。
大局的に見ると、お湯(とぼく)は浴室内の空気を温めてつづけてるわけだ。
一方、浴室内の空気は、浴室の壁も温める。
浴室の壁は、その外にある外気を温め、外気は地球大気全体を温め、地球大気は宇宙空間を温める。
こうして温まるはずの宇宙空間だが、この無限開放系は膨張しつづけてる。
温度ってのは、素粒子の振動の言い換えだ。
強く震えるものを、人類の神経系は「温かい」「熱い」と感じるにすぎない。
その振動の波は、空間がひろがるにしたがって、静止への一方向に引き伸ばされつづける。
波がのびのびに伸びきって平坦になった状態を「エントロピーの最大値」と言い、これが宇宙の最後の姿だ。
宇宙の最後は、なにもなくフラットな波だ。
・・・ってことをですね、お風呂に入ると考えてしまうなあ、の話でした。
次回、「ならなんでぼくは温かいのか?」編にたぶんつづく。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
酒を飲んだらチャリに乗れない、という法律になったのだ。
飲みにいくなら、徒歩かタクシー、ってことだよね。
すごいことだよ、これ、日本人の生活と文化が根本的に変わるやつだよ。
令和の時代に、生活圏を江戸時代と同じにまでせまくしてどうすんの。
ほんとにいいことをなにもしないわ、政権、つか政治家ってすごい飲み方をしてるのね。
国民のいったい何割が、タクシー(あるいは運転手つき自動車)を使って飲みにいけるんだろう?
国民がどんな生活をしてるのか、その法律をぶっ込んでどういう結果が待ってるのか、想像がつかないのかな。
チャリ生活をしてる人間は、今後は外で酒が飲めなくなる。
バーベキューで集まっても、帰りはタクシーを使うしかない(往きも同じか)。
田舎なんてバスも通ってないから(タクシーもないが)、当然「家の外で酒を飲むな」ってことになる。
あるいは、江戸時代スタイルで果てしなく歩くか。
駅前でない酒場は、みんなつぶれていく。
いやいや、駅前の酒場でも一緒か、駅からチャリを使うと法に引っかかるし、遠方で飲んでも最寄駅で降りた後にその事実は同じだから、「退社後に一杯」もチャリ生活者には無理になる。
「ひとん家で飲む」宴会やホームパーティの後もタクシーしかない。
めちゃくちゃで、酒文化が崩壊だよ。
発想の愚かさにため息が出る。
街なかでチャリがひどい運転をしてるのことは理解してるし、やつらを駆逐したい気持ちもわかる。
だけどこれこそ、政治家の怠慢の結果なんじゃないの?
チャリって結局、どこを走ったらいいの?
そこをなにも改革しないで、上っ面だけで対処して(腹にすえかねて意地悪してるだけでしょ)、結局また景気を悪くさせるわけじゃん。
チャリ乗りも、酒好きも、酒場の店主も、みんな怒り心頭だよ。
というより、途方に暮れてるよ、生活の問題なんだよこれ。
いっそ、この法を厳格に守らせる社会実験をしてみたらいい。
何割の酒場がつぶれて、どれほどの酒類の出荷量が落ちて、どれほどのひとが出歩かなくなり、GDPがどれほど押し下げられるか。
でも、ま、みんな結局チャリで飲みにいくんだろうけど。
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チャリで酒場にいけなくなっちゃったんで、最近はよく歩く。
よく歩くから、よく考える、歩くメカニズムを。
結局、歩くって作業は、運動の初期値で得た慣性のポテンシャルをどう減ずることなく進行方向に押しやるか、って問題のひとつの最適解だ。
エネルギーが減ずる最大の要因は摩擦による熱量の拡散だけど、人類は足の裏という広い面積を地面に張りつかせるという歩行スタイルから、これを免れない。
その点、竹馬はピンポイント(針先のような)で地面と接するため、エネルギーの散逸が少なく、テコも効いててゲインが非常に効率的だ。
人類の二足歩行はそうはいかないが、代わりにかかととつま先に別の役割りを与えて、進行をスムーズにする。
足はまず、振り子として運動を開始する。
前方の地面にかかとがつくと制動がかかり、この際に重点が固定され、人体の質量はその真上に向けて移動し、要するに束の間、載っけられる。
ところが、この振り子運動は二次元じゃなく、左右上下に歳差運動をしてるんだった。
平たく言えば、歩くという運動の駆動系である腰骨は、自転車のペダルのような左右交互回転をしてる。
こうした構造もあり、重心を左右一方に偏らせた下半身は著しく傾く。
ところが、それに載っけられた上体というのがまた、下半身に対して点対象を保存するジャイロ機能(やじろべえみたいな)を発揮するのだ。
下半身が右に傾けば左にバランスを修正し、前に荷重がかかれば後傾し、という具合いだ。
これを我々は、腰骨(下半身)に対する肩甲骨(上半身)の歳差運動と、足の前後動に対する腕の振りとでコントロールする。
下半身の駆動によって運ばれる上半身は、実は腰の上でロデオをしてたわけだ。
こうした下支えがあり、コントローラーのコクピットである頭骨は、系の座標上の一点に不動の安定感を保つ。
地面への荷重ポイントは、駆動機械が前方に運ばれるのと相対的に後方に引き下がり、具象描写に戻ると、つま先が地面を蹴り出すと同時に、前方に置かれたもう片方の足のかかとが荷重を受け取る形になる。
以下、繰り返し。
腰のペダル漕ぎの発動に対して、全身のパーツは前後、左右、上下対象に呼応し、全質量のアベレージを芯に集中させる。
荷重ポイントは前後にせわしなく移動しても、重点は常に腰に配置されてるところが賢い。
前傾して拳と足とで歩行する(ナックルウォーク)前駆体から進化した人類が、腰を肉体の中心に据えた理由も、これで説明がつくではないか。
つづく
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歩くとき、歩くことについて考える。
歩く作業に集中するほど、歩くという活動のメカニズムについて深く考えてしまう。
二足歩行は、足の振り子運動によって上体を前進させる行為と考えがちだが、それほど単純じゃない。
この点を突き詰めると、まず考慮すべきなのが慣性の法則だ。
最初に進行方向に体重を移動させると、その進行は「無摩擦状態においては」永遠に止まることはない。
ところが二足歩行者は、摩擦そのものを運動に利用する。
まずは静止状態への介入の初期値によって、右足が前方に押し出される。
すると右足は、腰を支点に振り子運動を開始し、トルクで得られた運動エネルギーを最高到達点でポテンシャル(位置)エネルギーに変換する。
この瞬間に運動者(わたくし)は右に体重移動し、エネルギーのたまりきった右足をタッチダウンさせる。
すると後方に置かれた左足から荷重が抜け、足の裏がテイクオフされる。
腰に設定したはずの支点が、右足先を固定した途端にその重点に移って、上向きの振り子運動が起こり、上体が前方へと運ばれ、それにともなって左足が拘束を解かれるのだ。
この際に、前方の右足にあったはずのポテンシャルエネルギーが、腰へ、さらに左足先へと移動する。
いつの間にか高い位置にまで持ち上げられた左足は、そのポテンシャルを運動エネルギーに変換し、振り子運動を開始する。
荷重は肉体の右サイドに偏ってるので、この角運動量が地面との摩擦で減ずることはない。
ぐるり前方の最高到達点へと運ばれた左足は、再びポテンシャルエネルギーをため込む。
このとき運動者(わたくしです)は、すかさず左に体重移動をさせる。
左足がタッチダウンし、今度は後方に引き下がった右足から荷重が抜け、こちらにポテンシャルが移動する・・・
その繰り返しこそが、歩行だ。
地面との摩擦によって支点が固定される瞬間に、地面を後方に押し出すわずかな力を加えてやるだけで、上体は慣性のエネルギー(+α)を殺すことなく、初期に設定された進行方向へと運びつづけられるわけだ。
エネルギーは初期に大きな値を与えるだけですみ、後は大した浪費は必要ない。
なかなかいい効率と言えるではないか。
要するに「歩く」とは、足の前後への振り子運動による二次元の活動じゃなく、むしろ左右への体重移動によって足を前後に運ぶという三次元の作業だったんである。
二足歩行者は、右に、左に荷重のやり取りをすることで、エネルギーを前方に押し出してるようだ。
つづく
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りんごには、実体がない。
ここまで説明してきたように、その中身の正体は、スッカスカの空間に分子の電磁気力が展開するのみの、いわば虚像だ。
そこにはなにかがあるわけじゃないんだけど、そのなにものかが内蔵するエネルギーの密度と反発力によって、あなたはそいつを「りんごの手触り」として感じることができ、そいつ(りんご)もまた、分子の電磁気力の塊であるあなたの手の平を弾き返すことで、「あなたにつかまれた」と感じることができる。
ではなぜそこにりんごがあるとわかるのか?
なにもない空間の虚像なんであれば、透き通ってるべきでは?
ところが、光は、りんごが持つ電磁気力に反応するんだった。
宇宙からは、いろんな波長の光が地上に降り注いでる。
ガンマ線から紫外線、可視光線、赤外線、電波・・・
このうち、可視光線がりんごの中に差し込むと、りんご内に展開する電磁気力が特定の波長を吸収したり、弾いたり、またカウンターで射出したりして、スペクトルの成分を自分の個性に総合する。
そしてそれを受け取るあなたの目と脳は、「りんごの色、質、クオリア」と解釈する。
なぜいろんな波長のうちで可視光線だけなのかというと、それは完全にこちら都合で、その光線を解釈するのが人類にとっていちばん便利だったからで、光の三原色もなぜその三色なのかといえば、人類が望んでその色を選んだ、あるいはつくり上げたからに他ならない。
空がなぜ青いのかと言うと、陽光が空気の層を透過する際に、窒素酸化物などに波長をこし取られ、青の成分だけが地上まで到達するからだ。
そしてなぜその波長が青なのかと言うと、それはまったくこちらサイドの問題で、つまり「われわれはその波長を青とする」と決めたからに他ならない。
この世界には実質、なにもない。
だけどそれでは不便なんで、生物の進化は、光と電磁気力による作用を、色として、質として、実体感として※1認識できるようにしたんだ。
なにが言いたいのかというと、あなたが見てる世界はあなたが脳内でつくってるにすぎない、ってこと。
本当はこの世界にはなにもなく、原子という(もっと突き詰めれば、素粒子という)虚像がたゆたってるだけなんだ。
つのが、量子力学が結論づける原子論なんでした。
おしまい
※1 脳が立ち上げるこの実体感の幻想を「クオリア」という。
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手を合わせてみて(なーむー・・・)。
あなたの手の平は、分子、原子で構成されてる。
その原子は、原子核と電子で出来てて、これらは電磁気力を持ってる。
その電磁気力によって、右手と左手とは反発し合い、あたかもそこに右手があるように、あるいは左手があるように、手応えが感じられる。
これこそが、物質に実体感があるように思える・・・つまり位置と運動量しか持たない素粒子がつぶのように感じられるトリックだ。
甲子園球場のグラウンドの中心にあずきがあり、球場の外周をケシ粒がめぐってる、というスカスカの原子モデルを紹介した。
それを手の平にのるほどのカプセルに縮小しても、あずきは同じ縮尺で小さくなり、ケシ粒はさらに同じ縮尺で小さくなり、したがってカプセルもまた、球場モデルと密度は寸分も変わらないことに注意する必要がある。
球場大のモデルを素粒子の大きさにまで縮小しても、原子の密度は・・・つまりぼくら人類の肉体や地球の密度は、甲子園球場の広大な空っぽと完全に=なんだ。
なにも詰まってないの、この肉体には。
つぶなんてひとつも使われてないの。
実体なんてどこにもないの。※1
すべては虚ろなマボロシ・・・
なのになんで触れてみてみっしりと感じられる実体感があるのかというと、それは電磁気力による反発の効果なの。
磁石のS極とN極を近づけ合うと「ぷるんっ」とするやつなの、この両手の平を合わせた手応えは。
だとしたら、色は?
なにもないのなら、なんでそこに実際にものがあるように見えてんの?
つづく
※1 機動戦士ガンダムでは、バズーカ砲などの持ち運べる弾を「実体弾」として、レイザービームのように実体のないエネルギー集中タイプと区別してたが、ぼくらの体はまさにビームで出来てるんだ。
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水素原子は、原子核に陽子がひとつ、外周の軌道上に電子がひとつ、という最もシンプルなユニットだ。
甲子園球場のグラウンドの中央にあずき大に集中した電荷+1のエネルギーがあり、球場のワンブロック全体に電荷-1の霧が立ち込めてる、という描像をイメージしよう。
原子とはこうまでスカスカの空っぽで、いわゆる物質的な手応えがどこにもない。
では、ぼくらが感じる触感というのはどこからくるのか?
球場もの大きさの原子モデルは扱いづらいので、手の平にのるほどのカプセル大に縮小しよう。
この野球ボール大の透明なカプセルにした水素原子を、ふたつ用意する。
複数の原子を寄せて、分子をつくるんだ。
基本的に原子内の電荷は±が相殺されて中性の体を取ってるけど、ふたつのカプセルを近づけると、まずは外縁に配された-電荷同士(電子×2)が反発して弾き合う。
ところが原子核の+電荷は、自分の電子と同時に、相手の電子の-電荷も引き寄せる。
つまり双方の原子核は、双方の電子をクロスして引っ張るわけだ。
こちらの原子核があちらの電子を引き寄せ、あちらの原子核がこちらの電子を引き寄せて、ふたつの水素原子は、電子にひょうたんの軌道を描かせる形で混じり合う。
が、原子核同士は同電荷で反発し合うから、お互いの中心部分が触れ合うことは決してない(触れ合えば核融合爆発が起きる)。
これが共有結合、すなわち水素分子「H2」の構造だ。
さて、ここで思い出すべきなのが、水素原子とはスカスカの空っぽの手応えゼロの実体なしオバケだった、という事実だ。
それが、ふたつのカプセルをくっつけ、左右から思いきりプレスすると、ふたつの原子核同士は電磁気力で反発し合う。
このときはじめて「そこにものがあるような」抵抗が得られる。
感触が。
なにもないところに、なんと実体に触れてるような手応えが発生したぞ!
再び原子の大きな外観に戻る。
甲子園球場のグラウンドの真ん中にちょんと置かれたあずき大の原子核に対して、けし粒のような電子が球場の外周ほどもの広さで取り巻いてるのが、原子の姿なんだった
軽い電子は、2000倍も重い陽子に電磁気力で捉えられてる。※1
電磁気力もまた引力(または斥力)なんだけど、電子は凄まじい運動量による遠心力で原子核から遠ざかろうとする。
つなぎとめられながら、逃げ去ろうとする結果、これがうまい具合いに釣り合う。
電荷−1の電子に対し、原子核内の陽子の電荷は+1と、なぜか力関係が逆向きにピッタシなんだ(ちなみに中性子は±0)。
これには、原子核内の核子に三つずつ収まるクォークの電荷が関係してる。
クォークには2種類あり、アップクォーク(U)とダウンクォーク(D)という。
Uの電荷は+2/3で、Dの電荷は−1/3だ。
陽子はUUDというユニットで構成されてて、電荷を足すとちょうど「1」、中性子はUDDの構成で、差し引きするとちょうど「0」になるんだ。
まったく、自然にはなんて精妙な計算が働いてるんだろう。
こうして電子は、2000倍もの質量差がありながら相性どんぴしゃな陽子に寄り添うように、球場外周の軌道をぴたりと取る。
だけど、たまに−1の電子が、引力に吸い寄せられて+1の陽子に捕獲されることがある。
この際には、陽子の電荷が相殺されて±0になり、中性子に変容する。
これがいわゆる「崩壊」だ。
まったく面白い関係だよ、原子を構成する三人ときたら。
つづく
※1 これらを構成する素粒子には実体がないと言ったけど、特殊相対性理論のE=mc2により、そのエネルギー量は質量に換算できる。素粒子はつぶじゃなく、純粋なエネルギーと認識しておいた方がいい。
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