裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

この星がヤバいぜ

2010年10月28日 18時41分25秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
もう冬かよ~。
秋がこなかった~。
ほんとにこの国、熱帯化して、雨期と乾期しかなくなっちゃうんだね。
ベトベトかカサカサかのどっちかで過ごさなきゃいけないんだね。
暑さにただれるか寒さにふるえるかの二種類の一年になるんだね。
緑か白か、の二色になって、桜色や黄色や茜色や橙色が淘汰されていくんだね。
そしてそれが、一年ごと、っておそろしい早さで現実になってくことが衝撃だよ。
あの穏やかにうつろう四つの空気感が遠い日の想い出になるんかなー・・・
やっぱしここまで地表をコンクリートでコーティングしたら、発熱もするし、瀕死にもなるよ、この水の星も、さすがに。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント (3)
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うめく

2010年10月21日 11時00分23秒 | Weblog
ときどきうめきたくなる。
なんらかのしくじりが心に刺さってたりすると、そいつを発露せずにはいられない。
オレの場合、ひとりきりのときに「ばかーっ」と呪詛のようにつぶやく(あるいは叫ぶ)。
そういえば、クサナギくんもそうだっけ。(あのヘンなCM、大丈夫なの?)
亡くなった親父はよく、酔っ払った布団の中で「ばかやろー・・・」とつぶやいてたけど、あれは他人に向けての罵詈じゃなく、自分自身に向けられたものだったんだなー・・・
遠藤周作は「夜中に布団をかぶってわーっと言いたくなる」みたいなこと書いてるし、開高健も「頭かかえてう、う、う、と」痛恨を絞り出したりするらしい。
これって結局、自分が狂ってしまうのを防ぐための制御方なんだろうな。
あまりにおかしい出来事があるとひとは「笑う」という行為をするんだけど、これも制御の一種だ。
こうしてストレスを小出しに散らしていくのは大切なことだと思う。
遠慮なくうめきましょ。
そして、笑いましょ。
こうしてひとは健康を取り戻し、成長するのだ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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ちょっと自慢

2010年10月20日 09時19分36秒 | Weblog
あきれるほどの晴れ夫婦です。
結婚して12年ですが、ふたりそろって出かけて、雨に降られたということがまったくありません。
記憶にない、のではありません。
ただの一度も降られたことがありません。
例外なく、晴れわたります。
旅先で雨に降られた経験が皆無なのですよ、すごいでしょ。
そもそも12年前の10月18日、ぼくらは岐阜の地で結婚式を挙げたのですが、この日は台風がふたつ同時に本州に上陸して、さらに最悪なことに、そのふたつともが結婚式の時間帯に会場上空に差しかかるはずでした。
西の地ではいくつかの警報・注意報も出はじめ、近辺地域のどこもが降水確率100%。
ところがふたつの台風は(記憶によると)お互いにはじき合うように南北に避けてくれて、結局、式の間はずっと晴れ。
それ以来、ぼくらの頭上にはいつも太陽が照ってくれてます。
結婚以来、毎年欠かさず「台風シーズン」に沖縄に出かけてますが、一度の例外もなく、スカッ晴れ日程をたのしんでます。
今年は、先週の連休を使って宮古島にいってきましたが、旅程中はずっと雨予報でした。
だけど行ってみれば、やっぱしピーカン。
最終日は降水率100%予報でしたが、ぼくらの頭上は常にどっピーカン。
「1キロとなりの新城海岸は土砂降りだってよ」というぼくらのいる吉野海岸は、ずーっとスカッ晴れ。
と思ったら、車でその地を離れた1分後から降ってくる。
そして次なる前浜海岸に着くと、雨はピタリとやみ、雲がひらいてスカッ晴れ。
ほんとに不思議です。
心がけがいいのかな。
なにより、天に感謝。
幸運な人生を送らせてもらってます。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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仕分け

2010年10月19日 10時13分53秒 | Weblog
わが家の寝室では、日々取り込まれる洗濯物が野積みとなり、小山を築いている。
洗濯をするのは主夫であるオレの役割(つか、相方がしないからしてるだけ)なのだが、オレはたたむという作業がヤなのだ。
なにしろ、めんどくさい。
というよりも、クローゼットなどというこざかしい小部屋から服をセレクトし、スタイリングに悩み抜いてコーディネートするよりも、野積みになってるものからヒョイと引っぱり出して頓着なく着るほうが、やはりなんといっても男らしいではないか。
とはいえ、オレは服のシワはきらいなので、きちんと折り目がつかないように取り込み、重ね、積み上げている。
合理的である上に、すぐれて見上げた態度ではないか。
ところが、朝の急場で、積み上がった衣類の奥から任意の一枚を粗暴に引っこ抜き、ジェンガを崩すようにぐちゃぐちゃにしてしまう女がいる。
この人物(よめはん)は、一枚に飽き足らず、あーでもない、こーでもない、と何種類ものバリエーションで着衣脱衣をくり返しつつ思い悩むので、その後の散乱っぷりといったら、まるでカーニバル明けのリオデジャネイロの街角のようになってしまう。
なのでオレは、自分の洗濯物は此岸に、人物のものは彼岸に、と選り分け、破壊が自分の所有物に及ばないように目を配らねばならない。
ふたりは同じ方法論者なのだが、「テクニカル」と「フリー」という点で決定的にスタイルが違うため、相容れないのである。
ともあれわが家は、衣類床ベタ置き早期循環方式で、日々の着替えをやりくりしている。
しかし、わが寝室にはタンスもあるにはあるのだ。
片付けられるものなら、片付けた方がいいにきまっている。
寝ている間に小人でも現れてやっといてくれたら、と夢想するのだが、なかなか現実にそうはいかない。
そんな中、ごくたまによめはんが洗濯物をたたんでくれて、オレを小躍りさせることがある。
ところが、このひとはシリアスに「整頓できない女」なので、たたまれ、折り重ねられた洗濯物の中に、オレはカオスを見いだすことになるのだ。
なぜオレのTシャツの下に工房のタオルがあり、その下にワンピース、キッチンの布巾、Gパン、さらに水着が出てくるのか、さっぱりわからない。
整頓になってないではないか。
一見きれいに重ねられた洗濯物の下から下から新たな混沌が発生するので、オレはまるで迷宮にさまよい込んだような気分にさせられる。
しかも、その折りたたみ方が粗雑きわまる。
そでとそで、へりとへり、エッジとエッジが合ってない。
そのズレが気持ちわるくて、ナイショでたたみ直すことになる(このへん、オレは精密さを求めたいのだ)。
さらに事業仕分け・・・ならぬ、衣料仕分け。
こうして、オレの、よめはんの、工房の、キッチンの、バスの・・・とカテゴライズしていくと、はて、これでは自分でたたんだ方が手っ取り早かったのでは?とも思える。
よめはんほどの聡明で緻密な女が、なぜこんな仕儀に及ぶのか、まったく理解できない。
天才と紙一重のところにいるひとなのかもしれない。
今度、折り紙でツルを折らせてやろうと思う。
きっとこのひとは、エッジを合わせられないにちがいない。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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ポエム?

2010年10月07日 12時08分11秒 | Weblog
引っ越してきたとき、ネコの額みたいな庭に、根っこから切断された切り株があった。
前の住人が切り倒していったらしい。
だけど自然ってのは強いもので、そのうちにこの切り株は脇から新芽をはやし、葉をつけ、幹を伸ばし、枝をひろげ、5年もたつとその背丈は主の頭を越えた。
そして去年あたりから、この季節になると芳香をかぐわせるようになった。
今、たくさんの山吹色のつぼみをほろほろとほころばせつつある。
人間の鼻ってのは敏感なもので、この香りをかがされると、文化祭とか、衣替えとか、試験勉強とか、いろんな風景を思い起こさせる。
遠い日に帰ったような、甘酸っぱい気分にさせられる。
キンモクセイは、魔法みたいな匂いがします。

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せっかちの振る舞い

2010年10月06日 09時12分26秒 | Weblog
おれぁなんたってせっかちだからよ、
メシ屋に尻落ち着けたときなんかに、ちっとも注文品が来なかったりするとイライラして店員を呼びつけて「まだ~?」なんて言ったり「いつまで待たせんだよ」とか怒鳴りつけたり「はやくしろよ、もうこねーぞ」とかイチャモンつけたりする ・・・
ような客を見ると、イライラしてぶっ飛ばしたくなるんだ。
メシくれーゆったり泰然として食いやがれってー話しだよ、文句言うんじゃねーこんなろーめ。

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中華的自尊心

2010年10月03日 08時04分15秒 | Weblog
「ケチ」と言われるほど屈辱的なことはない、とぼくは思ってまして。
だからそう指差されないように日々を振る舞ってるつもりです。
それが自尊心というもの。
お隣の大国とわが国の関係がぎくしゃくしてますが。
これは、ぼくは両者の自尊心のありどころの問題だと考えてるのです。
わが国のマインドとしては、他者とつき合うとき、極力摩擦を避けようとつとめます。
相手の身をおもんぱかって、ときにバカみたいな自己犠牲を払ったりもし。
つまりこれが、思いやり外交、というやつ。
西洋は「罪の文化」、日本は「恥の文化」といいます。
西洋では法が絶対的な価値で、そのルールに照らして人生の方向を決めます。
一方、日本は、その行為を誉れと感じるかどうか、を指針に生き方を定めます。
法よりも名誉が重んじられる、サムライ文化。
わが国民は、恥をかかぬよう、ヒトサマから後ろ指を指されぬよう、厳格な理性の価値観によって行動してきたわけ。
ぼくらはその道徳観をこそ誉れに思ってて、そのためにソンをすることはあってもかえりみたりはしません。
さて、お隣の大国にはそんな考え方はツユほどもない。
彼らは「ソンをさせられることほど屈辱的なことはない」という、わが方から見たらおよそ理解のできない自尊心を持ってます。
拡大欲に取り憑かれてるといっていい。
彼らほどの商売上手もいないが、言いかえれば、彼らほど「欲しがる」民族もいない。
そのあたりの自尊心のありようの違いで、国際社会と噛み合わず、文化摩擦をたびたび起こしてる感が否めません。
ナントカ諸島をめぐる対応でも、わが国側は摩擦が起きないように「自国民を(!)」島に近寄らせない、という信じがたい配慮を見せてるわけですが、あちらは大きな声を出し、土足で上がり込み、腕力をひけらかし、どこまでも図に乗って恥じ入るということを知らない。
このグローバル社会ではずうずうしいものが勝利する、という信仰に取り憑かれて、相手の身に立ってみる、という思いやりが皆無。
つまり「ずうずうしくありつづけること」があの国の自尊心と見てとれます。
きっと彼らは「ケチ」(ぼくがオノレの自尊心にかけて相手に言わせない言葉だ)と卑しまれても、ぜんぜん平気どころか、ほめ言葉と捉えてしまうにちがいありません。
価値観の違いとはいうけれど、ここまで道徳観・倫理観が違ったら、もうつき合えねんじゃね?とあきらめたくなります。
「恥」というものを教えてさしあげたい。
ただ、わが国の指導者たちもそれを知ってるとは思えないので、もうどうしょっもないのでした。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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