裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

死んだらどうなるか?問題・26

2022年10月28日 16時23分31秒 | 死んだらどうなるか?問題

今回も少しの間だけ、難しい話を我慢してください(シンプルにやさしくしたいんだけど、どうしても、ね)。
ゆうべ布団の中で、前章に書いた自説をぼんやりと思い返しているうちに、本当にびっくりしたことに、「小林・益川理論が言う『CP対称性の破れ』ってのは、このことだったのでは?」とはたと気がついたのです。
このノーベル賞を獲ったやつは、当時に少し当たってみたぼくにはまったく理解ができていなかったのですが、かいつまんで言えば、「鏡面に映ったふたつの世界(パリティ)が対称性を持って(つまりまったく同じカンジに)存在している」ついでに「電荷が逆(+・-)の素粒子一対が、その点以外にはまったく同じ性質を持って存在している」というふたつの保存則が破れた場合、この物質世界の誕生が説明できそうだ、というものです。
・・・わからないですよね?
だけど、ゆうべ布団の中で突然、天啓が降りてきたように理解できたのです!
同時に、それってオレのアイデアなのになあ、先にふたりが見つけちゃったのかなあ・・・と。
とりあえず、小林・益川理論をベースに、ぼくの考えを説明してみますね。
まず、「鏡面に映ったふたつの世界」と気持ち悪いことを言いましたが、ぼくらの生きるこの世界のあちら側には、もうひとつのそっくりな反転世界が存在しているらしいのです。
これは、CERNなどの最先端の科学技術を用いた実験物理でも実証されていて、「あちらサイド」は、科学的にも現実のものとされつつあるようです(というか、それが存在すればいろいろと説明がつくのです)。
こちらサイドにある素粒子は、性質が同じで対となるふたつがかち合って対消滅し、エネルギーを残してあちらサイドの世界にいきます。
逆に、あちらサイドからは、こちらサイドにあるエネルギーに媒介してもらって、ふたつの素粒子が一対になり、忽然と立ち現れます。
つまり、あちらサイドをのぞき込むことができないこちらの世界内で物事を見ていると、素粒子は消えたり生まれたりしているわけです。
これは、エントロピーの法則と矛盾しているように思えますが、プラマイで相殺勘定が合うというか、精妙なエクスチェンジが成り立つので、法則には反しません。
これをうまく図式化して、電子(-)・陽電子(+)などの物質と反物質は、舞台と舞台裏の二面構造でできている表裏の世界間を行き来していると解釈しようではないか、というのが「パリティ」の概念と思われます。
そして、その表裏の対になった世界は、鏡面に映したようにそっくり!双方に違いなんて見あたらない!というのが、パリティの保存則でしょうか。
そしてそして、いやいや、そっくりだけどよく見たらちょこっと違ってるかも!というのが、パリティ対称性の破れ、です。
法則に漏れがあったから、「破れ」です。
さて、小林・益川理論の「CP」のCの方は「チャージ」でして、これは電荷のことです。
電荷も、世界にはプラスとマイナスが同じだけある「べき」なのですが、こちらもどうやらそうではないようなのですね。
つまり、先ほど出てきました物質・反物質の違いである電荷の勘定が合わない・・・すなわち、「物質と反物質の数が違ってる!」というのがチャージ対称性の破れでありまして、チャージとパリティ、このふたつを合わせて「CP対称性の破れ」ということになります。
鏡に映ったあっちの世界はこっちの世界とそっくりなのに本当は少しだけ違いがあるし、トランプの裏面にはそれと同数の表面があると思ってたのに実はそうじゃなかった!みたいなやつが、この理論です。
・・・難しくてすみません、やさしくしますから、マジでここまでは我慢して聞いてて。
と言いつつ、また前置きで終わってしまいました・・・

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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死んだらどうなるか?問題・25

2022年10月16日 00時47分24秒 | 死んだらどうなるか?問題

前章の着想の説明があまりに雑で難解で「きょとん」だったので、ここではもう少し噛み砕いて解説を試みてみます。
ぼくら物質世界に生きる者は、逆説的ですが、外界は物質でできているものと神経系が解釈して、脳内に幻想世界を築いています。
実際の外界のつくりと振る舞いがあまりに摩訶不思議なので、観念をいろいろにいじくって、人類にもシンプルに理解ができる物質世界なる虚像を発明し、そういうものだということにしているに過ぎないわけです。
ここで言う外界とは、「自分のアイデンティティであるところの脳内世界」に対する外側という意味なので、自身の肉体も、脳構造をも外界に含みます。
あなたの外界のイメージは、網膜(目のレンズ)が時々刻々に拾った素粒子の様子を視神経が暗号化して脳の奥へと送信し、そこでのタンパク質間の電気と化学物質のやり取りによって、こちら都合の様式(というか、解釈の限界)に再構築された抽象画なので、世界の実相とは似ても似つかないものにすり替わっています。
絵画をにくわしいひとは、「いやいや、目に映ってるこの風景は、具象そのものだろ!」と考えるかもしれません。
確かに、人類の側から見たら、抽象的な世界の姿を物質として具象化している、という言い方もできますが、脳の外に存在するものこそがガチのリアリズムでであるために、創意は反転するのです。
ぼくらの脳は、つかみどころのない実世界を人類ごときの低能機械にも理解できるように、具象(ここでは単純に、具象絵画の意味)という形式で視界を観念化しているわけで、それはすなわち、実世界の抽象化という言い回しになります。
・・・いかんいかん、ちゃんとやさしく噛み砕いてます?この文面。
ここまでの前提を踏まえての、世界の実相の描写ということになるので、ついてきてください。
要するに、ぼくら人類は、視界の中にイリュージョンを見ているのだと、遺伝子の進化によって錯覚を見せられているのだと割り切って、まずは固定的な見方を捨てることが第一です。
だって、思い返してみてください。
以前に書いたように、この世は・・・例えば地球のような天体は、鉄筋コンクリートづくりのビルは、りんごは、そして人間の人体は、その構成物すべてが「パチンコ玉の周囲を甲子園球場の外周もの直径の軌道で回るごま粒」というほどの密度でつくられている、スカスカの空洞なのです。
中身が詰まっているように思えるのは、人類の機能が生み出す幻影なのです。
りんごがりんごに見えるのは、りんごを構成する元素のクーロン力に弾かれたスペクトルを受容する目と脳の便宜上の解釈なのであり、その感触は、りんごと指との分子間の電磁気力の反発力でしかありません。
そこには手応えを直接に伝える固まりなどはなく、絡み合う波同志の相互作用があるばかりなのでした。
「気持ち悪がらないでくれ」「オカルトの話じゃない」とは、このお話の所々に組み込まざるを得ない釈明ですが、マジでこれこそが「最先端の科学」なので、ご注意ください。
これから描き出そうと試みる世界は、不完全な人類が視覚や触覚で経験するよりも確かな、科学的検証によって明らかにされた実の姿、「実相」です。
というわけで、場の量子論なのですが、これは今年のノーベル物理学賞まで獲ったちゃんとしたやつなので、ひとつ信じてみてください。
・・・本編に入る前に、この章の字数も埋まってしまいました、ごめんなさい。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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死んだらどうなるか?問題・24

2022年10月12日 12時22分41秒 | 死んだらどうなるか?問題

常に新しい情報を得るために・・・すなわち、日々解釈が更新されていく「世界の真実性(の近似)」に接するために、科学の新刊本は見逃せません。
新しいページをめくるたびに、新しすぎる知見(アップグレードされた解釈)が殺到してきて、これがまた信じられないくらいにフレッシュで、知るたびに驚天動地!
なにしろ、それまでにコツコツと蓄積させてきた知識とはまるで別見解の宇宙が、まさしく日進月歩で上書きされ、一層上の説得力を持って目の前に展開するものだから、感動するとともに、当惑・混乱させられます。
なのにその本を読み終える頃には、新しく書店に並べられた別の本でさらなる知見の更新が行われているものだから、きりがありません。
この「死んだらどうなるか?問題」をちゃんと読み込んでくれているひとなら気づいちゃってると思いますが、章を経るごとに、筆者の限りある脳容量の中身が総取っ替えされたかのように、指が打ち込む世界の説明がコロコロと変わっていきます。
アウトプットの段階に至っても、おびただしいインプットによる脳内情報の書き換えがあるために、打ち込み作業が追いつかないのです。
ただ、筆者の指から新しく紡がれるものは「かつて書いたことの間違いの訂正」ではなく「知識の更新」なのであり、「より実相に近いものへの描写の細密化」「正確化」と理解してもらえたらありがたいことです。
というわけで、この長い長い一連の文章は、過ぎゆく風のような情報の中に置かれた、習作にすらも至らない「上書きされる運命にある、現時点での覚え書き」となっているので、みなさんにはななめに忘れ読みしてもらうことをお勧めします。
そんな軽〜い気分で、久しぶりにつづきを。

いきなりですが、時間は連続的なものではないようです。
びっくりしません?
つながっていないのですよ、昨日と今日とは、さっきと今とは。
時間が粒状で離散的なことは、場の量子論の計算式から確実とされていて、その刻まれた最小単位はプランク定数でも求められます。
時間は、ここでも何度も書いた通りに、空間と一緒くたになって「時空間」の形を取っていまして、その存在は伝統的に重力理論で説明されます。
重力なしには(われわれ人類が感知できるところの)時空間は発生できず、時空間なしには重力は存在できないので、このふたつもまた一蓮托生、一緒くたということになりますか。
そのへんを起点に、情報を頭の中で転がして宇宙創造の順序を整頓してみたので、ここに開陳します。
現世よ、生まれよ〜!
・・・さて、すべての前提として、さまざまな量子が展開する「場」があるのでした。
これは「電磁気」とか「重力」とか「物質」とか、あるいは「時空間」になりたがっている高エネルギーの「状態」で、まだ「特異点」という針の先ほどもない小箱に閉じ込められています。
これら「やがて粒になりうる波」が、それぞれに絡まり合い、重なり合って、なんというか、もやもやと浮遊しているわけです、どことも言えない場所を(「場所」「宇宙」「現世」自体がまだありません)。
・・・はやくも訳がわからなくなっていますが、ちょっとがまんしてね。
そこでまず、クォークの量子場を考えてみます。
クォークは、三つがくっつくと「陽子」「中性子」(要するに原子核)になる、物質の種と言える素粒子(波)なのでした。
宇宙創生前の煮えたぎる場において、クォークは対生成と対消滅を繰り返し、つまり、物質と反物質のペアで生まれたり、ペアごと消滅したりしていました。
ところが、あるときどういうわけか(この部分は未解明です)対称性が破れ、反物質よりも物質の方が多めに生成されたのですね。
すると、物質サイドが余るわけですから、相方(反物質)を求めて消える必要がなくなります。
ここですかさず、グルーオンの場と相互作用し(つまり、接着剤の役割をする素粒子が介入し)、クォークが三つくっついたわけです。
つまり、陽子(水素原子核)の誕生です。
陽子が生まれますと、今度はヒッグス場が相互作用し、粒に確固たる質量を与えます。
波という茫洋としたものが形と重みを持ちまして、いよいよ宇宙開闢(かいびゃく)の期待が高まります。
以前に重力理論の章で説明しましたが、質量のあるところには、重力が発生します。
ここで、重力場のグラビトンという未知の素粒子である重力子(まだ仮想的存在)が相互作用し、空間をゆがめるわけです。
・・・まてよ、わずか二行上で紹介した重力理論では、質量を持つ物質が時空間をゆがめて重力を生み出すのでした。
ところが、ここではまだ「時空間」そのものが存在していません。
だとしたら、これはどういう理屈なのか?
そこで、文脈を逆説してみます。
つまり、質量が時空間をゆがめて重力を生み出すのではなく、重力が質量と相互作用をしたゆがみこそが時空間なのでは?と仮説立てるのです。
わかります?
時空間における重力発生の話が、一周さかのぼって、重力による時空間の成り立ちの話にすり替わってしまいました。
要するに、アインシュタインが重力論の説明に用いた「フラットなゴム製マット」の状態は存在せず、その上に鉄球を置いた山谷こそが、時空間の正体(質量による発生)なのではないかと。
考えてみれば、なにもないフラットな場は、例えば人類の感覚器には引っ掛かりもなくスルーされてしまい、感知が不可能です。
そこ(時空間)は現世においては、トタン屋根のように波波でデコボコでなければならないのです。
そもそも、時空間のデコボコを光学的、電磁気的に受信して分析し、解像するのが人類の神経系だからです。
その時空間のデコボコをつくるものこそが、質量と重力場なのではないか?というのが、ぼくの新しいアイデアです。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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