裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

ジャン・コクトー的解答

2011年04月29日 00時02分27秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
昨日の続きかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。
ヤク中のジャン・コクトーは、人間とはなにか?という本質的な問いに、短い書き物でこういう答えを出してるよ。

「きみ、そんなにアヘンばかり吸ってて、あきれたもんだ。そんなふうに生きるくらいなら、窓から飛び降りたほうがマシなんじゃないか?」
「はは。そんなことをしたってしょうがないよ。ぼくは飛び降りても死なないからね」
「なにを言ってるんだ。窓からからだを投げたとたんに、きみは真下の道路にぺしゃんこになって死んでしまうよ」
「いや、からだはぺしゃんこになっても、ぼくはその後からゆっくりと降りていくから平気なのさ」

魂と肉体の在処を端的に説明してないかな?
してない?
あ、そう?

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学
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動的平衡

2011年04月27日 23時53分49秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
「動的平衡」って本を読んでるんだけど、実にまったく面白い!(へんな日本語)
タイトルからしてむつかしい言葉だけど、これは要するに、「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」ってやつを、真性物理学で表現した造語らしい。
ぼくの中のすべての細胞は、日々生まれ、日々滅形してく。
つまり、ひと月もすれば、ぼくはまったく新しく生まれ変わってるわけさ。
完全なサラになってるの。
よく考えると、ほんとに不思議なことだよ。
ぼくの体重は70キロ程度だけど、ぼくはひと月に70キロのダイエットをしつつ、70キロのリバウンドをしてるんだ。
ひと月前にぼくの中に存在した細胞は、今、ぼくの中にはいっこもない。
つまり「ぼく」とは、物質の塊であることはおろか、容器でさえなくて、ただ「情報を伝達する機能」があるきりなんだ。
もっと唯物的に言えば、この世の中にある物質の流れの、ぼくは一時のよどみに過ぎないんだ。
物質はぼくの中でしばし留まり、そして出てく。
ぼくという存在(魂、と言い換えてもいい)がこの世からいなくなると、物質はぼくの中に留まってられなくなり、つまり、肉体自体が崩壊する。
実にすとんと腑に落ちる解釈ではないの。
しかも、これを「遺伝子」って目線から見てみると、人類全体が、生物全体が、宇宙全体が、全体意思でもって一方向に動いてるってのがわかってくる。
受胎時に親から子へ受け継がれるのは、実は物質じゃなく、周囲から物質を集めて形とする能力なんだ。
情報だけが、子々孫々、連綿と伝達されてくんだ。
人間に、形はないわけ。
このへんはちょっとむつかしいから、も少し自分の頭の中で整頓してみたいんだけど、実にぼくは興奮してるのだ。
子供の頃からこんなことばかりを考えてきたんだけど、いよいよその画的なイメージっつか、パラダイムががおぼろげに見えてきた気がするんだな。
そして、けっこうみんなこんなことを考えてるんだねえ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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梅原論

2011年04月26日 00時22分49秒 | Weblog
梅原猛さんが、今回の震災を、自然災でも人災でもなく「文明災」としてるけど、達見だと思う。
なるほどなあ。
取っ掛かりは大きなプレートがずれたことによる自然災害だとしても、その後に起きたことは、もっと想定されてしかるべきだったんじゃないかな。
何年かに一度、津波がくることはわかってたわけなんだけど、今じゃない、とたかをくくってた点は否めないし、悔やまれる。
さらにそれにつづく原発事故に至っては、何をか言わんや。
それに関して、新聞にもうひとつ、得心のいく論点を見つけた。
それは、「想定してなかったなんてウソ」というものだ。
すなわち、原発を誘致して受け入れる地域側は、国からとてつもないお金を受け取ってたわけなんだけど、それってリスクの対価、すなわち、この事態を見越しての迷惑料だったわけ。
言えば、「いちかばちか」それを請け合ってでもふところを潤したいという損得勘定が働き、建設は着工された。
国側としても、なぜ人口の密集する都心でなく、遠大な送電設備というコストをかけてまで田んぼのひろがる過疎地に原発を建てるかといえば、それが恐ろしくやばいシロモノだということを自覚してるからに他ならない。
本当に安全と信じきるなら、よく言われるように、原発は東京湾岸につくられるべきなのだ。
そうしないのは、この事態が予測され、最大の被害リスクを避けるためだった。
全部を知っててあえてそれを押し進めたとすれば、こんなにも深い罪ってあるだろうか?
「文明災」ってのは、的を射た表現だと思う。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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原始の力

2011年04月15日 21時56分34秒 | Weblog
地震速報で「福島浜通り、震度ナントカ」とか出ると、心臓が張り裂けそうになるよ。
その場所で汗流してるひとのこと思うと。
つか、なんてひっきりなしなの。
恐ろしい。
つか、そこで作業するひとたちの、なんて尊い意志なの。
戦後現代社会で、こんなにも過酷な目に遭ったひとっている?
壊れた原発で、いつ何事が起こるかわからん地盤上で、いつ崩壊するかわからん建て屋で、いつ破裂するかわからん容器を相手に、放射能まみれになって世の人々のために働いてるひとたち。(そして特筆すべきは、彼らもまた被災者だってこと!)
この遠い地で、得体の知れないものに意味もわからずおびえて毎日を縮こまって過ごし、被害者意識にひたって、バカな指導者をバカ呼ばわりして溜飲をさげてる自分が嫌になるよ。
それにしても、と思う。
自然は容赦ないし、文明に対して本気で挑みかかってきた。
それに比して、人間はなんて自然をなめてきたの?
甘すぎる。
お金がなによりいちばん好きだった社会が、そのために自然を侮ってきた社会が、今こんな目に遭って、なんの不思議もない。
「原子力」なんて、もう使うべきじゃない。
これはね、人間には絶対にコントロールできない技術なんだ。
「いや、ちがう」というひとは、工房で議論しよう。
ただそれは、ちゃんとしっかり原子力のことを勉強してからにしてほしい。
アホみたいなのんきさんを相手に、本物の論拠を出して叩きつぶすのはバカバカしいから。
プルトニウム1グラムで何十億人を殺すことができるのか、とか、それを日本は何十トン(ほとんど必要ないのに、うっかり契約しちゃった分)所有してるのか、とか、高速増殖でそれがどんな具合に増幅してくのか、とか、使用後のそれをいったい何万年管理しつづければあっぱれ半減期を迎えられるのか、とか、それがどれだけやばいことで、どれだけの国が怖じ気づいて使用を断念したのか、とか、そもそも原子力発電所ってのは神戸大震災の何分の一の強度しか持ってないのか、とか、ちゃんとデータを突き合わせよう。
その上で、「それでも原子力でいくべきだ」というひととだけ、ぼくは議論しようと思う。
ぼくらは例の「自分も原子力の恩恵を受けてるくせに」の奇妙な論理のもとに言論を封殺されてきたわけだけど、逆にそのひとたちにはこう言いたいよ。
「この事故のリスクをもう一度負ってでもつづけたいか?」と。
これは特殊なケースであって、もう二度とこんな事態は起きない、というのは、愚かな論法だよ。
ミサイルが数発あれば、この事態は簡単に再現できるんだ。
テロリストの間では、この最も効率的に相手国を破壊できる方法論は、古典的でさえあるんだ。
断言するが、可能性があるかぎり、必ずそれは起きる。
起こすことができるのだから、それは起こされるにちがいないのだ。
こたびの原発事故の処理がひと区切りつくまでは、この議論は表に出ないはずだった。
反原発派が、被災者に配慮して、本物の「リアルな」「シリアスな」怖い話しをしないからね。
だけど、言わずにいられなかったから、言っちゃったよ。
もう原発はやめよう。
無理だって。
「じゃ、足りない電力はどうするんだ?」というやつが必ず出てくるが、アホですわ。
足るを知れ、と言いたい。
原子力を補って余りあるものが、原始の力だ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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エイプリル・フール

2011年04月01日 08時54分24秒 | レビュー
さて、4月1日には毎年ブログでウソをついてるわけだけど、今年もみなさんに脱力してもらおうかな。
これからのたまうことは、全部ウソだと思ってほしい。
本気に受け取ってもらっては困るので、そこんところをよろしくお願いしたい。
うちのよめはんは、ほんとにいいひとなんだ。
オレがこの現世で引けたいちばんの当たりクジと言える。
かれこれ20年もつき合ってるけど、飽きがくるということがない。
いついてもたのしいし、どれだけ話しつづけても話題が尽きるということがない。
よめはんは無口に見えるけど(見えないか)、とてつもなくよくしゃべるひとだ。
「なんか面白い話しして」とムチャを振っても、ネタを無尽蔵に持ってるので、すぐさま用意して、そして「やめてよし」というまで話しつづけてくれる。
話法の天才だと思う。
内容はたわいのないものだけど、毒気がなく、トーンが丸いので、うっとりと聴き入らされる。
そんな彼女は、終電まで働きづめに働いて、へとへとのからだで毎夜、午前1時半近くに帰ってくる。
ところが帰り着くと、「ごめんね、おそくなって」などと殊勝なことを言う。
ひとのことばかりを考えてる。
粗末なメシを与えても、つねに「ありがとう」「おいしい」と言ってくれる。
よめはんは小食で、たちまち食事をすませてしまうのだが、オレは酒を飲みながらだらだらと長々と食べつづける。
その間、それが作法だとでも思ってるのか、読みたい本も新聞も開かず、横で「今日の出来事」を聞かせてくれる。
で、オレがついに食べ終わると、後片付けをし、新聞を読みはじめる。
そうして読みつつ、ことりと眠りこけてしまう。
あぐらをかいて座ったままの姿で。
いつも限界まで疲れ果て、いつもゴリゴリに凝り固まった肩を背負ってる。
このひとの眠りは、気絶に近い。
気を失ったときだけが、気の張りから解かれた状態になるのかもしれない。
ポカポカカーペットに横にしてやると「しあわせだ」などと口ごもって言う。
なのに頭の中は仕事のことでいっぱいになってるので、寝言で「かいぎ、うちあわせ・・・」とか「昨対比120・・・」とか「カップ&ソーサ-1600円で・・・」などとつぶやいてる。
たまに、どういうわけか「特約マックスつけてください・・・」などとも言う。
どんな夢を見てるのか。
オレは根っからのエピキュリアンなのだが、よめはんは禁欲的哲学によって自分の人生を導こうとする。
それでも両者にまったく対立という事態が起きないのは、すべてよめはんの聡明さのなせるワザだと思う。
ダンナが、マンガを描く、と言いだそうが、陶芸家になる、と言いだそうが、小説家になる、と言いだそうが、「そうですか」と相づちを打ち、一切を吸収してしまう。
「宇宙飛行士になりたい」と言いだしても、同じ反応をするにちがいない。
相手のことを信じきってる。
驚くべき自然体。
ひとの悪口は決して言わないが、社会の理不尽に対しては堅固な意志を持ち、信ずるところに忠実に行動する。
葬式に遅刻してきた坊さんを親戚一同の前で一喝するし、集団で痴漢行為をはたらく卑劣漢を見つければ、相手が何人であろうと食ってかかっていく。
電車内でエロ画像を見てるオヤジの携帯を叩き落としもするし、寿司屋でタバコの煙が漂ってくれば、メニューをあおいで煙を押し返しもする。
自分の倫理観に照らした「悪」を絶対に許さない。
なのに万人に対して寛容で、自己犠牲のもとに博愛を振りまき、惜しむことを知らない。
野心のない純粋な情熱をみなぎらせつつ、水に花を流すように気負いなく振る舞う姿には、つくづくと感心させられる。
顔の造作は特別に整ってるとは思えないが、その豊かな表情はしみじみと味わい深い。
風呂にはふたり一緒に入るわけだが、鶏ガラのような肢体についたおっぱいの形の美しいことこの上ない。
今年40になったが、肉体も精神もまったく老いることを知らないのは、みずみずしい感性のおかげにちがいない。
素直さは才人の第一の要素だが、それが生まれつきに備わってる。
こんなにも無垢に笑うひとを見たことがない。
それが清潔な心の現れであることは疑いがない。
この世の中で、最も美しいひとだと思う。
小さくてか細いのに、しなやかで、強い。
よくこんな拾い物を見つけたものだと、ほとほと自分の眼力に恐れ入る。
よめはん、万歳。
さて、思いつくままにウソをついてみたが、こんなところか。
4月1日だからと思って、調子にのって長々と書き連ねてしまった。
ウソをつきすぎだろうか?
ま、一年に一度のことだから、これくらいやってもバチはあたるまい。
とにかく、ここに書き出したすべてがウソなので、うっかりと本気に取らないように。
4月1日の、なんと便利な日であることか。

画面左がよめはんです(ウソ)。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント (2)
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