裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

東北さすらい人助け旅・番外

2011年07月30日 07時14分18秒 | 被災地ルポルタージュ
ボランティアってのは、困ってない側のひとが、困ってる側のひととの距離を縮め、格差を埋めてこう、ってアクションだと思うんだよね。
意欲はもちろん「助けたい」ってところから発生してるんだけど、それは対「外」的な意味づけであって、内観すれば、それは「フェアでありたい」って心なんじゃないかな。
持てる者が持たざる者に施す、なんて慈悲心じゃなく、自分が窮地のヒトビトを救うのだ、って大仰な正義感でもなく、ましてや「かわいそうだから」って思い上がったような動機づけでもなく、それは「自分の心がその状況を許さないから」って、ただそれだけのことなんだよね。
フェアであらねばならない両者間の差を埋めて、平らかにしたいの。
渡されたカードが相手だけ何枚か少ない、ってゲームに興じることを自分に許さない、潔癖さというか、意気というか、そんなマインドが根にあるよ、きっと。
その自尊心のため、むしろ自分のために、ボランティアたちはボランティアをしてるのだった。
それは、自然な振る舞いだよ。
日本を救うのは結局、財政力じゃなく、テクノロジーでもなく、この不合理で、清らかこの上ない「感性」なのだ、と信じるよ。
オレのことじゃなく、ボランティア活動にたずさわるヒトビト全体を見渡してしみじみと感じる印象だよ。
それがわかっただけで、本当に、本当に価値ある経験だった。
だけど、またいくよ。
何度でもいかなきゃね。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

東北さすらい人助け旅・10

2011年07月29日 08時55分34秒 | 被災地ルポルタージュ
草を引いて、引いて、引きまくって、まっさら生まれたてみたいになったエンドーさんちの庭に、目にもあざやかなムラサキの花が「ちょん」と咲いてて、しばし陶然としてしまったよ。
「まあ、桔梗ね」と奥さんが言った。
「きれいね」って。
奥さんはいとおしそうにながめてた。
この光景を見るためにオレはこの地までナニモノかに運ばれてきた、とさえ思ったよ。
オレが動かされたのは、きれいな花を見たからじゃなくて、きれいな花を見てきれいと感じてる奥さんを見たからだ。
このこっぴどい目に遭ったひとの心に、花が咲きはじめたんだなあ。
いつかそれがお花畑になるといいな。

おしまい。

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東北さすらい人助け旅・9

2011年07月27日 23時28分42秒 | 被災地ルポルタージュ
翌朝ははりきって8時に出動。
ホテルを出て、ラッシュの電車に乗り込み、宮城野体育館に向かう。
最終日だ、悔いなくやったるでー。
ところが、受付時間の9時まであと15分もあるというのに、ホール内はすごい人いきれ。
ボランティア志願者たちが列をなしてる。
待ち合いのイスに腰掛けると、70番めくらいだった。
その後、200人近くが集まってから、主宰者側の説明(入札?)がはじまる。
「ナントカ地区で、どろんこ作業、15人募集です」
「泥かきと、家財運び出し、10人です」
市場のセリのように声がかかると、ヒトビトがいっせいに手を上げる。
そして、イスの前のほうから引っこ抜かれてく。
意外や、どろんこ仕事が大人気。
みんなこれを目的にやってきてるようで、70番めのオレはなかなか仕事が競り落とせない。
結局、「岡田地区、草むしり」が割り振られた(がっくー・・・)。
しかし、これも重要な仕事と理解してる。
がんばらねば。
リーダーを買って出て、40人を引き連れ、移動。
この日は前日とは別のお宅の、畑と庭の草刈り。
現場にいってみると、この地域でいちばんの地主サマらしく、広大な敷地と屋敷。
だが、その家屋の二階はかろうじて生きてるものの、一階部分はすべて流され、骨組みだけが残ってる状態。
この集落はどこもそんな感じで、きれいに下半分が流されてる。
一緒に草を引きながら、亭主と奥さんの話が聞けたが、当時の模様はすさまじいもんだ。
津波のイメージはこれまで、マンガや特撮映画の描写のせいで、白波の立つ波頭がかぶさるように迫ってくるもんだと思われてた。
だけど実際は、海が持ち上がり、その海水面が水平(文字通り)に、加速も減速もなくじわじわとどこまでも移動するものだとわかった。
標高0メートル地帯のこのあたりでは、粘性をもった水が数メートルの高さでにじり寄り、勢いというよりは圧力でもって、すべてのものを呑み込みつつ押し寄せてきたんだそうな。
必死でチャリをこぐ背後から、ご亭主はその化け物に追われたのだった。
・・・などと、諦念というよりは超然とした面持ちで語ってくれる。
それにしても救われるのは、その目に絶望の色も失意の影もまったくないことね。
人間の強さとともに、ボランティアの意味をはっきりと感じたよ。
彼ひとりでは、とてもこうはいかなかったと思うのだ。
支え合って、はげまし合って、そして素直に甘え合って、それで人間なのだねえ。

えー、出動するかっこいいオレ、です。
たった四日間で、精悍に見えるようになるもんだ。
ムシよけスプレーを二本も持ってるところが気になるけれど。

つづく

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東北さすらい人助け旅・8

2011年07月27日 08時58分49秒 | 被災地ルポルタージュ
あるばあちゃんが、津波に呑まれたんだそうな。
ふと気づくと、自分は高台に打ち上げられ、助かっとった。
が、家族は全員、彼岸の果ての黄泉の国まで流されてしもうた。
茫然自失して自宅に戻ると、そこには家屋の原型だけは残っとったが、家財一切は消失し、庭はがれきですさみ果て、畑はヘドロに侵され、くらくらと腰が抜けそうになった。
避難所では、ただただうつらうつらと日々を送るしかない。
ボランティアのひとりが話しかけると、死にたい、と口にした。
どうしていいかわからんのじゃ、生きとる意味がわからんのじゃ。
こんなときにこそ、と、わが有志らは出動したんじゃ。
泥を掻き、がれきを取りのぞき、庭をととのえ、畑の草をむしった。
家は元どおりに・・・とはいかんが、もとの生活空間が、久しい故郷が、よみがえった。
その生き返ったわが家を見たばあちゃんは、目を輝かせ、何度も何度も、声を詰まらせながら、何度も何度も、ボランティアたちに感謝を、伝えきれない感謝を、伝えたんじゃ。
ボランティアたちもまた胸に込み上げるものあり、なにも言えず、ただただ、うんうん、と聞いておった。
それ以来ばあちゃんは、見違えるようにかくしゃくとなって、ふたたび畑にくわを打ち込みはじめたんじゃそうな。
・・・かなんかという話をミーティングで聞き、オレたちボランティアはまじないにかかるのだった。
草むしりとて立派な復興の手助け。
そして、困ったひとを絶望のふちから救う大切な作業なのよ。
かくして、オレは草ボーボーの原にカマの刃先を立てるのだった。
ボランティアは、総勢4~50人かなあ?
地元のおっさんあり、大学生グループあり、職場仲間のOLチームあり、そして一匹狼あり、の各種入り乱れ。
とてつもなく広い土地を人海戦術で切り開いてくこの光景は、およそ先進国のものとは思えない。
が、誇るべき文化、この国の豊かな心根の発露と思おう。
みんな、やむにやまれず、水木先生言うところの「やらずにはおられず」、参加してるのだった。
ひろびろとした平野部だが、あちこちに車の残骸、朽ち果てた家具、そして生活用品のあれやこれやが散乱してる。
見上げるほどの給水タンクが横倒しに転がり、トラクターは土中に半分うずまり、電車の車両までがサビついて、あり得ない場所で枯死してる。
1キロほど先の海岸線には、おびただしいがれきがまるで土手のようにうずたかく積まれ、それが何百メートルにも渡って連なってく。
巨大な下水処理施設が見えるが、ひどい有り様で、稼働するめどすら立たないらしい。
そんな場所で、草を刈っております、炎天下の午後。
飲めども飲めども、水気は汗となってそのまま体外へ。
刈れども刈れども、分け入っても分け入っても、青い草(山頭火?)。
そんな中、誰もが黙々と、粛々と、いや、生き生きと、手を動かし、足を動かす。
尊敬すべき、名も知らぬ仲間たち。
日が落ちはじめ、夕風がそよぐ頃に目を上げると、背後にはピカピカに拓かれた土地。
だけどオレたちは、土地でなく、ヒトビトの生活を切り開いてるのさ。
その充実感にひたりつつ、仙台に戻った。
で、また牛タンを食べた。

つづく

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東北さすらい人助け旅・7

2011年07月26日 18時36分49秒 | 被災地ルポルタージュ
仙台市では、独自にボランティア活動を展開し、常に人員を募集してる。
いつでも、誰でも、大歓迎、という市政・・・いや、姿勢だ。
そのシステムはこうだ。
まず、「午前9時に、宮城野球場の体育館に集まってください」とくる。
仙台駅から電車で10分ほどのそこに赴いてみると、なるほど、体育館全体が広大なボラ基地となってる(被災者さんを収容する避難所ともなってるらしい)。
外には洗濯物がはためき、仮設トイレが並び、ボランティアであることを示すオレンジのビブスを着たひとたちがせっせと立ち働いてる。
中に入ると、救援物資の入った段ボールが山積みされた廊下、そして別棟に避難所。
だだっ広いホール内はいくつかのシマに分割され、ボランティア受付、待ち合い、説明所、備品貸し出し所、そして事務仕事などを行う「役場の出張所」のようになってる。
蒸し暑い。
汗が滝のように流れる。
避難者さんたちのしんどさを思う。
受付をすませ、待ち合いブースの折りたたみイスに座って待つ。
この日は少々立ち遅れたので、みんなが出払った後らしく、2人、3人がぽつんといるきり。
ここで待ってるうちに、どこからか仕事が舞い込んでくるので、「この仕事をしてくれるひとは?」などと係員にそそのかされるままに手を上げれば、そのボランティア仕事が割り振ってもらえるというわけなのだった。
合理的だ。
待つこと15分。
「宮城野地区に出動」の命が下る。
集まった何人かと一緒にワゴンに乗り込み、現地に向かう。

降ろされたのは、宮城野の岡田という集落にある、前線のベースキャンプ。
古民家であることはRQチームと同様だが、どこかリゾートな雰囲気が漂ってる。
ここでは、長靴、手袋、ヘルメット、マスク、そして水やアルカリ飲料などの物資が、希望者に支給してもらえる。
さすがに自治体の後ろ盾があるとあって、フォローが手厚い。
手軽な気分でボランティアをしたいひとには、ここは最適かも。
しかしこちとら、過酷な現場を(二日間だけだけど)しのいできた歴戦の勇者だ。
自前の重装備で望む。
なのに、与えられた仕事は「畑の草刈り」。
「そこにチャリがあるから、ただちに現場に急行してくれたまえ!」
「ラジャー!」
拍子抜けしながら、長靴でペダルをこいだ。

つづく

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東北さすらい人助け旅・6

2011年07月25日 22時46分59秒 | 被災地ルポルタージュ
オレたち硬派組とは別行動の温泉宿泊組は、この日の作業が終わったら東京へトンボ帰りのスケジュール。
バスの時間が迫り、さよならの挨拶を交わす。
ロイター特派員のリサと息子のジョシンも、汗みどろ、泥まみれで、名残惜しそうな顔をしてる。
「Thank you ! for Japan !」と、日本を代表して、力強く述べておいた。
オレは外国人と接するとき、常に日本代表の心づもりでいる。
異文化交流は、官邸ではなく、常にフロントライン(最前線)で行われてるのだ。
オレは総理大臣代行として、彼女とその息子に接するのだ。
そんなあっぱれな人物に、コネチカットのジャーナリストは「日本のためにありがとう」と言われてる。
それは、ただの挨拶ではないよ。
それによって、どれだけ彼女が今回の仕事を「誉れ」に思えるか、という、これは重要なひと言なのだ。
そう信ずればこそ、オレは彼女らに対して、そのひと言を言わねばならんのだった。
彼女らは、この困り果てた日本を憂い、思いやり、ついに行動を起こし、被災地を(少しだけ)救った。
その対価を彼女らは受け取らなければならず、オレはそれを国家を代表して贈ったというわけだ。
なんとすばらしいやり取りではないの。
とても意味のあるひと言というものがこの世の中にはあるが、これがそのひと言である、と断言するよ。
彼女らは、これで報いられたのだった。
ただ、こじきのおっさんがひと言の挨拶もなしにバスに乗車。
おまえ、オレのことが好きやったんちゃうんか~!
ちょっぴり切ない・・・
ともあれ、バスは去り、フリーランス組は残される。
・・・が、ここでとある問題が提起される。
オレ個人と救援団体との間の齟齬が露見したのだ。
いわば、いつもの酒場のケンカみたいなものなのだが、実にこの問題には相容れないものがあった。
こちらとしては、「義」の気持ちだけでこの活動に参加してるという自尊心もあり。
この団体の活動には心から賛同するし、尊敬もしてるのだが、その点だけは譲れなかったので、現場を離脱せざるを得なかった。
本当にオレ、アホなんかな?
とにかく、ひとり石巻を離れ、あてもなく仙台に移動。
しかし、いくらなんでもこのままおめおめとは帰れない。
飛び込んだホテルのネットで検索し、この地で働ける口を探す。
すると、「いつきてくれてもOKヨ」みたいな軽薄な文言に突き当たり、そこを頼ることにする。
すぐさま出発!
したかった・・・が、その前に腹ごしらえだ。
体重が落ちすぎてて、このままでは死んでしまう。
とりあえず、牛タン屋に駆け込み、生ビールを口にした。

つづく

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東北さすらい人助け旅・5

2011年07月24日 04時51分13秒 | 被災地ルポルタージュ
バス車中の前夜にまともに寝てなかったので、晩メシを食ったら、こてんと就寝。
・・・と思いきや、またも件のおっさんが、隣で高いびきをかきはじめる。
耳元の異様な近距離だ。
おまえ、絶対わざとやろ。
オイルサーディンのような雑魚寝状態の部屋内で、場所を求めてさすらう午前1時さ。

さて、翌朝は午前6時の起床。
ワゴンに機材をつめ込み、ごはんとみそ汁をかき込んで、さらに昼飯用のおにぎりを各自につくって出かける。
急がなければならない。
前日に引き続き、大潮なのだ。
午後3時には作業を終わらせるため、スタートから出力全開。
この日は、前日とは別の家屋のがれき撤去と、崩壊した納屋の屋根の解体、その他もろもろ。
まっ黒な泥に長靴を踏み入れ、魚アミを引きちぎり、庭中に散乱するあれやこれやを運び出す。
「リーダーはいない」「自己判断」と口を酸っぱくするこの団体。
だったらオレが指図してやらー、と積極的に声を出す。
さあみんな、カワラ運ぶよ、バケツリレーの列つくって、はいそこもうひとり入って、ライン詰めてね、声出していこー、はいよーそれそれ。
女子にバールを渡すと、嬉々として屋根の解体をはじめる。
格子のすき間に刃先を叩き込み、テコの原理でクギごと引きはがしてく。
建材を分割したら、何人かでかつぎ上げ、あるいはネコをつかって、撤去場所に移送。
前日のようにバラバラじゃなく、今日は全体が有機的に連結して動いてるよ。
ひとりがかけ声すれば、効率は劇的に上がるのだ、と学習したね、ヨシヨシ。
それにしても、ものすごい暑さ。
空気が小揺るぎもしないこの日の作業は、ただ立ってるだけで体力の消耗いちじるしい。
15分働いては水を入れるが、たちまち汗腺からだだ漏れ。
クラクラして倒れそうになるところを、周囲のがんばりに支えられて、自尊心だけで動きつづけた。
昼飯のおにぎりを手にすると、ただの塩にぎりだったはずが、おこわ(あずきごはん)のおにぎりになってる。
はて?と思って口に近づけると、あずきたちはいっせいに飛び去り、銀シャリが現れる。
ハエの活躍もおびただしい。
そんな環境で、道路が海水面に沈み込むまで働きつづけた。

崩れた橋を渡って、撤収。
夕刻、堤防を車でぶっ飛ばしたはるか先にある銭湯に向かう。
ここは津波にやられてない地区。
なかなか立派な天然温泉だ。
が、中に入ると、ボランティアたちなのかな?ひとであふれかえってる。
洗い場には十数人もが列をなし、順番待ち。
あきらめて、湯舟につかるだけにした。
湯上がりに体重を量ると、衝撃の数値!二日間で5キロも落ちてた。
完全なエンプティだ。
そういえば、ビールも飲んでねーや(飲める体力も残らない)、と思い至る。
都会生活の、なんという自堕落よ。

青々とした水田が、かぐわしい酸素を放つ。
このいとおしい風景を守らなくちゃ。

つづく

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東北さすらい人助け旅・4

2011年07月23日 02時28分04秒 | 被災地ルポルタージュ

さて、わがベースキャンプ。
石巻の河北地区を拠点に動いてる「RQ」さんという災害救助の任意団体にお世話になった。
RQさんは東北の震災後に発足した団体で、本当に尊敬できる活動をしてるのだ。(ネットで見つけて、ここだ、と飛び込んでみた)
寝ぐらは、ごらんの古民家。
来る者拒まずのこの団体は、とにかくすべてのボランティア志願者を受け入れるふところの深さをもってて、実にありがたい。
この日は三連休初日とあって、全国から有志が集まり、家屋に入りきれないひとたちは庭にテントを張っての泊まり込み。

みんな東北を助けたいのだった。
寸暇をつかってでもね。
ところで、往きのバスで一緒だったヒトビトは、別の街の温泉宿に泊まったみたい。
そんなツアーがあるらしい。
つまり、被災地の温泉にお金を落としつつ、空いた時間をボランティアに費やしましょ、みたいな。
それはいいね。
ボランティアのすそ野が圧倒的にひろがるはずだし、手伝いたいひとにはどんどん参加してもらいたいもの。
オレは「バスだけ相乗りさせて」みたいな感じで、西日暮里の本部に強引に頼み込んで乗っけてもらったんで、このベースキャンプにヤドカリ。
一宿一飯のお世話になった。

キーマカレーまでごちそうになったよ。
RQさんは「なんでも自己責任」というポリシーに貫かれたストイックな団体なんで、もちろん食器も各自の持ち込み。

わが粉引き、そしてハシも持参。
とにかく、いろんな勉強をさせてもらったよ。
振る舞い方とか。
心構えとか。

つづく

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東北さすらい人助け旅・3

2011年07月22日 09時14分43秒 | 被災地ルポルタージュ
活動開始。
作業内容は、ある一軒のお宅(広大)の庭に入り込んだ泥の撤去と、流れ着いたがれきや破砕した建材の運搬。
入り口近くのヘドロはガリガリに固まってるんで、そいつは平スコで引っぱがし、ネコ(一輪車)で搬送。
庭の奥は、真っ黒な泥がまだレアで、異臭を放ってる。
そのそこここに転がる木材、ずぶぬれの古タタミ、魚アミ、発泡スチロール片、衣類、食器・・・その他もろもろを、手作業で引き抜き、瓦礫の集積所まで移送する。
たちまち、泥まみれの真っ黒な姿になる。
みんな一生懸命だ。
手を動かしつづけ、足を止めることなく、ひたすら力仕事、そして定点間のピストン輸送。
太陽が高く上がると、空気は蒸され、泥は発酵を開始し、すさまじい異臭が立ちのぼりだす。
おびただしいハエが飛び交う。
5月のハエと書いて五月蝿い(うるさい)と読ませるが、7月のハエもなかなかのもんだぞ。
しかし、ハエもムカデもダンゴムシもアリも、異臭も、泥汚れも、たいして気にならない。
周囲の仲間たちの真剣な活動っぷりを見てると、自然に力が湧いてくる。
こじき(に見えた)のおっさんも、意外や大戦力となって立ち働き、みんなを引っぱってる。
ジョシンもわがはらからになじみはじめ、「『叙々苑』のジョです」と自己紹介してる。
取材とボラ旅兼のロイター記者・リサも、コロコロのからだをゆさゆさと揺らして、庭を行き来する。
心はひとつだねえ。
みんな、東北を助けたい一心で、どろんこになってく。
それにしても暑い。
1、5リットルの水と2リットルのサイダーを持ち込んだが、入れても入れても、たちまち汗となって出てく。
休憩時間にラガーシャツを脱ぎ、きゅっと少しだけ絞ったら、温泉につかったタオルを絞るように水気が「じゃ~」としたたったのには驚いた。

疲労困憊となって、午後3時過ぎ、この日の作業はおしまい。
この日は大潮なのだ。
つまり、この地盤沈下した集落は、再び水に侵されるのだった。
日が傾き、満月がさてのぼらんとすると、本当に刻一刻と、庭に、道路に、そこここに水がしみ出してくる。
とっととバスに乗り込み、例の即席ハイウェイを逆走しないと、ベースキャンプに帰れなくなる。
大急ぎで現場を後にした。
が、この集落の復興のことを考えると、ほんとに途方に暮れそうになる。
はー・・・



被災地の写真撮影は遠慮してたんだけど、二枚だけ。
水没した(つか、流失した)家屋と、寸断された海沿いの道路。

つづく

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東北さすらい人助け旅・2

2011年07月21日 10時17分00秒 | 被災地ルポルタージュ
サービスエリアにたびたび立ち寄りつつ、深夜バスは進む。
東の空が白々と明け、お陽さまが顔を出し、空気が蒸されてセミが鳴きはじめたあたりで、ついにインターを降りる。
うとうとはできたが、まともに休めず、硬いシートで背中はゴリゴリ。
ところがここで「はい、みなさん、作業着に着替えてくださーい」と、リーダーから鬼の発言。
このバスで直接、被災地入りするのだ。
覚悟はしてたが、なるほど、ともう一度腹をくくる。

ヘルメット、ゴーグル、粉塵マスク、長袖シャツ、長ズボン、頑丈なゴム手袋、長靴、これがボランティアの標準装備ね。
全部「スーパーバリュー」でそろえたよ。(ボランティア志願のひとがいたら、レンタルするから、いつでも言ってね)
さらにバスは進み、石巻の海岸線へ。
徐々に家が、街が滅形していき、ついに道がなくなる。

学校は崩れ、診療所は沈み、お墓はなぎ倒され、電柱は傾き、残された平たんなスペースには、ボロボロの建材、車、タイヤ、そしてコンクリがうずたかく積み上げられてる。
自衛隊もがんばってる。
孤立した地区へ道を通すために、突貫工事で、ごらんの道路づくり。
この辺り一帯は集落だったのだけれど、地盤沈下で遠浅の海になっちゃったわけ。
そこで、サイドに土嚢を積み上げ、盛り土をして、「ハイウェイ」を造ったというわけさ。
わずか三週間前に開通したというそのガタガタ道を進むと、ついに現場に到着。

わが精鋭たちも、眠い目をこすりつつ、準備。
作業内容は、民家に押し寄せた泥のかき出し、コチコチのヘドロはがし、そしてがれき撤去。
がんばるで~。
ところが現場は、灼熱と悪臭に支配された重量物の林、そして可愛らしい昆虫の王国なのだった。

つづく

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