徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

無意味の行く末/小松左京「幸福にも不幸にもならない手紙」

2013-05-08 03:30:21 | Books
<これは幸福にも不幸にもならない手紙です。/誰がはじめたのかわかりません。/この手紙をうけとった人は、これと同じ文面の手紙を書いても書かなくてもかまいません。――書いた手紙を、数日以内に、50人の人に出してもよし、出さなくてもかまいません。出した所であなたが幸福になるわけでもなく、出さない所で別に不幸にもなりません。/アメリカの西部のある人は、この手紙をうけとって、ほうっておきましたが、別にどうにもなりませんでした。――またカナダの女性は、すぐさま50通を友人に出しましたが、別に幸福がまいこんだというわけでもないそうです。>

<「出しても出さなくてもいいし、出した所で幸福になるわけでもなく、出さないからといって不幸になるわけでもない――じゃいったい、この手紙を書いた人は、どんなつもりで書いたんでしょう?」
 「知らんな。ひまだったんだろう…」と、彼は興味がなさそうにいった。「ほっとけよ。――ばかばかしい……」
 「でも――ほんとに変な文章……」
 妻はまだ、文面にこだわりながらつぶやいた。
 「これを読んでると――なんだか、しらけてくるわね」
 この言葉が、新聞を見ている彼の意識の底をなんとなくざらつかせた。>
(小松左京「幸福にも不幸にもならない手紙」1971 角川文庫『怨霊の国』所収)

「不幸の手紙」が世間を騒がせたあと、また不思議な匿名の手紙――「幸福にも不幸にもならない手紙」が流行始めた。手紙が同僚との世間話の話題にもなるほど浸透すると、やがて手書きだけではなくデザインし印刷された手紙までが束になって届くようになった。主人公はその一見意味ありげでいながらまったく無意味な内容と匿名の手紙のしつこさに苛立ち、<見えない大勢に対する復讐心にもえ>自らも「幸福にも不幸にもならない手紙」を投函するようになる――。



主人公は当初直情的なタイプに描かれているけれども、多くの人々にはユーモアとも受け取られていた「幸福にも不幸にもならない手紙」というナンセンス(無意味)によって主人公のみならず人々の意識が徐々に変化していくホラー短編。この短編が書かれた1971年よりも、容易に一人ひとりの目に触れ、無意識に手を貸してしまうという意味では現代の方がチェーンメールの危険性はずっと高いわけだけれども、ここではチェーンメールにまつわる個人の好意や悪意の在り処が問われるのではなく、「無意味」が人々の心理に及ぼす影響に主眼を置いている点で、いかにも1971年(70年代)的な社会批評でもある。
で、勿論これは現代にも通じていて、要するに末期的な「どっちもどっち論者」はこうなるって話です。

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