徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

「ゴール裏」論議について

2013-05-08 19:00:41 | Sports/Football
ゴール裏が増設された柏で久しぶりに「ゴール裏」論争が起きているらしい。
ゴール裏論争というとインファイトの河津氏のメッセージが有名だろう。

<ゴール裏の熱狂的な雰囲気を保つためにも、大人しい者や少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい者はゴール裏に来ないでほしい。ゴール裏では立ち続けて応援する、試合をよく観ることが出来ない、物が投げ込まれ怪我をする、サポーター同士の喧嘩に巻き込まれる、など危険かつ不自由なことが多々ある。これを受け入れて我々のように応援する気持ちの無い者はゴール裏に来ないでほしい。>

メッセージの最後に「我々のように」と余計な一言を付け加えてしまうからこの発言には語弊や波紋が生じたわけだけれども、言いたいことはよく分かる。要するにメインやバックの座席と同じような理屈は通用しませんよ、ということである。それでは、なぜあえてゴール裏に来たのか、ということになる。
柏のブログ主さんのエントリーを読む限り1階の「柏熱地帯」はともかくコアサポが2階全体までに及んでいるということでもないらしい。「貼り紙」をするまでは、それなりの「棲み分け」もできていたようにも読み取れる(実際ブログ主さんの行動にそれほどおかしい点はない)。

しかし「2階前段部」ではサポーター同士のトラブルがあったとも書いてある。
これが「少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい者」なのだろう。
これはもう何回も書いていることなのだけれども、サポーターは「愛するクラブを勝利を願い、応援する」というただ一点(シングルイシュー)で繋がっている「社会」である。勝利のために自分は何をすべきなのか考え、行動するのがサポーターであって、「少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい」とばかりに、ゴール裏で立って応援している人間に「座れ」と要求するのは、ちょっとあり得ない。
実はトラブルというのは「立て」というゴール裏の理屈よりも、「座れ」という指定席の理屈がゴール裏で要求された場合に起こりやすい。
それは「お客さん」の理屈であって決してサポーターの理屈ではないわけだ。
物が投げ込まれたり、喧嘩が起こったりする「危険」は論外だが、ゴール裏はどうしたって試合をよく観ることが出来ない「不自由」な場所である。清水の場合でも特定のチャントではフラッグが視界を遮る。ゲーム全体をしっかり観ようと思ったらゴール裏ほど相応しくない場所はないのだよね。
しかし、ひとり、ふたり、爆心部に無理やり紛れ込んだって大抵は平気だろう。黙って「地蔵」してたら白い目で見られるかもしれないけれども、「我々」よりもデカい声を出せば、まず文句は言われない。ゴール裏はゲームを観る上では不自由な場所かもしれないけれども、「キミが全力で応援する、サポートする以上は」という意味では自由な場所でもあるわけだ(でなければ困る)。
堂々巡りのゴール裏論議よりもコアの密度をどんどん上げていきたいもんですな(過剰な席取りは勘弁して欲しいけれども)。

結論としてはレッズレベルでコアがゴール裏を埋め尽くすことができないのであれば「元通り」棲み分けすべきとしか言いようがない。

しかし5年前のナビスコ予選の大宮戦や去年のセレッソ戦の日本平を思い出せば、スタジアムでゲームを観るってことが、ただ「大人しく座って観る」ということではないことはわかる。観る者を熱狂させるようなゲームを観せてくれたら、誰だって自然と立って応援したくもなるものだ。
それほどあの時はゴール裏もメイン、バックも関係なく、スタジアム全体が熱狂していた。

無意味の行く末/小松左京「幸福にも不幸にもならない手紙」

2013-05-08 03:30:21 | Books
<これは幸福にも不幸にもならない手紙です。/誰がはじめたのかわかりません。/この手紙をうけとった人は、これと同じ文面の手紙を書いても書かなくてもかまいません。――書いた手紙を、数日以内に、50人の人に出してもよし、出さなくてもかまいません。出した所であなたが幸福になるわけでもなく、出さない所で別に不幸にもなりません。/アメリカの西部のある人は、この手紙をうけとって、ほうっておきましたが、別にどうにもなりませんでした。――またカナダの女性は、すぐさま50通を友人に出しましたが、別に幸福がまいこんだというわけでもないそうです。>

<「出しても出さなくてもいいし、出した所で幸福になるわけでもなく、出さないからといって不幸になるわけでもない――じゃいったい、この手紙を書いた人は、どんなつもりで書いたんでしょう?」
 「知らんな。ひまだったんだろう…」と、彼は興味がなさそうにいった。「ほっとけよ。――ばかばかしい……」
 「でも――ほんとに変な文章……」
 妻はまだ、文面にこだわりながらつぶやいた。
 「これを読んでると――なんだか、しらけてくるわね」
 この言葉が、新聞を見ている彼の意識の底をなんとなくざらつかせた。>
(小松左京「幸福にも不幸にもならない手紙」1971 角川文庫『怨霊の国』所収)

「不幸の手紙」が世間を騒がせたあと、また不思議な匿名の手紙――「幸福にも不幸にもならない手紙」が流行始めた。手紙が同僚との世間話の話題にもなるほど浸透すると、やがて手書きだけではなくデザインし印刷された手紙までが束になって届くようになった。主人公はその一見意味ありげでいながらまったく無意味な内容と匿名の手紙のしつこさに苛立ち、<見えない大勢に対する復讐心にもえ>自らも「幸福にも不幸にもならない手紙」を投函するようになる――。



主人公は当初直情的なタイプに描かれているけれども、多くの人々にはユーモアとも受け取られていた「幸福にも不幸にもならない手紙」というナンセンス(無意味)によって主人公のみならず人々の意識が徐々に変化していくホラー短編。この短編が書かれた1971年よりも、容易に一人ひとりの目に触れ、無意識に手を貸してしまうという意味では現代の方がチェーンメールの危険性はずっと高いわけだけれども、ここではチェーンメールにまつわる個人の好意や悪意の在り処が問われるのではなく、「無意味」が人々の心理に及ぼす影響に主眼を置いている点で、いかにも1971年(70年代)的な社会批評でもある。
で、勿論これは現代にも通じていて、要するに末期的な「どっちもどっち論者」はこうなるって話です。