裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

死んだらどうなるか?問題・30

2022年12月27日 18時36分54秒 | 死んだらどうなるか?問題

前回からのつづきです。
さて、あなたはそろそろ重力に抗うまでの力を獲得し、立ち上がります。
よち、よち・・・
そして新世界を耕すために、新境地への冒険の旅(歩行移動)を開始します。
制約が解除されて行動範囲がひろがると、広大な外環境の立体地図が頭の中にできていきます。
こうして脳内に構築されるのが、あなた独自の解釈世界というわけです。
その世界の中で(世界はむしろ、あなたの中にあるのですが)、あなたは自分の肉体を稼働させ、感覚器で刺激を受容しては反応し、外環境からの応答を脳内に反映させて、図面を精緻なものにしていきます。
そうして脳内世界を切り拓いていくうちにあなたは、「判断する」「考える」という作業を覚えます。
反射反応頼みのディフェンス一辺倒だった戦略に、オフェンス(外環境への意図した働きかけ)が加わるのです。
もはや与えられるだけではなく、目的を持ってそれをつかみ、嗅ぎ、味わって、脳内のクオリアを豊かなものに育てていきます。
さらにあなたは、例のいちばん近しい生物個体に「ママ」と呼びかけてみます。
すると、ママは大よろこびをして、あなたを抱きしめてくれます。
このコミュニケーションの成立は、お互いの個体を識別する以上の意味を持ちます。
あなたは、外環境との対立軸としての主体(他者に対して、より内的なもの)の存在を理解し、双方の関係への能動性を獲得したのです。
ここはとてつもなく重要な部分なので、最新の注意を払って描写します。
あなたは、脳内に築いたあなたの世界に社会性という概念を持ち込み、その中心に「核」を置いたわけです。
周囲という観念を相対的に生じさせる、真に本質的なものの存在を。
それが「自己」なのです。
あなたは、ついに自分という存在に気づいたのでした。
外環境と自分、という相関関係は、あなたの世界にとって目覚ましい発展です。
視界に映る光景を記述することしかできなかった能力が、主体との関係性で説明できるようになったのですから。
次元がひとつ上のステージへの創発と言っていい、画期的な瞬間です。
身動きも出来なかった赤ちゃんの頃から外環境を観察し、成長するに従って周囲に働きかけることを覚え、双方向の応答によって学び、世界の認識を高めていくうちに、その中心に位置するところである一人称の概念が、突如として意識されました。
その萌芽は、まさにビッグバンの特異点のような閃きです。
そこから先は、新時空間が開いて膨張し、星ぼしが散りばめられていくような勢いで、「自分」という存在への肉づけが行われていきます。
社会と名を変えた周囲には、自分の姿が鏡のように映り込んでいるので、その中で振る舞うことは「あなたがあなた自身を理解する」という作業でもあります。
多角的で多面的で広くて深くて濃くて・・・まさしくひとりの人間のアイデンティティが形成されていく行程です。
そうしてあなたがあなたの内部に胚胎させた一人称の意識は、主体的な経験を重ねる肉体と同化し、明確な「あなた」となっていくのです。
声を出してみて「わたしとはこんな声か」と、鏡を見て「わたしとはこんな姿か」と、手足を動かしてみて「わたしとはこんな能力か」と。
そして社会のいろんな要素との相互作用の中で、自分という存在の要素をふくらませて「わたしとはこういう人間か」と。
こうしてついに、「わたしとは、わたしの中身なのだ」と、つまり自我に行き着くわけです。
さて、ここまで純粋に、遺伝子の命令と細分化された細胞の働き・・・すなわち、機械的な反応と対処、さらに学習機能によって、あなたは生命活動をつづけてこられました。
その間に、ふと振り返ると、タマシイが肉体に宿る瞬間はありませんでした。
あなたは、いつあなたになりましたか?
それは、いつからともなく、内側から湧いてきたのでした。
「わたし」とは・・・言いかえれば「心」とは、神さまとは関係なく、こうして物理学と生物学、医学生理学のみによって生ずるのではないでしょうか。
わたしとは、霊的なものではなく、タマシイの形をしてもいません。
遺伝子が支配する生命装置の奥底で、感覚神経・運動神経間の電流の行き来が複雑化した末の、外環境に対する反応の集積、社会を鏡とした跳ね返りの総合・・・それこそが「わたし」なのです。
ぼくはそのことを、布団にくるまっているうちに理解しました。
つまりあなたは、あなたの肉体が物質世界にあって、あなたのタマシイが霊的世界からやってきて乗り込み、操縦し、肉体が滅びた後にまた何者かの肉体に引っ越す・・・などという質のものではないのではないかと。
あなたが存在するのは、あくまでもあなたの内部にであって、あなたはあなたの中に生じ、あなたを膨らませてあなたを形づくり・・・そして、この長い長い書きもののついに結論(タイトルに書かれている大テーマ)に迫る部分なのですが、時がくれば、あなたはあなたの中で自分に始末をつけることになるのではないか・・・とぼくは考えるのです。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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死んだらどうなるか?問題・29

2022年12月26日 08時29分52秒 | 死んだらどうなるか?問題

ひとの内面に、自我はいつ芽生えるのでしょうか?
深夜に布団にくるまって考えているうちに、ぼくは赤ちゃんになっていたのでした。
そのときの不思議なイメージ体験(思索)が、ぼくの死生観、タマシイ観のベースになりました。
ここでは、そのときのシミュレーションを「あなた」に追体験してもらいます。
お父ちゃんとお母ちゃんの遺伝子が減数分裂でひとつに結ばれ、胚となりました。
つまり、お母ちゃんのおなかの中に、もうひとつの命が・・・あなたの初期細胞が発生したのです。
とは言え、あなたはまだお母ちゃんの一部です。
細胞分裂によって日に日に大きくなっていきますが、ぬくぬくとした閉鎖系の羊水の中で栄養を与えられ、へその緒でお母ちゃんの臓器につながれていて酸素の供給も行き届き、一個体として独立できてはいません。
おなかの中にいる赤ちゃんは夢を見ている、とよく言われますが、少々疑問です。
ただの細胞の固まりであるあなたはまだ、ただひとつの体験もしていないので(あるいは、閉所に固定されていることしか体験していない、とも言えますが)、夢を見るとしても、その内容は暗闇オンリーでしょう。
体内にめぐらされつつある運動神経に通電すれば、若干動くことが許されますが、その活動は主体的なものではなく、外界からの刺激に対しての無意識な反射反応です。
さて、機が熟し、あなたはお母ちゃんの体内から、空の下の環境へと生み落とされます。
あなたは「おぎゃー」と言いますが、それはうれしいからでも苦しいからでもなく、はじめて気体を吸い込んだために起きたカウンター反応です。
こうしてあなたは、新しい環境に対する反応のみ(つまり、無意識)で、生という営みを開始します。
そこに、自我はありません。
「自分」という概念をまだ持ち合わせていないので、これは当然のことです。
生まれる瞬間(どのフェイズであなたが完成したのかはわかりませんが)に魂が込められた、ということもないでしょう。
この時点での脳はデフォルト(初期設定)と言っていい状態で、あなたは「あなたの質」をこれからつくり上げる機能のみを備えた、あなたとはまだ言えないあなたです。
この状態の人類は、どの個体もフルフラットな状態で、誰も何者でもないのではないか、とぼくは考えます。
二度同じことを書いて恐縮なのですが、この時点で赤ちゃんは、あなたなのだけれど、あなたになりきってはいない「初期生命装置」です。
さて、近い未来に本当のあなたになるあなたは、ぼんやりとしか見えない世界に可愛らしい瞳をめぐらし、(たぶん)産科の病室という小宇宙を見つけます。
そしてそこに、やけになれなれしい生物の個体(やがてママと認識する)を発見します。
が、そのうごめく塊はまだ「モノ」であり、小宇宙の一パーツにすぎません。
その光景を取り込み、あなたの脳はまず1ページ目を記します。
あなたのまっさらな内部に、新世界が立ち上げられたわけです。
さて、生み落とされたその小宇宙時空で、あなたはどう振る舞おうと考えるでしょうか?
あなたには生まれた実感がなく、「生きる」の概念もまだ持たないので、「生きていこう」とすら考えることができません。
ただ、あなたが生とともに持ち合わせた遺伝子に最初に刻まれているべき事項がありまして、それは「死なないようにせよ」という命令です。
生み落とされたばかりの無防備な生命は、太古の昔から練り上げられた適者生存の法則を正しく守り、傷つかないように、壊れないように、息の根が止まらないように、危うさを察知して回避する反応に徹するのです。
というわけで、あなたは潜在的な本能を発動させ、不快なことから逃れようとします。
痛ければ、泣いていやがってみる。
寒ければ、泣いていやがってみる。
体内の栄養が尽きたら(おなかが減ったら)、泣いていやがってみる。
不潔な分泌物にまみれたら(うんちが出たら)、泣いていやがってみる。
泣いていやがるの一辺倒。
こうして消極的な営み(ディフェンス)をつづけて長らえるうちに、ついにあなたは新たな生理的発見をすることになります。
それは、数億年という日々を送って数々の実験を経た遺伝子が組み込んでくれた、報酬系ホルモンの分泌です。
つまり、生命を発展させようというポジティブな活動にはごほうびが付与される、という体内メカニズムです。
ご飯を食べると、おいしい!
それをすると、からだが大きくなる!
うんちをすると、気持ちいい!
それをすると、体内が浄化される!
手足を動かすと、心地いい!
それをすると、からだが強くなる!
こうした体験を積むことで、あなたの脳内のニューロンは伸びに伸び、シナプスの接続部は激増し、たんぽぽの綿毛が放散して野原一面をお花畑にするように、あなたの脳内は経験と知識で一杯になっていきます。
そうしてついにあなたは、脳内世界に特殊な形で存在する「わたくし」という概念を見つけるのです。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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死んだらどうなるか?問題・28

2022年12月12日 09時10分25秒 | 死んだらどうなるか?問題

今読んでいるリチャード・ドーキンスが、このブログで前章までに書いてきたことをうまく表現しているので(くやしい)、パクリじゃないけど、レトリックだけを頂戴してぼくの考えるところに反映させてもらいます。
「利己的な遺伝子」でおなじみのドーキンスは、生物学界で知らぬひとはいない、ポスト・ダーウィニズムの巨人です。
彼は常に進化論を基にしてものを見ようとするひとで、量子力学と生物進化を掛け合わせた「分子生物学(細胞などの働きを分子レベルにまで解体して構造を知ろうという学術分野)」にもその考え方を持ち込んでいます。
ぼくは前章で、「人類は、世界の本当の姿を見ているわけではなく、自分たちの営みに必要な情報だけを選択して受け取り、活動が都合よくいくように主体的な解釈をしているにすぎない」ということをくどくどと書きました。
ドーキンスはこの点をわかりやすく、「人類の目は可視光だけを見るように進化したため、脳もまた、赤外線と紫外線の間におさまる限定された世界を構築するしかなかった」という表現を採っています。
人類が、もしもガンマ線だけを見るように進化していたなら、この世界は、ぼくらが見ているこの「感じ」とはまったく違ったものになっているはずです。
ヘビは赤外線を舌で感知して世界を構築していますし、コウモリは音波をキャッチして暗闇の中に立体世界を描いています。
犬はにおいで、鳥は電磁気で、ミミズは・・・なんらかの方法で独自に自然界から情報を選択的に受容し、自分たちのオリジナルな風景を築いているわけです。
そんな各々の主観によって描かれた独自な画づらが、人類のものとまったく異なることは、疑いがありません。
要するに、「世界」とは脳内にのみ存在しているもので、その意味ではみんなそれぞれに別の世界に住んでいるのです(同じ人類であるぼくとあなたとでも、それは違います)。
脳が高度に発達したわれわれ霊長類は、原形質に近い微生物の粗い世界とはまったく別ものの、さまざまな情報を総合して細密に組み立てられた世界を生きていると自負するわけですが、逆に、微生物がわずらわされている(あるいは彼らにとってはなくてはならないかもしれない)分子のブラウン運動や、微弱な電磁気力、量子世界のエンタングルメントなどを実感できない粗い世界を生きている、とも言えそうです。
自身の中で発達させた受容機械が、宇宙を飛び交うどの波をどう選択的に拾い上げ、脳内にどんな画を投影しているかによって、その者にとっての世界像(宇宙の形)が決定されます。
事実上の盲目であるコウモリは、相手のコウモリが可愛いかどうかを音で判断しますし、物質表面の細かなキメにぶつかる空気の震え(波!)によって、色彩のようなクオリアまで脳内に立ち上げている(とドーキンスは信じている)ほどです。
その世界を想像すれば、人類が唯一無二のものと思い込んでいる可視光解釈による脳内フィードバック映像が、いかに世界を表現しきっていないか、情報の偏った狭いものであるかが理解できそうです。
逆に言えば、ぼくらの感知の及ぶ守備範囲の外側にこそ、世界の真実はあります。
ぼくらが見ているこの世界は、文字通りに幻想でしかないわけです。
実際にはそこには、ただスカスカな波が立っているだけ、なのですから。
その中のどの波を拾ったところで、それは真実の一部でしかなく、ぼくらには世界の本当の姿を見ることはできません。
何者かの肉体が、例えばどんな電磁気力とも反応しないニュートリノでできていたとしたら、彼にとってそもそも物質という概念は意味を持ちません。
彼の世界には、形も触感も存在しないわけですから。
そんな生命体にとっては、太陽や地球などの天体は真空のようなもので、自身の「カタチ」すらもおぼつかなく、ビッグバンという世界創生からしてまったく別の現象に感じられ、とりあえずは光子とのやり取りや、素粒子の対生成・消滅などにつき合うことをベースにした進化と生き方が求められることでしょう。
だけど考え詰めれば、クォークやニュートリノを含めた素粒子という「波」概念そのものが、ぼくらが脳内に立ち上げた勝手な世界の一部なわけですよね。
素粒子どころか、ぼくらの世界の外には、ぼくらが感知できない、素粒子以外のものからできている生命体が独自に立ち上げた奇妙奇天烈な世界が、つまるところ、彼らの中に存在しているかもしれませんよ。
そんな彼らにとっては、われわれ物質世界に生きる生命体が、感覚的にまったく理解できない奇妙奇天烈な存在に思えるにちがいありません。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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