裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

過渡期

2008年12月18日 09時38分55秒 | Weblog
資本主義が進みすぎるとこうなるのかー・・・
アメリカの政策はいわば実験で、それが大失敗した、とこういうことなのでした。
成長と頽廃があって、まん中の成熟というプロセスがすっぽり抜け落ちてるのがアメリカだ、とはよく言われてる言葉ですが、極端ですね、この国は。
勝ちすぎて、「謙虚」という姿勢を忘れてしまった結果でしょう。
思えば、長い冷戦の末に共産主義に打ち勝ったのが、もう17年も前ですよ。
そこから大変な自由競争がはじまり、勝ち組が勝ちつづけ、負け組は際限なく負けつづける社会が出現したのでした。
東西の分けへだてがなくなり、グローバル社会だとかで、資源や食料は長大な距離を移動し、大金持ちのところにだけ集中するようになりました。
さすがにここまで片寄ってくると、世界経済はひずみ、シリアスな状況が生まれます。
カウンターバランスが利いて、ここにきて社会主義というか統制経済というのか、アメリカが赤っぽくなっていくのは少々皮肉。
結局、日本的社会主義が人類を救うことになるんじゃないですかね。
日本は日本で、それが進みすぎて官僚が力を持っちゃって、崩壊寸前の共産主義国家みたいになってますけど。
やっぱし、やりすぎはよくないね。
今、世界は大きな変革の過渡期にあるのです。
不景気はその産物。
がんばってここを乗り切って、新しい思想を生み出しましょう。
大量消費、大量廃棄・・・こんなで地球がもつわけがない。
身の丈の消費と、精神生活。
サムライのやせ我慢がどれだけかっこいいか、世界も理解しなきゃいけないね。
↑日本人は特に思い出してほしい思想です。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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剣のひと

2008年12月16日 09時16分48秒 | Weblog
池波正太郎の「剣客商売」を読んでるんですが。
いやー、面白いです。
時代小説、ってものには手を付けたことがなかったんだけど、いや実に。
中身は、剣に生きる親子の話でして、真剣勝負の臨場感というか、緊張感みなぎる空気の描写がすごい。
その中に、果たし合いで刃を向け合ったまま何時間も相手と対峙しつづける、というシーンが幾度もでてきます。
剣道なんかで、相手の竹刀の先をちょんちょん小突き合う作業があるけど、あれは相手とのレンジをはかりつつ、剣の切っ先を、正対する相手と自分のからだの芯との正中線に置くためのせめぎ合いなのね(たぶん)。
刃先の置きどころが少しでも乱れてると、剣の軌道がよれて、相手の急所に打ち込むことができないわけ。
渾身の一撃は、周到な準備によってはじめて可能なのです。
だからこの小突き合いは、殊に試合(死合い)の際には、非常に重要になってきます。
そんなシーンを読んでて、ぼくはいつかNHKスペシャルで観た剣道の試合を思い出したので、そいつをユーチューブで探してみました。
そしたら、ありました。
これは何年か前の、剣道の世界選手権・決勝の模様です。
記憶を頼りに説明すると、この前年まで世界選手権を連覇しつづけてきた日本は、新鋭諸国の台頭でいよいよその立場がやばい、となりはじめたこの年、新強国の筆頭である韓国との団体戦決勝、という状況。
でまた、先鋒、次鋒、中堅、副将と、倒し倒され、まったく互角で迎えた大将戦、という最高の舞台立て。
いわば、日韓の代理戦争を任された最高峰のふたりです。
敵方大将の「キム」という選手は、実力では世界一と言われる大男で、日本人相手の勝負にめっぽう強い。
相対するわが方の大将は、「栄花(えいが)」という、なんとも美しい名前を持つ小さな剣士です。
このひとが伝説になるわけ。
さて試合ですが、むき身でボコボコに打ち込み合う派手な展開も面白いけど、この勝負は息も詰まりそうな静かなもの。
先に言った、竹刀の先をちょんちょんとつつき合う時間が延々とつづきます。
見てる方はつまんなくても(ほんとは瞬きもできないんだけど)、本人たちの集中力たるや、とてつもないものです。
咳を払うのもはばかられる、会場はピンと張りつめた雰囲気に包まれます。
10分もの間、彼らはにらみ合いをつづけます。
が、キムの方がちょっと息をつきたくなったのか、少しだけ雑に竹刀を払う。
すると瞬後です。
栄花は鬼の集中力で、相手の呼吸をはかってたのです。
相手の剣の脇をすり抜けて、ふところに飛び込む。
面でも、胴でも、小手でもなく、それはもう度肝を抜かれるような大技。
電光石火の「突き」。
つまり、竹刀の先をまっすぐに走らせて、切っ先を相手のノドに突き込んだわけ。
針穴を射抜くような、乾坤一擲の打ち込み。
どんな修行を積んだら、こんなえげつない神経を・・・じゃねえや、動かない心を会得することができるんでしょうか?
ここでわかったわけ。
韓国人は試合をしてたけど、日本人は勝負をしてました。
「負けたら腹を切る」くらいの覚悟でいたはず。
でなきゃ、あんな結末って・・・
その後、伝説となった剣士・栄花になんの関係もない西洋の剣士たちが号泣しながら握手を求めにくるシーンも、そしてそれに応じる栄花のおだやかな人柄も、ちょっとした感動もの。
なんだか話がよく分かんなくなっちゃったけど、時代小説を地でいく剣士がこの世の中にもいるってことを思い出したんで、書いてみたのでした。
オレもあんなサムライになりたいなあ・・・

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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大河ドラマ

2008年12月08日 03時07分21秒 | Weblog

ひっさしぶりに「篤姫」を観たけど、おっもしろいねー。
脚本の力がすごいですよ、このドラマは。
セリフのいっこいっこが練られてて、深くて、格調高くて、じつに見入らせられます。
「新選組!」は、ディテールの奇抜さだけで勝負する脚本家が本筋もリアリズムも忘れた状態に落ち入って空回りしてる感があったし、前作のなんだっけ、武田の軍師のやつは、芝居もセリフ回しも大仰でケレン味たっぷりで、ちょっと力みすぎてる感がありました。(どちらもまともに観てないが)
その点、「篤姫」の演者さんたちはみんなナチュラルで、のびのびと言葉を操ってる風情がさわやかでよろしい。
宮崎あおいさんは、表情がふたつ(笑顔かそうでないか)しかないのが気になるけど、声音で雰囲気を使い分けることができるテクニカルな女優さんです。
若い頃のはじけた芝居と、年を重ねて落ち着いたたたずまいの使い分けは、見事なプロフェッショナルの仕事。(じつを言えば、そここそが好きになれないんだけど)
瑛太は、自然だし丁寧だけど、芝居が少々青い。
そんな中、やっぱしこのドラマでいちばん感心するのは、言葉の強さです。
書き物にしても映像媒体にしても、たったひとつの言葉を聞かせるために、長大な物語は構築されてます。
チャンドラーの書いた「長いお別れ」は、フィリップ・マーロウが「ギムレットには早すぎるね」と言った瞬間にすべてのエピソードのカギが開いて、読者はもうそのセリフにただただ鳥肌を立てるしかないわけです。
この一点だけが言いたかったの。
そんなツボを、「篤姫」のタブチなにがしという脚本家は完全に心得てて、まったく脱帽させられます。
何度かしか観てない中でぼくが覚えてんのはね、最初期の頃のこんな場面です。
篤姫と名乗る以前の少女時代のお姫様が、不遇をかこつ人物(大久保利通のお母ちゃんかな?)にほどこしを与えようとして、相手にこうたしなめられます。
「わたくしにも誇りがございます」だかなんだか、と。
お姫様はへこみ、お家に帰って母親に相談する。
「誇りとはなんでしょう?」
樋口可南子演ずる母親は答えます。
「そのひとが、そのひとであるべき芯のようなものです」
で、
姫「わたくしは、あるひとの誇りを傷つけてしまいました」
母「いいえ、その方の誇りは傷ついてなどいません」
姫「?」
母「傷つけたなどと思うのは、おまえのおごりです」
・・・このやり取りは、登場人物たちの性格づけと、お互いの相関関係の説明を担ってまして、その作業は完全に成功してます。
ぼくはたまたまこの部分だけを垣間見たんだけど、この脚本家はただ者ではない、と感じましたっけ。
今日も観たけど、やっぱしすごかった。
すごい集中力で描かれてます。
来週はもう最終回なのか・・・
あー、最初っから全部観てみたいなー。
このドラマはおもしろいにちがいない。
いや、ちがいなかった、か。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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芸術は爆発か

2008年12月04日 10時35分09秒 | Weblog
岡本太郎さんの巨大壁画が渋谷で公開されてます。
ぼくはこのひとの作品を「よい」と思ったことがありません。
秩序もない、洗練もない、強さもない、そもそも美しさがない。
かといって秩序を崩しきってなにか新しい世界を創造するでもなく、洗練を超越して頽廃に向かうわけでもなく、美しさ自体を否定して思想を構築するでもなく、そもそも器用じゃないから、彼が影響を受けた芸術運動の表面的な模倣ですら稚拙なものになってしまうのです。
彼自身はとてもおもしろい人物で、その存在そのものが芸術(この部分ですら、ぼくは「エンターテイナー」か「人気者」と呼びたい)なんだけど、愛すべきキャラはそれはそれとして、作品という点ではまるでいいものを残せてないという事実はちゃんと直視しなきゃいけません。
大阪の万博会場にそそり立つ「太陽の塔」は、その巨大さで見るものを圧倒するものの、その大きさ以外にほめたたえる部分があるか?ということです。
その大きさを実現したところまでは芸術的行為だったはずですが、残念ながら作品そのものが美しくないので、言えば、巨大風車を見上げてる方がはるかに心動かされます。
ところでぼくは常々、日本のブルースというのは、なぜアメリカ南部のブルースとまったく別物に仕上がってしまうんだろう?と思ってました。
和ブルース(森進一や和田アキ子あたり)と演歌、この境界線がわからない。
それは日本人の「血」ってものですが、岡本太郎さんを筆頭とした和製西洋美術にも同じものを感じます。
芸術が演歌くさいの。
ただ、和ブルースは完全にオリジナルな、というかパーソナルな普遍性にまで昇華したのに対して、和製西洋美術はついに筆の動きの模倣にとどまってしまいました。
思想までは移植できなかった。
岡本太郎さんがマネしようとしたシュールリアリストたちは本物の狂人で、例えばダリなんてひとはかなりコマーシャルなひとだったけど、自分の天才っぷりを完全にコントロールするセンセーショナルな狂気を持ってました。
また、彼があこがれたメキシコ壁画の巨匠たちも、完全にいっちゃってる上に(トロツキーの暗殺を実行した人物までいる)、シャレ無しに「死ぬか生きるか」というまでのリアルな熱情を持ってました。
作品の前に立つだけで、誰もが言葉を失い、目に涙がにじみ、拳を握りしめてしめてることも忘れてしまう・・・そんな魂の叫びを持ってたわけ。
それに比べてね、岡本太郎さんはまだまだ壊れっぷりが甘いというか、マネに終わってるというか、狂いきれてないし、作品が「デザイン」に見えてしまいます。
デザインをバカにするわけじゃなく、デザインってのは合理性のたまものだからね。
そういった意味で、岡本太郎というひとは、実は「かしこくてヘタなひと」なのではないか、と怪しんでるぼくです。
画を観た感想でした。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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