チャリで酒場にいけなくなっちゃったんで、最近はよく歩く。
よく歩くから、よく考える、歩くメカニズムを。
結局、歩くって作業は、運動の初期値で得た慣性のポテンシャルをどう減ずることなく進行方向に押しやるか、って問題のひとつの最適解だ。
エネルギーが減ずる最大の要因は摩擦による熱量の拡散だけど、人類は足の裏という広い面積を地面に張りつかせるという歩行スタイルから、これを免れない。
その点、竹馬はピンポイント(針先のような)で地面と接するため、エネルギーの散逸が少なく、テコも効いててゲインが非常に効率的だ。
人類の二足歩行はそうはいかないが、代わりにかかととつま先に別の役割りを与えて、進行をスムーズにする。
足はまず、振り子として運動を開始する。
前方の地面にかかとがつくと制動がかかり、この際に重点が固定され、人体の質量はその真上に向けて移動し、要するに束の間、載っけられる。
ところが、この振り子運動は二次元じゃなく、左右上下に歳差運動をしてるんだった。
平たく言えば、歩くという運動の駆動系である腰骨は、自転車のペダルのような左右交互回転をしてる。
こうした構造もあり、重心を左右一方に偏らせた下半身は著しく傾く。
ところが、それに載っけられた上体というのがまた、下半身に対して点対象を保存するジャイロ機能(やじろべえみたいな)を発揮するのだ。
下半身が右に傾けば左にバランスを修正し、前に荷重がかかれば後傾し、という具合いだ。
これを我々は、腰骨(下半身)に対する肩甲骨(上半身)の歳差運動と、足の前後動に対する腕の振りとでコントロールする。
下半身の駆動によって運ばれる上半身は、実は腰の上でロデオをしてたわけだ。
こうした下支えがあり、コントローラーのコクピットである頭骨は、系の座標上の一点に不動の安定感を保つ。
地面への荷重ポイントは、駆動機械が前方に運ばれるのと相対的に後方に引き下がり、具象描写に戻ると、つま先が地面を蹴り出すと同時に、前方に置かれたもう片方の足のかかとが荷重を受け取る形になる。
以下、繰り返し。
腰のペダル漕ぎの発動に対して、全身のパーツは前後、左右、上下対象に呼応し、全質量のアベレージを芯に集中させる。
荷重ポイントは前後にせわしなく移動しても、重点は常に腰に配置されてるところが賢い。
前傾して拳と足とで歩行する(ナックルウォーク)前駆体から進化した人類が、腰を肉体の中心に据えた理由も、これで説明がつくではないか。
つづく
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りんごには、実体がない。
ここまで説明してきたように、その中身の正体は、スッカスカの空間に分子の電磁気力が展開するのみの、いわば虚像だ。
そこにはなにかがあるわけじゃないんだけど、そのなにものかが内蔵するエネルギーの密度と反発力によって、あなたはそいつを「りんごの手触り」として感じることができ、そいつ(りんご)もまた、分子の電磁気力の塊であるあなたの手の平を弾き返すことで、「あなたにつかまれた」と感じることができる。
ではなぜそこにりんごがあるとわかるのか?
なにもない空間の虚像なんであれば、透き通ってるべきでは?
ところが、光は、りんごが持つ電磁気力に反応するんだった。
宇宙からは、いろんな波長の光が地上に降り注いでる。
ガンマ線から紫外線、可視光線、赤外線、電波・・・
このうち、可視光線がりんごの中に差し込むと、りんご内に展開する電磁気力が特定の波長を吸収したり、弾いたり、またカウンターで射出したりして、スペクトルの成分を自分の個性に総合する。
そしてそれを受け取るあなたの目と脳は、「りんごの色、質、クオリア」と解釈する。
なぜいろんな波長のうちで可視光線だけなのかというと、それは完全にこちら都合で、その光線を解釈するのが人類にとっていちばん便利だったからで、光の三原色もなぜその三色なのかといえば、人類が望んでその色を選んだ、あるいはつくり上げたからに他ならない。
空がなぜ青いのかと言うと、陽光が空気の層を透過する際に、窒素酸化物などに波長をこし取られ、青の成分だけが地上まで到達するからだ。
そしてなぜその波長が青なのかと言うと、それはまったくこちらサイドの問題で、つまり「われわれはその波長を青とする」と決めたからに他ならない。
この世界には実質、なにもない。
だけどそれでは不便なんで、生物の進化は、光と電磁気力による作用を、色として、質として、実体感として※1認識できるようにしたんだ。
なにが言いたいのかというと、あなたが見てる世界はあなたが脳内でつくってるにすぎない、ってこと。
本当はこの世界にはなにもなく、原子という(もっと突き詰めれば、素粒子という)虚像がたゆたってるだけなんだ。
つのが、量子力学が結論づける原子論なんでした。
おしまい
※1 脳が立ち上げるこの実体感の幻想を「クオリア」という。
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手を合わせてみて(なーむー・・・)。
あなたの手の平は、分子、原子で構成されてる。
その原子は、原子核と電子で出来てて、これらは電磁気力を持ってる。
その電磁気力によって、右手と左手とは反発し合い、あたかもそこに右手があるように、あるいは左手があるように、手応えが感じられる。
これこそが、物質に実体感があるように思える・・・つまり位置と運動量しか持たない素粒子がつぶのように感じられるトリックだ。
甲子園球場のグラウンドの中心にあずきがあり、球場の外周をケシ粒がめぐってる、というスカスカの原子モデルを紹介した。
それを手の平にのるほどのカプセルに縮小しても、あずきは同じ縮尺で小さくなり、ケシ粒はさらに同じ縮尺で小さくなり、したがってカプセルもまた、球場モデルと密度は寸分も変わらないことに注意する必要がある。
球場大のモデルを素粒子の大きさにまで縮小しても、原子の密度は・・・つまりぼくら人類の肉体や地球の密度は、甲子園球場の広大な空っぽと完全に=なんだ。
なにも詰まってないの、この肉体には。
つぶなんてひとつも使われてないの。
実体なんてどこにもないの。※1
すべては虚ろなマボロシ・・・
なのになんで触れてみてみっしりと感じられる実体感があるのかというと、それは電磁気力による反発の効果なの。
磁石のS極とN極を近づけ合うと「ぷるんっ」とするやつなの、この両手の平を合わせた手応えは。
だとしたら、色は?
なにもないのなら、なんでそこに実際にものがあるように見えてんの?
つづく
※1 機動戦士ガンダムでは、バズーカ砲などの持ち運べる弾を「実体弾」として、レイザービームのように実体のないエネルギー集中タイプと区別してたが、ぼくらの体はまさにビームで出来てるんだ。
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水素原子は、原子核に陽子がひとつ、外周の軌道上に電子がひとつ、という最もシンプルなユニットだ。
甲子園球場のグラウンドの中央にあずき大に集中した電荷+1のエネルギーがあり、球場のワンブロック全体に電荷-1の霧が立ち込めてる、という描像をイメージしよう。
原子とはこうまでスカスカの空っぽで、いわゆる物質的な手応えがどこにもない。
では、ぼくらが感じる触感というのはどこからくるのか?
球場もの大きさの原子モデルは扱いづらいので、手の平にのるほどのカプセル大に縮小しよう。
この野球ボール大の透明なカプセルにした水素原子を、ふたつ用意する。
複数の原子を寄せて、分子をつくるんだ。
基本的に原子内の電荷は±が相殺されて中性の体を取ってるけど、ふたつのカプセルを近づけると、まずは外縁に配された-電荷同士(電子×2)が反発して弾き合う。
ところが原子核の+電荷は、自分の電子と同時に、相手の電子の-電荷も引き寄せる。
つまり双方の原子核は、双方の電子をクロスして引っ張るわけだ。
こちらの原子核があちらの電子を引き寄せ、あちらの原子核がこちらの電子を引き寄せて、ふたつの水素原子は、電子にひょうたんの軌道を描かせる形で混じり合う。
が、原子核同士は同電荷で反発し合うから、お互いの中心部分が触れ合うことは決してない(触れ合えば核融合爆発が起きる)。
これが共有結合、すなわち水素分子「H2」の構造だ。
さて、ここで思い出すべきなのが、水素原子とはスカスカの空っぽの手応えゼロの実体なしオバケだった、という事実だ。
それが、ふたつのカプセルをくっつけ、左右から思いきりプレスすると、ふたつの原子核同士は電磁気力で反発し合う。
このときはじめて「そこにものがあるような」抵抗が得られる。
感触が。
なにもないところに、なんと実体に触れてるような手応えが発生したぞ!
再び原子の大きな外観に戻る。
甲子園球場のグラウンドの真ん中にちょんと置かれたあずき大の原子核に対して、けし粒のような電子が球場の外周ほどもの広さで取り巻いてるのが、原子の姿なんだった
軽い電子は、2000倍も重い陽子に電磁気力で捉えられてる。※1
電磁気力もまた引力(または斥力)なんだけど、電子は凄まじい運動量による遠心力で原子核から遠ざかろうとする。
つなぎとめられながら、逃げ去ろうとする結果、これがうまい具合いに釣り合う。
電荷−1の電子に対し、原子核内の陽子の電荷は+1と、なぜか力関係が逆向きにピッタシなんだ(ちなみに中性子は±0)。
これには、原子核内の核子に三つずつ収まるクォークの電荷が関係してる。
クォークには2種類あり、アップクォーク(U)とダウンクォーク(D)という。
Uの電荷は+2/3で、Dの電荷は−1/3だ。
陽子はUUDというユニットで構成されてて、電荷を足すとちょうど「1」、中性子はUDDの構成で、差し引きするとちょうど「0」になるんだ。
まったく、自然にはなんて精妙な計算が働いてるんだろう。
こうして電子は、2000倍もの質量差がありながら相性どんぴしゃな陽子に寄り添うように、球場外周の軌道をぴたりと取る。
だけど、たまに−1の電子が、引力に吸い寄せられて+1の陽子に捕獲されることがある。
この際には、陽子の電荷が相殺されて±0になり、中性子に変容する。
これがいわゆる「崩壊」だ。
まったく面白い関係だよ、原子を構成する三人ときたら。
つづく
※1 これらを構成する素粒子には実体がないと言ったけど、特殊相対性理論のE=mc2により、そのエネルギー量は質量に換算できる。素粒子はつぶじゃなく、純粋なエネルギーと認識しておいた方がいい。
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さて、原子の姿を外側から追ってたけど、今度は内側から描写する。
甲子園球場のマウンド付近にちょんとあるあずきの内側、つまり原子核の中の光景だ。
前回に「原子は物質を構成する最小パーツ」という前近代的な表現を使ったけど、そのパラダイムは百年も前に間違いだとわかってるんで、きちんとした解答を用意したい。
物質を刻みきったいちばん小さなパーツは、クォークって素粒子だ。
クォークもまた電子のように実体がなく、位置と運動量のみを持つマボロシみたいなやつと考えていい。
しかも常に三つワンセットで活動する(基本ユニットを構成する)ので、単体を観測されたことがなく、真に数学的な存在だ。
三つのクォークは、重力でも電磁気力でもない、クォークにだけ効力を発揮する引力(核力)に拘束されてて、それがあまりにすごい接着力による封じ込めであるため、人類の稚拙な科学ではいまだはがすことができてない。
そんな三つがひと固まりとなり、陽子、あるいは中性子という「核子」をつくり上げる。
そして核子がまたひと固まりとなって、ようやく原子核となる。
甲子園球場のあずき粒の中には、こんなにも複雑な内部構造があったわけだ。
核子がなぜ原子核に集中してひとかたまり(つまりあずき状)になってるのかというと、クォークに働く核力が核子同士にまでガチガチの引力を及ぼし合うからだ。
重力と電磁気力の効果が宇宙の果てにまで及ぶのに対して、核力は原子核のさしわたし程度にまでしか届かないんだ。
このことは逆に、クォークにかかる核力が原子核のさしわたし分しか効かないために、原子核はその大きさに収まってると言い換えられる。
この核力のガチガチの拘束がはがされ、核子が分かれると「核分裂」となり、核力でくっつき合うと「核融合」となる。
これが原子核の中で起こってる出来事だ。
つづく
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あなた、原子のつくりって「ちゃんと」知ってる?
物質世界を構成する基本単位であるこいつの(現代的な)描像がいまいち世間に浸透してないようだから、きちんと説明してみるよ。
原子は、ものを小さく刻んでいって、最後の最後に「もうこれ以上はふたつに分割できない!」という物質の限界最小パーツと説明される概念だ。
だけどこれが最小じゃなかった、って話。
だって、刻んで刻んで最小パーツと思えるまでになった小粒をズームアップし、例えば甲子園球場ほどの大きさにまで拡大してごらんよ。
もしそれが砂つぶのように中身の詰まったものだったとしたら、もう一段小さく砕けない理屈はない。
ところが原子のつくりはそうじゃなかったんだ。
行き着いたその最小を拡大して調べてみると、球場のマウンド付近にあずきほどの原子核がちょんとあり、それを中心にして、スタンドの外周ほどの大きな軌道をけし粒のような電子がめぐってたんだ。
これが20世紀初頭の古典物理による原子の説明だよ。
原子の中身って、スッカスカの空っぽだったんだ。
が、21世紀も近づくと、さらに描像がマジカルになる。
最新の量子論では、電子は原子核の周囲を回ってるわけじゃなく、取り巻いて存在してる、と説明される。
軌道周回する電子には実体がなく、位置のみ、あるいは運動量のみを持ってるんだ。
そして「電子はあまりにもはやいスピードで原子核の周囲をぐるぐると周回するため」という説明は正確じゃないけど、ここではそれがわかりやすいんでそんなふうな感じとだけしておくが、甲子園球場の容積内いっぱいのあらゆる位置に電子はひろがってる、という状態になってる。
電子はもやもやと雲状の球体に散開してるんだ。
ただ、これを「回ってる」と表現するのは間違いだ。
なぜなら電子は、一個しかないにも関わらず、雲の中のすべての地点に同時に存在してるからだ。
まるで無限数個に分身したかのように。
つづく
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有機体における最初の「入魂」って部分を知りたい!
その作業を経たものが、すなわち生命体となるわけなんだけど、なかなか取っ掛かりが見つからない。
つわけで、ついにわが探求の旅は、脳神経科学方面にまで踏み込んだんだった(この分野では、劇的な相転移ののちの進化展開しか教えてはくれまいが)。
ものの本によれば、原形質的な最初期の有機体は、体外近傍からの刺激に対する機械的な反応をまず覚えた。
酸に触れたら吐き出す、糖に触れたら取り込む、など、自分の構成成分を保持するための、これは意識なしの化学反応と言える。
ところがこの単純な自動的対応(反射)が進化し、ある時期にシンギュラリティを起こすわけだ。
外界のあれやこれやへの正確な対処のために、刺激受容体の感度を発達させたうえに、システムを一元化しはじめたのだ。
装置が緻密になり、大掛かりになり、洗練されると、やがて神経系を束ねた奥に中枢部(単純脳)をつくって、情報を統括するものが現れる。
体の外縁に触れるものの印象情報を総合すれば、周囲の状況や置かれた環境をおぼろにイメージできる。
すると今度は、イメージされた事物に働きかけようという機能が発達する。
神経束は、インプットされた刺激の統合→反射(忌避する、親和する)という原始的対応から、ついに能動的なアウトプット、つまり「活動」(追う、逃げる、戦う)を行うところまでを担いはじめた。
この操縦者こそが、原初の魂なのではあるまいか?
情報の収集と整理のみを行なっていた統括部に、目的という概念が発生し、それにともなう積極的な営みが開始されたわけだ。
原初意識は、ついに意思へと到達する。
さらに重要なのが、光受容装置を発達させた視覚の獲得だ。
受容体に飛び込んでくる光子に科学的に反応して光と影をオンオフで判断していた分子が、磨かれ、集まって画素数を増やし、神経のメカニズムを発展させて、外界の細密な姿を認識しはじめたのだ。
こうなると、周囲の狭いエリアを探るのみだった外意識が、遥か遠距離にまで拡大される。
近接物との直な触れ合いで肉体内のやりくりに終始していた閉鎖世界とは別ものの、「外界の中に位置するわたくし」というひらかれた認識と感覚は、進化のリミッターを完全に取っ払う。
生命は、世界の構造を理解するとともに、自分の立場や社会との関わり合いという難しい概念に到達し、ついに「食う」「食われる」の場における適者生存の競争を本格的に開始するわけだ。
こうして、情報解析と対処に莫大なエネルギーを投資したものが、世界を支配することになる。
・・・と、今んところはこんなまとめ方。
だけど、どの局面で入魂がなされたかは、まだ謎のまま。
つか、最初の時点で、すでに作業はすまされてたような気が・・・
究明にはまだまだ遠い。
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太古の昔、地球の大気中に、酸素はほとんど存在しなかった。
この星は、二酸化炭素に満たされてたんだ。
そこに、葉緑体系の生物が発生した。
つまり、植物が。
植物は、二酸化炭素と水とで炭水化物をつくり、エネルギーとした。
これを化学式にかけると、酸素が余る。
要するに植物は、二酸化炭素を吸い、必要のない酸素を大気中に吐き出しまくった。
酸素は、森を発火させ、土を錆びさせ、細胞を老いさせる、危険な毒だ。
緑が大地を覆い、酸素に満たされた地球上で、最初の破滅的絶滅が起きた。
そこに、そっとミトコンドリア系の生物が誕生した。
つまり、大ざっぱに言って、動物が。
動物は、酸素と炭水化物とでエネルギーを発生させ、二酸化炭素を余らせる。
要するに、酸素を吸って、植物を食べ、二酸化炭素を吐く(ぼくらがしてる行為だ)。
こうして大気中に、今度は二酸化炭素が満ちた。
二酸化炭素を吸って酸素を吐く植物たちは息を吹き返し、するとさらに、酸素を吸って二酸化炭素を吐く動物が繁栄し、奇跡のような円周回がはじまった。
地球上ではこうして、反タイプの生物がお互いを支え合いながら、循環環境を維持しつづける。
考えれば考えるほど、うまくできたパズルだ
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mRNAワクチンのメカニズムの、最も簡潔かつ基本的な知識をここに書き留める。
さて、ワクチンの前にまず、「ウィルス」について理解しておかなきゃならない。
ウィルスは、微生物である細菌などとは違って、呼吸も新陳代謝も自己複製(自発的に子孫をつくること)もしない、生物と無生物の中間にある物体なんだ。
その構造はシンプルかつ無機的で、ほぼDNA(自分のコピーをつくるための設計図)の入ったカプセルと言っていい。
能動的に動けないので、空中を浮遊して移動するしかない(生物というよりも、鉱物に近い)。
ところが、これが生物の体内に入り込むや、寄生先の細胞のDNAに働きかけて自分のコピーをつくらせ、増殖して(させて)いく。
増えに増える。
やがておびただしいウィルスにおかされた寄生先の生物は、せきやくしゃみをさせられる。
あるいはうんちや、さいあく死んで腐って体液を垂れ流すことで、体内のウィルスをさらに世界中にばらまかされることになる。
かくてウィルスは大繁栄する、というわけ。
・・・ふむー、無生物が書いたにしては、うまいプロット(台本)だ。
上記したように、ウィルスは生物とは言えないので、毒では殺せない。
蚊取り線香でも、殺虫剤でも、いわゆる「殺菌作用」のやつでも無理。
生きていないから、死なないのだ。
つまり、壊すしかない。
なので人類は、アルコールで彼らを溶かして、浸透を防御するんだね。
だけど、一度体内に入ってしまったものはどうすることもできないので(お酒を飲んでもだめなようだ)、ワクチンを、というわけなんだった。
RNAの前に、まずはDNAのシステムをおさらいしておこう。
DNAは、四つの文字(塩基)によってその生命体の遺伝情報が書き込まれた二本のひも状分子で、おなじみの二重らせん構造に絡み合っている。
片方のひもに書かれた文字列は、もう片方のひもの対面の文字列と対になっているので、二本をほどき、それぞれに対応する塩基を新しくパズルのように当てはめていけば、文字列を新たに複製することができる。
そうしてコピーをつくることで情報を保存し、自らを収蔵して便利に動きまわれる生命体そのものを組み立て、維持し、子孫(遺伝実体のコピー)にまで情報を連綿と受け継がせていこうというのが、DNAの企てなんだった
生物は、DNAの指令によって行動し、遺伝情報を伝えるために次の世代をつくらされているに過ぎない存在なのだよ、ちょっとこわいね・・・
ま、それはさておき、肝心のRNAだ。
RNAは、DNAの文字情報を「実体」としてつくり上げるために働く、コピペ係と言っていい。
まずこいつは、DNAの二重らせんの一部をほどいて、二本の対となっていた文字列をむき出しにする。
さらにその片側にくっつき、欲しい情報(わりと短文であることが多い)を読み取って、対となる文字起こしをする。
この文字は記号ではなく、塩基という物質でできているので、塩基の配列を新たにつくれば、情報のコピーの持ち出しは可能なのだ。
この短い一重らせんの形をしたコピーこそが、m(メッセンジャー)RNAだ。
mRNAは、得たコピー情報を細胞内のリボソームに持ち込み、読み取ってもらう。
すると、t(トランスファー)RNAというやつがアミノ酸をつないでいき、欲しかったタンパク質の形に編み上げてくれる。
噛み砕いて言えば、人体の仕組みを網羅したファイル(DNA)を元に、必要なパーツの設計図をmRNAがコピーして工場(リボソーム)に渡すと、作業員(tRNA)が材料を集めて組み上げてくれる、というわけなんだった。
さて、いよいよ本題のmRNAワクチンだ。
ここで重要なのが、コロナウィルスが体内に格納しているのは、DNAではなく、RNAだという点だ。
遺伝情報は、必ずしも高度なDNAではなく、RNAの一重らせんの形でも事足りるのだ。
DNAという素晴らしく完璧なアイデアが生まれる前、古代世界に生きる先達はRNAによって情報を後世に伝えていたのだよ。
そんな名残なのか、コロナウィルスは自らの情報をRNAの形で保存しているのだった。
そのゲノムを読み取った人類は、それを逆手に取って、コロナ撃滅の反撃に出たのだな。
日々、報道などで目にするコロナウィルスの姿を思い浮かべてほしい。
ころりと丸いボディに、「スパイク」というトゲトゲが飛び出している。
この突起は、コロナウィルスが生物に取り込まれようとする際に、相手の「レセプター」という受容体と噛み合わせるためのジョイント部だ。
要するに、人類の体内の細胞にコンセントがあり、ウィルスのスパイクは、それにぴったしと合うプラグの役割を果たすわけだ。
このタンパク質製の小パーツ(スパイク)の構造をコピったmRNAこそが、mRNAワクチンなのだった。
さて、「コロナウィルスのスパイクパーツの遺伝情報」を、きみの体内に注射するとどうなるか?
細胞深部に浸透したmRNAは、リボソームに働きかけ、tRNAにアミノ酸をタンパク質の形につながせて、スパイク(つまり、コロナウィルスの無毒な一部)を作成し、体内に解き放つ。
対してきみの体内の免疫機能は、この異物を排除しようと襲いかかる。
スパイク自体にはなんの害もないので、人類は罹患することもなく、この対決(練習試合)にあっさりと勝利できるのだった。
人類の体内に侵入してきた異物を「抗原」といい、特定の抗原に対応する専門の迎撃隊を「抗体」という。
件の模擬戦での勝利によって、きみの体内には、コロナウィルスのスパイクに対応する抗体ができたわけだ。
この一回目の戦闘後、コロナスパイクにぴたりと接合するレセプターを獲得したきみの免疫系は、戦った相手の面構えを知る「記憶細胞」として眠りに就く。
さらにきみは何週間か後、二回目のワクチンを打つわけだが、このときの体内の反応がすごい。
「こないだのあいつがまたきゃーがった!」とばかりに、記憶細胞が一斉に目を覚まし、抗体として爆発的に増殖して迎え撃つのだ。
こうして二度の注射を終えたきみは、コロナウィルスに対するおびただしい防衛部隊をからだ中に展開し、隅々にまで警戒のセンサー網を張り巡らせて、さらなる襲来に備える態勢を整える。
そしてついに、すわ本番!となる。
きみは実際に感染して、いよいよコロナウィルスという本物の害毒が入ってくる。
ところがそのときには準備万端、アリ一匹通さぬ(アリの方がウィルスよりもはるかに大きいが)免疫センサーがウィルスのスパイク部分に反応し、素早く、かつおびただしいキラー細胞たちを前線に差し向けるわけだ。
きみは、二度のワクチンという「罹患の疑似体験」をすることによって、堅固な防衛態勢を敷き得たのだった。
まったく、うまく考えられたもんだよ、mRNAワクチン。
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