ゴール裏が増設された柏で久しぶりに「ゴール裏」論争が起きているらしい。
ゴール裏論争というとインファイトの河津氏のメッセージが有名だろう。
<ゴール裏の熱狂的な雰囲気を保つためにも、大人しい者や少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい者はゴール裏に来ないでほしい。ゴール裏では立ち続けて応援する、試合をよく観ることが出来ない、物が投げ込まれ怪我をする、サポーター同士の喧嘩に巻き込まれる、など危険かつ不自由なことが多々ある。これを受け入れて我々のように応援する気持ちの無い者はゴール裏に来ないでほしい。>
メッセージの最後に「我々のように」と余計な一言を付け加えてしまうからこの発言には語弊や波紋が生じたわけだけれども、言いたいことはよく分かる。要するにメインやバックの座席と同じような理屈は通用しませんよ、ということである。それでは、なぜあえてゴール裏に来たのか、ということになる。
柏のブログ主さんのエントリーを読む限り1階の「柏熱地帯」はともかくコアサポが2階全体までに及んでいるということでもないらしい。「貼り紙」をするまでは、それなりの「棲み分け」もできていたようにも読み取れる(実際ブログ主さんの行動にそれほどおかしい点はない)。
しかし「2階前段部」ではサポーター同士のトラブルがあったとも書いてある。
これが「少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい者」なのだろう。
これはもう何回も書いていることなのだけれども、サポーターは「愛するクラブを勝利を願い、応援する」というただ一点(シングルイシュー)で繋がっている「社会」である。勝利のために自分は何をすべきなのか考え、行動するのがサポーターであって、「少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい」とばかりに、ゴール裏で立って応援している人間に「座れ」と要求するのは、ちょっとあり得ない。
実はトラブルというのは「立て」というゴール裏の理屈よりも、「座れ」という指定席の理屈がゴール裏で要求された場合に起こりやすい。
それは「お客さん」の理屈であって決してサポーターの理屈ではないわけだ。
物が投げ込まれたり、喧嘩が起こったりする「危険」は論外だが、ゴール裏はどうしたって試合をよく観ることが出来ない「不自由」な場所である。清水の場合でも特定のチャントではフラッグが視界を遮る。ゲーム全体をしっかり観ようと思ったらゴール裏ほど相応しくない場所はないのだよね。
しかし、ひとり、ふたり、爆心部に無理やり紛れ込んだって大抵は平気だろう。黙って「地蔵」してたら白い目で見られるかもしれないけれども、「我々」よりもデカい声を出せば、まず文句は言われない。ゴール裏はゲームを観る上では不自由な場所かもしれないけれども、「キミが全力で応援する、サポートする以上は」という意味では自由な場所でもあるわけだ(でなければ困る)。
堂々巡りのゴール裏論議よりもコアの密度をどんどん上げていきたいもんですな(過剰な席取りは勘弁して欲しいけれども)。
結論としてはレッズレベルでコアがゴール裏を埋め尽くすことができないのであれば「元通り」棲み分けすべきとしか言いようがない。
しかし5年前のナビスコ予選の大宮戦や去年のセレッソ戦の日本平を思い出せば、スタジアムでゲームを観るってことが、ただ「大人しく座って観る」ということではないことはわかる。観る者を熱狂させるようなゲームを観せてくれたら、誰だって自然と立って応援したくもなるものだ。
それほどあの時はゴール裏もメイン、バックも関係なく、スタジアム全体が熱狂していた。
ゴール裏論争というとインファイトの河津氏のメッセージが有名だろう。
<ゴール裏の熱狂的な雰囲気を保つためにも、大人しい者や少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい者はゴール裏に来ないでほしい。ゴール裏では立ち続けて応援する、試合をよく観ることが出来ない、物が投げ込まれ怪我をする、サポーター同士の喧嘩に巻き込まれる、など危険かつ不自由なことが多々ある。これを受け入れて我々のように応援する気持ちの無い者はゴール裏に来ないでほしい。>
メッセージの最後に「我々のように」と余計な一言を付け加えてしまうからこの発言には語弊や波紋が生じたわけだけれども、言いたいことはよく分かる。要するにメインやバックの座席と同じような理屈は通用しませんよ、ということである。それでは、なぜあえてゴール裏に来たのか、ということになる。
柏のブログ主さんのエントリーを読む限り1階の「柏熱地帯」はともかくコアサポが2階全体までに及んでいるということでもないらしい。「貼り紙」をするまでは、それなりの「棲み分け」もできていたようにも読み取れる(実際ブログ主さんの行動にそれほどおかしい点はない)。
しかし「2階前段部」ではサポーター同士のトラブルがあったとも書いてある。
これが「少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい者」なのだろう。
これはもう何回も書いていることなのだけれども、サポーターは「愛するクラブを勝利を願い、応援する」というただ一点(シングルイシュー)で繋がっている「社会」である。勝利のために自分は何をすべきなのか考え、行動するのがサポーターであって、「少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい」とばかりに、ゴール裏で立って応援している人間に「座れ」と要求するのは、ちょっとあり得ない。
実はトラブルというのは「立て」というゴール裏の理屈よりも、「座れ」という指定席の理屈がゴール裏で要求された場合に起こりやすい。
それは「お客さん」の理屈であって決してサポーターの理屈ではないわけだ。
物が投げ込まれたり、喧嘩が起こったりする「危険」は論外だが、ゴール裏はどうしたって試合をよく観ることが出来ない「不自由」な場所である。清水の場合でも特定のチャントではフラッグが視界を遮る。ゲーム全体をしっかり観ようと思ったらゴール裏ほど相応しくない場所はないのだよね。
しかし、ひとり、ふたり、爆心部に無理やり紛れ込んだって大抵は平気だろう。黙って「地蔵」してたら白い目で見られるかもしれないけれども、「我々」よりもデカい声を出せば、まず文句は言われない。ゴール裏はゲームを観る上では不自由な場所かもしれないけれども、「キミが全力で応援する、サポートする以上は」という意味では自由な場所でもあるわけだ(でなければ困る)。
堂々巡りのゴール裏論議よりもコアの密度をどんどん上げていきたいもんですな(過剰な席取りは勘弁して欲しいけれども)。
結論としてはレッズレベルでコアがゴール裏を埋め尽くすことができないのであれば「元通り」棲み分けすべきとしか言いようがない。
しかし5年前のナビスコ予選の大宮戦や去年のセレッソ戦の日本平を思い出せば、スタジアムでゲームを観るってことが、ただ「大人しく座って観る」ということではないことはわかる。観る者を熱狂させるようなゲームを観せてくれたら、誰だって自然と立って応援したくもなるものだ。
それほどあの時はゴール裏もメイン、バックも関係なく、スタジアム全体が熱狂していた。