マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

夢のお告げはアウトドア用品

2018年10月21日 13時45分34秒 | メモしとこっ!
就寝してから何時間経ったのだろうか。

夢見のドラマは9月に行く十津川遊び。

簡易キャンプ地に折りたたみ式テーブルが登場しかけた。

車の中に積んできたはずだが、見当たらない。

どこを探してもみつからない。

仕方ないから、地べたに座り込んで食べていた。

料理は、といえばテーブル。

まな板、ボウル、紙皿などに肉、野菜切り。

料理にとりかかりたいが、テーブルがない。

困った顔で決断したまな板置き場はクーラーボックスの上蓋。

背が低いからなんとも料理がしにくいし、出来上がった料理も並べられない。

汗、汗・・・に目が覚めた。

そうだ、今年はUさんが不参加になったからテーブルもイスもない。

おふくろは10日前から屋外での自力歩行が不可能になった。

屋内であれば伝い歩きでなんとか暮らせるわけで我が家に生活を移した。

通っていた整形外科に内科医師は大阪市内の住之江。

お盆が明けた診察ついでに立ち寄ったおふくろが独りで暮らしている5階建て市営住宅のゴミ捨て場。

これは、と思ったモノが捨ててあった。

青い物体はどこやらでも見たことがある。

レバーを降ろしてみれば中身はイス付き折りたたみ式テーブルだった。

それに貼ってあった捨て主のメッセージ。



「おりたたみ式 イス付テーブルです 必要な方はどうぞ 3日後に粗大ゴミシール はります」だ。

夢のお告げはありがたく頂戴させてもらった。



ゴミ捨て場には黄色いパラソルもあったが、他に必要とされる方に残しておこう。

(H29. 8.17 SB932SH撮影)

マルヤス水軍住之江店のおまかせ日替わり漁師丼

2018年10月20日 09時51分24秒 | 食事が主な周辺をお散歩
整形外科医院の診察を終えた。

結果は老人病というか、治りようのない骨粗しょう症。

病名は敢えていうなら、である。

薬も処方してもらった。

もう一つの医院は内科。

診察時間がダブルものだから、3日後に切れる内服薬の追加処方箋に絞らざるを得ない。

ただ、介護のこともあるからなにかとお世話になっている医師と介護主治医の相談。

いずれも内諾してくださった。

おふくろといえば治らぬ老人病に悔やんでも仕方がない心境。

大病でなく、喋りはできるし、食欲もある。

自力歩行は頼んないが、なんとか。

これまでの酷さはみられず足取りは動く方だ。

内科医師が処方した薬は北島薬局にお願いする。

しかも、だ。

手間のかかる1錠ずつの分包である。

おふくろではないが、飲み間違った患者さんが居た。

薬局の大先生はそれからの薬は分包することにした。

手間はかかっても飲み間違いがなければそれでいいということである。

実は医師が処方するときに分包を指示するようだ。

薬剤師は主治医の処方箋に従って薬を袋詰めする。

分包の指示がなければしない。

あればする、ということである。

とにかく身体状態は明白になって心も落ち着いたところで昼食である。

ここ10日間は麺類を食べたいというおふくろの希望に応える食事処はどこだ。

いつもなら住之江に来たら「魚輝」と決めていた。

ところが「魚輝」は麺類がない。

つい先週に入店した麺屋もあるが、もう一度という希望は出ない。

おふくろの身体診察に国道26号線を何度も走る。

そのときに気がついていた食事処がある。

車窓から見えるお店の名前は〇に納めた「安」の文字。

屋号というのか、わからないがお店の名前は「海鮮うまいもんや マルヤス水軍」とある。

ここって以前はたしかこんな名前の店じゃなかったはずだ。

私が入店して食べた料理は690円のきつねうどん定食。

かーさんは890円のちらし寿司・天ぷら盛りのおもてなし膳。

食事処は平成26年の10月28日に入店した「おはし処源ぺい」だった。

他のメニューも記憶あるが、全般的に膳或は定食版のメニューであった。

お味は2品とも美味しかったが、その日以降は入店しなかった。

尤も入店しない理由はこの道を通らなかっただけである。

お店も替わればメニューも替わる。

替われば麺類も替わる。

替わるといってもまったく違う「海鮮うまいもんや」、である。

で、あればお寿司が美味いだろう。

看板にもどデーん、とアップしている税抜き500円~の海鮮ランチに吸い寄せられていく。

ワンコインの呼び名は心地いい響きがある。

つい釣られて入店してしまいそう。

実は、「しまいそう」ではなくて、入店して「しまった」「海鮮うまいもんや マルヤス水軍」住之江店である。

同店舗は平成29年の4月26日にオープンしたそうだ。

私は心に決めていたおまかせ漁師丼。

かーさん、おふくろはさて何を注文するのか。

メニューをいろいろ拝見した結果は税込み価格が993円のマルヤスランチとかけそば。



かーさんがマルヤスランチを選んだにぎり六貫に天ぷら盛りが決め手。

漁師汁も胡麻和え小鉢もついている。



うどんかそばがついている麺付きおまかせ漁師丼を勧めたが、お腹はパンクしそうなので「そばだけのメニューありますか」と問いにありますと云われて注文した税込410円のかけそば。

私の選んだおまかせ漁師丼も一挙、運ばれてテーブルがいっぱいになった。

配膳されたおまかせ漁師丼にびっくり。



これにも漁師汁が付いていたんだ。

それもこれもびっくりしたのは大きな、大きなブリカマである。

汁は白っぽい。

魚輝もそうだが、たいがいは赤だしであるが、マルヤス水軍は白味噌仕立て。

一口飲んで違和感を持つ。

味に馴染みがないためである。

かーさんは特に美味いとも感じない。

赤だしに替えてもらうならそうしたかったという。

私は逆に気にいった。

どこが、と云えば味である。

白味噌には違いないと思うのだが、他にも何かが入っている。

それは酒粕のような感じである。

面白い味に完食はしてみたものの一点だけ黒星をつけたい。

ブリの皮がつるっと剥けないのである。

今まで食べたことのあるブリの皮はつるっと剥ける。

容易に剥けるブリは脂がのっている。

不味くはないのだが、それが難点。

ブリの身もやや固めと思えた。

それにしてもだ。

無茶美味いのがおまかせ日替わり漁師丼。

にぎりや刺身に出した魚の切れ端であるが、コリコリしてるから新鮮味抜群。

ど真ん中に鎮座まします温泉玉子。

白身も黄身もトロトロ。

小皿に溶いた山葵醤油をたっぷり注いだ丼。

マグロにサーモンにハマチなどのズケ(漬け)が美味いだな。

周りは刻みネギがいっぱいで下にある白いご飯が見えない。

玉子焼きに青葉に甘酢生姜も盛った丼が美味すぎる。

はっきりいって魚輝は負けたと思った。

隣でマルヤスランチ食べているかーさんも旨い、旨いと云いながら食べている。

にぎり寿司のネタはマグロ、ハマチ、サーモン、エビ、玉子などだが、どれもこれも旨いという。

もう一つの旨さは天ぷらである。

揚げたてほくほくの天ぷらも最高だという。

一つ食べて見と云われて玉ねぎを選ぶ。

かーさんが云った通りの旨さがある天ぷらはとにかく大きくて厚みがある。

食べ応えはあるし、玉ねぎに甘さがある。

いやもうこれにはまいった、である。

ところでおふくろが黙々と食べていたかけそばである。

こんなに美味しいそばは初めてだという。

コシのあるそばは喉越しが良い。

そこへもって出汁が美味い。

残った出汁を飲んでみた。

味が濃いというか、コクがあるそば出汁。

量も最適で大いに気に入ったおふくろ曰く、10日に食べた「手打ちうどんの店さぬき茶屋」のざるそばとの味比較。

おふくろの軍配はマルヤス水軍に揚がった。

どれもこれも大満足の料理に疑問があった。

漁師汁の味はいったい何で作っているか、である。

是非、聴いておきたいと思って店員さんに尋ねたら奥から出てこられた料理人の女性。

大将は奥にいるらしいが、女性はおそるおそる・・・。

「いやもうとにかく美味しくて食べさせてもらったのですが、この漁師汁(お店ではアラ汁と呼んでいる)はどういう具合にして味付けされたのか、知りたくて」といえば、酒粕でもなく麹であるという。

なーるほど、である。

正体がわかったがこういう味付けは珍しいですねと云えば、差別化だと応える。

これもまた、なーるほど、である。

もう一つのお願いは漁師汁の味交換である。

他店になるが、赤だしに交換は可能ですかと云えば、夜の場合だけになるそうだ。

昼間のランチは特別な対応はしていないので申し訳なさそうに云われる。

もう一つのお願い。

「この丼のご飯の量が多くて、残してしまいました、少な目をお願いすることができますか」と、いえば・・・可能です、だった。

味のクレームかと思って出てきたようで、美味しかったことを伝えたら顔が綻んでいた。

ちなみに当店の以前は「おはし処源ぺい」だったという。

やはりすであったのだ。

「おはし処源ぺい」も「海鮮うまいもんや マルヤス水軍」も経営会社は同一。

業態を替えて店替えをしたという会社は㈱フレンドリーだった。

そうそう、マルヤス水軍のランチはドリンク付き。

もちろんビールはない。

コーヒー紅茶に烏龍茶にオレンジジュースにコーラ、ジンジャーエールなど。

かーさんが選んだ紅茶は味が無くて不味かったそうだが、おふくろの選んだオレンジジュースは美味い。

私が選んだソダのオレンジジュースはもっと美味しい。

そりゃそうだわ。

オレンジジュースは「なっちゃん」。

どおりで美味い。

あれこれ美味い、不味いのと提供してくれたマルヤス水軍はもっぺん行ってみたくなる。

いや、もっぺんどころか、何度も味わってみたくなる「海鮮うまいもんや マルヤス水軍」は奈良県にない。

「おはし処源ぺい」なら3店舗あるが、マルヤス水軍はない。

できれば㈱フレンドリーにお願いしたいところだが、声が届くかな。

ちなみにマルヤス水軍はクレジットカード支払いができる。

ありがたい支払い方法であるなら、なおさらお願いしたいところである。

(H29. 8.17 SB932SH撮影)

痛みがなけりゃ階段は登れる

2018年10月19日 09時45分28秒 | むびょうそくさい(おかん編)
痛みの症状はいつ出るやもしれない。

まったく発症しない日もあれば、突然のごとく背中が痛いと泣き叫ぶ場合もある。

日によっては痛みではなく痛だるいという感覚の発症もある。

これまで発症していた部位はほぼ限定しているように思えた。

痛だるい部位は右大腿骨辺り。

痛烈な痛みは右肩甲骨下辺りだ。

8月7日の午後、突然に歩けなくなった痛みは痛だるい右大腿骨であったが、前日までに過去3回もあったという強烈な痛みは胸とか背中と云っていたのが、右肩甲骨下辺りであったと見えてきた。

前夜、就寝時はまったく痛みをなくぐっすり寝た。

ところが夜中の3時頃に突然の痛み。

起き上がるのも難儀して這いつくばってトイレに向かったという。

それは朝5時過ぎにも発症した。

その間も痛みが連続する。

安眠どころではない状態だった。

そんなことを知らずに私の起床時間は朝7時。

起きて始めてしったその事実。

おかしな状態になれば2階で寝ているかーさんに何故緊急携帯電話をしなかったのか。

待っておれば和らぐと思っていたらしい。

できうる限り我慢してしまうおふくろである。

とにかく起き上がれないおふくろを後ろから羽交い締めするような恰好で抱えた。

膝は動くのか。

なんとか身体を抱えてソファに移す。

このときの身体は横臥ではなく正面に座するという感じだ。

とにかく寝返りも困難だった身体をソファに座った瞬間に痛みが消えた。

独りで立ってつたい歩きでトイレに行く。

傷みはないというが、大腿骨が痛だるいとも・・・。

不定期に出現する症状は痛い、痛だるい、まったくないという状況を繰り返す。

それも起伏が激しいほどの痛みに辛い、ツライと云っていた状況が一転して回復して朗らかな表情になる。

その時間が長くなるほど家に戻っていたいと思い始める。

本日はとにかくこっちが勝手に予想していたお盆休診明けの日。

2カ月前に倒れて診察してもらった大阪住之江の浜口にある須見整形外科へ電話する。

予想通りの休診明け日と判断していた通りであった。

前もって確かめるが、この日も渋滞に巻き込まれる可能性が消えたわけじゃない。

走ってみなけりゃわからない阪神高速道路である。

ガソリンも補給して満タン状態にしたスズキエブリイジョインターボ。

朝9時半に入った第二阪奈道路の中町ランプ。

そのまま走れば阪神高速道路に突入する。

前回の10日の高速道路は水走辺りでもう渋滞。

この日はスイスイ。

荒本料金所前までは渋滞しているが示す距離は3km。

これならスイスイの日である。

森ノ宮辺りも渋滞であったが、難なく突破。

思っていた以上に早く着いた須見整形外科病院。

入口も待合室も診察室へもスラスラ。

傷みがまったくない診察に医師はどう判断するのだろうか。

2か月前の倒れたときの処置。

その後の状況に台風さなかの脱出劇、ではなく、階段降りにそろりそろりと車に移動。

そして着いた須見整形外科病院は台風の影響で急遽、臨時の休診日。

仕方なく友愛会病院。

そして奈良の循環器内科検査に診察。

その後も再診する友愛会病院の脳外科検査に診察。

結局はなにもなかったが、自己による歩行は困難な状態。

傷みも日々推移する状態を説明して介護認定の主治医になっていただけるか相談にのってもらう。

医師は、診断書を書かなければならんが、おふくろの身体状況については書けない老人性身体衰退病。

病といえない老人病ではどうするか・・・。

その後の診察は痛みのある個所のレントゲン。

それに並行してしなくてはならない内科医師の服用薬の処方箋。

今から行かせてもらいますとかーさんが電話で伝えて私は車を走らせる。

距離はそれほど遠くないが、信号、信号で待ち時間。

かつて知ったる畠中医院。

私が子どものころから成人するまでずっと診てくださっていた大先生がおられた医院。

今は息子さんが代を継いでいる。

受付の看護士さんも存じている。

おふくろは只今検査診断中で畠中さんには行けないが現状を伝えておきたかった。

それもあるし介護認定申請における主治医である。

それなら今すぐ先生にお話しを、と云って診察室のドアを開ける。

大先生にはお世話になっているし、いつもおふくろを診てくださってありがとうございます、である。

これまでの経緯を伝えて主治医の相談である。

そんなんであればいつでも受けるよって云ってくださる。

区役所の担当者に相談した10日から悩み続けていた主治医の選択にいとも簡単に受けてくださる。

介護認定にあたって調査員からの依頼を受けたら患者さんの状態について意見書を書くそうだ。

それが整形外科病院の医師が云っていた診断書である。

涙が出るほど嬉しくなって思わず先生の手を握る。

やっていることはいつものおふくろと同じである。

この親にして子あり、である。

今、お願いしている整形外科の医師が断わるようであれば、お願いしますと畠中医院を出る。

処方箋指示書を持って目指すは北島薬局。

大昔の場所は覚えているが、見当たらない。

急ぐのは整形外科病院の進展状況。

処方箋は後でもできる要件。

そう思って車を走らせる。

着いたら検査も診察も終わっていた。

結果は老人性骨粗しょう症。

医師からブロック注射をしましょうと云われたが、おふくろは断ったという。

ある病に陥ってそのときの医師が注射をした。

そのときに不快な思いをした。

それからは駐車に恐怖感をもつようになった。

効能がどうであれ、その事件があってからは駐車処置を受けなくなった。

そうであれば内服薬投与である。

もう一つの要件は・・・受けてくださった。

ありがたいことである。

ほっとして食事を摂る。

それから向かった先はおふくろが居住する5階建ての市営住宅。

5階建てだからエレベータはない。

階段で上り下りする。

8月6日までのおふくろはこの階段を上り下りしていた。

昔よりかは遅くなったが、息切れせずに登る。

日によっては踊り場で休憩する場合もあるが、一応のところは自力で登れる。

これが、だ。

台風5号が、やってきた日からは介助支援の要る容態になった。

診断結果に今の容態に動ける、歩ける、登れると確信したおふくろ。

現状を試してみるのも良かろうと判断してかーさんの介助で階段を登った。

それはスルスルと上がっていく。

なんのためらいもなくスルスル上がる。

行きついた先は4階の住居。

介護認定申請に必要な介護被保険者証を探す。

必要ないと判断していたおふくろの記憶にない。

どこに仕舞ったのかさっぱり思い出せずに断念である。

下ってきた二人。

特にびっくりしていたのは介助していたかーさんだ。

市営住宅の階段には手すりがある。

大昔、大ばあさんが生きていたころはその設備はなかった。

苦労して上り下りしていた大ばあさんは京都の施設で亡くなった。

最後の方は私を息子と間違えるくらいの認知症になっていた。

そんなことを思い出す階段の手すりである。

それにしても朝起床するまでは背中が痛くて起き上がれず、自力歩行も困難だったおふくろ。

一時的事象であると思うがびっくりする。

その晩、というか我が家に戻った夕方の5時。

戻ってからも落ち着いていたが、である。

突然に始まった背中の痛みに難儀する。

午後の5時ころはややマシだった。

それが7時ともなれば痛みは最高潮。

悲鳴を何度も揚げるおふくろ。

午後8時に処方箋の痛み止めを飲む。

それからしばらくは治まっていた。

食欲はなかった晩食もなんとか食べたが、就寝間近の午後10時。

またもや再来の背中の痛み。

服用した痛み止めも効かない。

座る場所を替えてソファに移動させる。

そうすると痛みはマシになった。

その後も徐々に落ち着いていくおふくろの容態。

翌朝はまたもや普通に戻っていた。

起伏激しく、回復もあれば、またもや繰り返すおふくろも辛いが、それは医者の注射を断ったからでないのか・・。

翌日に書き上げた介護認定申請書。

事情のこと細かさは書けなかったが、主治医を須見先生にさせてもらって郵送した。

その夜の10時。

背中が痛だるいという。

コウヤクというか湿布を貼ってもらうのだと、風呂上がりのかーさんを待っていた。

入浴は二日に一度。

その都度にかーさんは一緒に入浴して介助することにしている。

この様子では住之江住居の独り入浴はとてもじゃないが、無理である。

ところで傷む時期は一定でもない。

突然に痛がるのである。

それもたいがいが就寝中のようだ。

稀に昼間の場合がある。

8月19日のことだった。

炊事場に居るかーさんに向かっておふくろが呼んだ。

それと同時に身体の向きを換えた。

そのときに「イ、タタタ」と声を出した。

私が診ている限りではあるが、骨ごと捩じりをしたときに発症するようだ。

ほぼ一瞬の痛さであるが、その後はまったく出ない。

しばらくは落ち着いていたが、8月21日の午前5時である。

私は別室で寝ていたからわからなかったが、トイレに行ったようだ。

そのときに痛だる症状になったらしい。

布団の上で座ったり、すぐ横にあるソファに座ったりしていたが、痛みは消えずにいたが、マシになるにつれうつらうつらする。

そのうち、眠たくなって身体を横にしたとたんに痛怠い状態になる。

眠れない、痛だる状態に疲れもでていたが、我慢していたらしい。

そのうちかーさんも起きた朝7時の起床時。

背中は痛くて起き上がるのも難儀した。

私は背中から抱えて身体を持ち上げ、そのままソファに移した。

背中を真っすぐな位置になっておれば痛みは消える。

こういった状況から推測するに寝返りをする度に、肋骨辺りが動いて、飛び出した神経が刺ささって痛さを感じている。

そう思うのである。

(H29. 8.17 SB932SH撮影)

春日大社万燈籠神事の初穂

2018年10月18日 09時12分57秒 | むびょうそくさい(おかん編)
1カ月前の7月12日に初穂料を郵便振り込みで納付していた。

それと同時に家族3人それぞれが願いを込めて書いた献燈紙も送っていた。

家内安全、健康を願った献燈の願文である。

おふくろが達者で参道を歩けるならかーさんと3人揃って参拝したいと考えていた。

万燈籠初穂の願い事は8月14日、15日の両日に亘って献燈者祈願祭が行われる。

ありがたいことである。

送付したときの受領書を当日の受付に提示すれば献燈のローソクをいただける。

機会があれば、かつ、時間的余裕に体力、気力がそろえば献燈もさせていただこうと思っていた。

ところがおふくろは今月の8月7日の午後になって急に身体不調。

一人では外来することもできなくなった。

7日、8日、10日はそれぞれの医師科診断を仰ぐ。

結果的にいえば老人性の衰えで自立歩行ができなくなった。

献燈参拝はどうするか。

我が家で伝い歩きができるおふくろ。

屋内であればなんとか暮らせる。

食事も喋りも今までと同じ。

元気な様子なのでたった一人になるが、心の余裕も出てきたので献燈参拝をしてみたくなった。

14日に行きたかったが、箸中の取材でクタクタになったから家に戻った。

残す日にちは本日だけ。

とうとうその日がやってきた。

条件は満たしていたが、雨は降っていた。

小雨であるが、降ったりやんだりの天候状態。

こういう機会は逃してはなるまいと思って車を走らせた道路に交通状況が表示された。

「奈良公園は渋滞中」の表示に気持ちが萎えて帰路についた。

(H29. 8.15 SB932SH撮影)

福貴畑・S家の先祖さん送り

2018年10月17日 09時15分38秒 | 平群町へ
ツクツクボーシの鳴く声が広がる平群町。

雨は小雨になっているものの、降ったりやんだりのお盆の15日。

シトシト状態になっていた夕方の福貴畑に伺う家は親子3人が住まいするS家である。

初めてお家に伺った日は平成26年の1月7日だった。

氏神さんを祭る杵築神社の座小屋で営まれた正月座取材を終えてからだった。

正月座のしきたり、作法は厳格である。

3個のサトイモに△□の形に形成する蒸しご飯御供もあるが、特筆すべき点は座の料理にある。

砂糖を1kgも入れて作った味噌仕立ての豆腐汁を献する。

お神酒を冷燗、熱燗も献をする三献の儀を拝見してから立ち寄ったS家。

突然の訪問に応対してくださったのはグラフィックデザイナー・イラストレーターを職業とする娘さんだ。

正月座より1年前の平成25年1月8日に行われた勧請縄かけに当家を務めたご両親も再開したこの日。

お茶などをしてくれたが、応対のほとんどを娘さんがしてくれたお礼にご両親をとらえた数枚の写真をさしあげた。

Sさんは、当時「とにかく生きててよかったよ」のタイトルで日々の暮らしを取り上げてブログで公開されていた。

この日の突然の訪問をサブタイトル「タイミング」でアップされた。

描いたイラストはほのぼのほんわか。

温かみ、味わいのあるキャラクターデザインが気にいったと伝えていた。

そのような流れがあったS家との出会い。

尤も福貴畑の村行事は、正月座、勧請縄かけの他にジョウサン池で行われる龍神祭や観音堂で行われる観音祭も取材したことがある。

数年前から藍染めもする彼女は芸術祭「はならぁと」に作品を出展する芸術家でもあるSさんが伝えるブログに「とにかく生きててよかったよ WP版」がある。

そのブログにお盆の送りの記事をアップされた。

これは、と思って、2016はならぁとサテライトぷらす今井町の展示会場に寄せてもらったときに取材をお願いしたのである。

ご両親の了解もとってくださったSさん。

お家を訪れたのは15日の夕刻。

これより先祖さん送りを始められる。



仏壇の前に設えた机に広げる数々の供え物。

椀、皿一つずつに箸を添えている。

アサガラの箸もあるが、一般的な割り箸もある。

どうやら飯とおかずに分けているように思った。

昔はこれよりもっとたくさんのお供えをしていたという。

ざっと拝見して白ご飯に梅干し入りオカイサン、オカラ和え、サツマイモやカボチャの煮もの、シメジに葉物の煮込みに和菓子。

本来は小豆粥にするそうだが、本日は梅干し入りオカイサンにしたそうだ。

ビール、コーヒーの水ものもある。

数は特に決まりもないお供えに、ダンゴ盛りがある。



中央をぺこんと押した凹ましたダンゴは、この日の晩に先祖さんを送るためのダンゴ。

先祖さんに持って帰ってもらうよう沢山作ったえくぼのような形のオクリダンゴ(送り団子)である。

先祖さんを迎える日はムカエダンゴ(迎え団子)を供えるという。

本来は小豆粥らしいが・・。

左側にある三界万霊の礼はお寺さんが水供養をされたものだろう。

お茶は1時間おきに、新しいお茶に入れ替える。



古いお茶は縁側外の軒下に捨てる。

ガキサン(餓鬼)に飲んでもらうための施しである。

ちなみにS家の仏壇内部に掲げた3幅の掛図である。

本尊は中央に配した十一尊仏阿弥陀如来来迎図であろう。

そろそろ送らせてもらいますと伝えられて始まった先祖送り。



まずは燭台の火から線香に移す。

数本の束にして火を移す。

燃える火を手で煽いで消す。

線香は白い煙になった。

母親はその間に三界万霊の礼を取り出して数本のアサガラとともに紙包み。

それを父親に手渡した。

行きますょの合図に3人は揃って家を出る。



父親とともに家を出るSさん。

煙る線香を消さないように持って道路向こうの草木地にでる。

後方についた母親は小型のおりんとおりん棒を抱えて家を出る。

やや早足であれば線香は風を受けて燃え上がる。

その度に手で煽いで消す。

そのようなことをしながら目的地に向かう。

距離はそれほどでもない迎えも同じ場所でしていた神聖な地。

小川が流れる。

その小川は龍神祭をしていたジョウサン池が上流になる。

家々によって迎え、送りの地はそれぞれだ。

迎えるまでに草刈りを澄ませていたという、送りの地に着いたら、まずはアサガラに火を点ける。

ヒグラシが鳴くカナカナカナカナが辺りに流れる夕どき。

降っていた雨も止んだから助かる。

後ろからついてきた母親はおりんを打ち鳴らしていた。

カナカナカナカナに混ざってオリンの音色もこの地に響く。

さっそく始める火点け。

奉書、アサガラを包んでいた紙に火を点ける。



点け道具はマッチだ。草むらは雨に濡れて湿っているから、なかなか火がつかない。

何本か束ねたマッチをこすって火を点けたら燃えだした。

その傍に仏壇の燭台から火を移した線香を立てる。



水供養をした三界万霊の礼にも火を点けて燃やす。

線香の煙にのった先祖さんは空に向かって昇っていった。

こうして先祖さんを送った親子。



母親は、その間ずっとおりんを打ち続けていたのが印象的だった。

先祖さんを送ったあともカナカナカナカナ・・・・の音色が聞こえてくる。

(H29. 8.15 EOS40D撮影)

結婚内祝いの引き出物は国産しゃぶしゃぶ肉

2018年10月16日 10時47分33秒 | もらいもの・おくりもの
姪っ子が結婚した。

家族だけの結婚式にお祝いの気持ちを贈る。

そのお返しにどれがよろしいかと尋ねるブックが家に届いた。

いつから始まったのか知らないがブライダル用のカタログギフトである。

引き出物は結婚式に出席した人だけに贈られる。

最近は出席の有無関係なく祝いをしてくれた人たちにも内祝いカタログギフトが贈られるようになった。

かつての引き出物は新郎新婦の顔写真入りとか、サインとかが印刷してあった。

上等であっても新郎新婦からの贈りものがわかるような印があった。

例えばネーム入りの時計や食器とか・・・。

たいがいがそうであった。

我が家もそうしてきた。

時代がそうだったと思う。

カタログにある商品を選べるようになったのは、2、30年くらい前からであろうか。

ある年齢に達してからは部下からのご招待はなくなり、参列することもない。

親戚筋でも数人の甥っ子、姪っ子の結婚時代を迎えるようになったころからカタログギフトを目にするようになったと思う。

街で見かける結婚式・披露宴帰りの礼装姿の人が手にしていたのは大きな袋に入った引き出物だった。

昨今はそういう風景も見なくなった。

これも民俗の一面。

時代文化の変化はブライダル会社の手によって民俗文化も変革する。

さて、前置きは置いといて、今夜の食事はそのカタログギフトから選んだしゃぶしゃぶ用国産和牛肉。

息子も東京から戻ってくるお盆にはおふくろも呼んでと思って注文していた。

それが、まさかの歩行困難に陥って我が家で見守ることになるとは想像もしていなかった。

ただ、気になるのは国産和牛肉の原産地標記がないことだ。

パッケージには「国産和牛」のデザイン文字しかない。

ただそれだけであれば安心はできなくなった現代。

なんらかの表記は必要であろう。

スーパーで売っている牛肉でさえ産地名がある場合も・・・。

トレーサビリティのことをガンガンは云いたくないが、味は美味い。

ここ数年間で極端に減っている我が家の牛肉消費。

細切れは料理しにくいから買わんといてとか、牛肉100gが300円以内で、赤身の肉のすき焼きパックしているものでないと・・。

しかも、である。

和牛でないとアカンのである。

アメリカンビーフなんぞはもっての外。

和牛一本である。

そんなわけで最近買った条件を満たす買物は、前年の12月29日の「肉」の日の特売日に買った「産直市場 よってって」店内にあるお肉屋さんだ。

大晦日は奈良県中央卸売市場の「ジェネラルフーズ」である。

正月用であったから奮発して買った。

普段の日であればそんな思い切ったことはしない。

ところが、今回はありがたい内祝いのカタログギフトの引き出物。

形が残るよりも普段食べることのない上等もんの和牛狙い一本にした。

今夜は4人もいる。

ご相伴に預かるという表現が相応しい我が家のお盆料理。

白菜、長ネギ、エノキ、シメジ、トーフに太い春雨、ではなく、クズである。

長年に亘って食事を楽しませてくれた現役の土鍋にたっぷりの水を張って湯を沸かす。

出汁はコンブで煮たてて準備が整った。

野菜を先に入れて、「しゃぶ しゃぶ」。

食べ物番組では箸で摘まんだ牛肉を「しゃぶ しゃぶ」と云いながら湯通し。

赤身がとれたか、とれないかも間もなく引き上げて出汁につけて食べはる。

「しゃぶ しゃぶ」は面倒くさい料理である。

熱湯付近まで肉を掴んだ箸をもっていく。

湯気で持つ手が熱くなる。

それがイヤで牛肉は鍋に放り込んだままにする。

でき上がりは自分の眼で確かめて引き上げる。

普段なら胡麻ポン酢も出てくるが、今夜はそれが苦手なおふくろも食べる。

ここは一本化してミツカンの「ゆずぽん」。

最近はしゃぶしゃぶではなく、いろんな料理に利用している「ゆずぽん」に浸けていただく。

旨い、美味いを連発する家族4人。

国産和牛がとても美味しいのである。

幸せな晩食に久しぶりの団欒。

翌日はおふくろの状況を見にきた弟夫婦ともに話題沸騰。

口はすっかり弾けて滞在時間が長くなった。

借りてここまできたレンタカーを返却する時間もやってくる。

帰ろうとして玄関まで動いたときにスマホのスカイプが作動した。

結婚してから遠く離れた九州に住むことになった姪っ子からだった。

おふくろも私もみんながスカイプに向かって顔を見せる。

前々日はもっと遠い国のカナダに住む我が子もスカイプしてきた。

そのときと同じように画面に映る顔にウルルン。

そんなこを思い出していたら、お肉のお礼を伝えるのを失念した。

この場を借りて、美味しくいただいた内祝いの引き出物にありがとうと云っておこう。

(H29. 8.14 SB932SH撮影)

箸中車谷垣内・悪霊払いの数珠送り

2018年10月15日 10時26分49秒 | 桜井市へ
桜井市箸中の年中行事は神社行事もあるが、それぞれの地区単位でされる行事もある。

すべての地区がしている地蔵盆の他、地区特有の講行事もある。

中垣内のこんぴら講の行事がそれだ。

また、野神行事のノグチさんもある。

特筆すべき行事をしていると聞いたのは平成29年の4月9日

車谷垣内の地蔵盆の在り方を調べていた際に伺ったOさんが話してくれたその行事はたぶんにここ車谷垣内でしか見られない特殊な在り方だ、と思ったお盆の習俗である。

箸中は車谷垣内の他に中垣内、南垣内、下垣内があるが、お盆のときに数珠繰りをしていると聞いたのは車谷垣内だけのようだ。

数珠繰りがあるなら、何某かの講中行事が考えられる。

講中が集まる当番の家でしていると思うのが一般的な考え方であるが、車谷垣内では屋内でなく、屋外である。

屋外といえば、例えば地蔵堂の内部、或いは堂前にゴザなどを敷いた場で数珠繰りをするのが一般的な概念。

どこの地区でもそのような形式でされる。

ところが、車谷垣内は街道沿いに建つ集落民家の家の前の道が数珠繰りの場であった。

お家の前で2回ほど繰る数珠繰り。

終えたら隣の家の前に移動してそこでも数珠繰りを2回する。

さらに下った隣の民家の前でも数珠繰りを2回。

これを集落すべてに亘って順番に移動していく数珠繰りというのだから驚愕である。

車谷垣内は、一般的概念を覆す道が数珠繰りの場であった。

しかも特定、固有の場でなくお家の前の道路に、である。

車谷垣内の戸数は40戸。

そのお家、一軒、一軒巡って、道路に立ったままするという数珠繰り。

あり得ない様相に驚いたものだ。

是非とも取材したいと、平成29年7月24日に行われた地蔵盆取材の際に取材願いを申し出た。

取材拒否をされる人は皆無だったが、数珠繰りをする日は曖昧だった。

15日なのか、それとも・・・と思って、8月1日に訪れて尋ねたKさん。

地蔵盆のときは家族揃って参拝していたK家である。

8月14日の夕刻近い時間帯にしているということだった。

お盆の14日であれば、施餓鬼と思われるが、お寺さんは登場しない。

念仏はただただなんまいだーを繰り返す数珠繰りである。

夕刻に打ち鳴らす鉦を合図に始める車谷垣内の数珠繰り。

出発地点は集落端の東の先と聞いていた。

そろそろ集まってくる時間帯が訪れる。

Oさんが云っていた集まり方。

下の組の人たち纒向川下流の方から歩いてくる。

一方、上の組の人は上流の方からになると・・。



数人の婦人たちが寄り添って歩いてきた。

いずれも望遠でとらえた婦人たち。

下の組の婦人はてぶらであるが、上の組の婦人たちは数珠を手にしていた。

この先にあろうと思われる上の家で数珠繰りをしていたのだろうか。

7月の地蔵盆にお会いした婦人たちにこの日の取材に寄せてもらったとお礼を伝えて撮影に入った。

この日の行程、数珠繰りの在り方を初めて拝見する車谷垣内のお盆の数珠繰りにワクワクしながら同行させていただいた。



いきなり始まった道端で作法する数珠繰り。

数珠玉の房が手元にくれば頭を下げて次の人に送る。

数珠繰りに調子をとる鉦の音色がある。

カーン、カーン、カーン・・・・。

数珠の繰り方は早い方だと思える。打つ鉦の音で、念仏を唱えていたかどうか聞きとれない。

鉦を打っていたKさんにお話しを伺った。

Kさんが云うには、かつて車谷垣内に念仏講があった。

講元の女性が亡くなり、最後の年はたったの3人になった。

高齢の女性の先々を考えて講は解散した。

解散はしたが、これまでずっと使っていた鉦と数珠が残された。

鉦と数珠は葬儀のときにも使う。

今後のことを考えて、K家で預かることにした、という。

この日の数珠繰りに鉦を打つのは村の男性。

保管、管理をしているKさんと敬神講十人衆を務めるKさんの二人が交替しながら集落を下る。

そのときに拝見した鉦に刻印記銘があったので記録しておく。



刻印は「念仏講中 箸中村 室町住出羽大掾宗味作」である。

これまでの取材した先々で、数々の「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦を拝見した。

中でも特筆すべきなのは大和郡山市白土町の念仏講が所有する鉦である。

「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 □貞享伍ハ辰七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」とあった。

貞享五年は西暦年でいえば1688年。数えること330年前の鉦である。

奈良市今市町・小念仏講、奈良市南田原町・公民館、大和郡山市杉町・会所、大和郡山市井戸野町・常福寺、大和郡山市石川町・観音講、大和郡山市南郡山町・仲仙寺、大和郡山市額田部南町・K家、桜井市小夫・秀円寺(旧念仏衆)、宇陀市榛原戒場・戒長寺、宇陀市榛原篠楽・上垣内薬師堂、宇陀市榛原萩原小鹿野・地蔵寺、平群町福貴畑・S家にもあった「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦であるが、いずれも年代は見られない。

白土町の鉦を基準にするのも難しいが、風合いなどを拝見した状態から判断して、同年代であろう。

鉦とともに下った次の家の前で数珠繰りが始まった。



一軒、一軒と下っては数珠を繰る。

その度にカーン、カーン、カーン・・・・の音色が街道筋に聞こえてくる。

杖をついてやってきた下の組の婦人も合流する数珠繰り。

みなの笑顔が広がっていた。

7月24日に取材した車谷垣内の地蔵盆。

会食を摂った会所にモノクロ写真を掲示していた。



時代はいつのころかわからないが、当時の数珠繰りの様相である。

掲示写真はカラー写真撮りもあった。



髪型、服装から同時代の写真ではなさそうだ。

モノクロ判は19人。

カラー判は25人の人たちで数珠を繰っていた。

9割方がご婦人たち。

その場に子どもは数人。

大人の男性は1人だった。

いずれにしても貴重な写真である。

車谷垣内の戸数は40戸。

この時点でまだ半分も満たない。

一軒、一軒と下って家の前にくれば数珠を繰る。



輪の広がりは数珠の長さもあるから限定される。

およそ20人を超えたあたりから窮屈さを感じるようになる。

大人の背丈で数珠を繰るから子供にとっては背伸びするしかない。

それでも届かないから繰る腕は上方にある。

地蔵盆のときも家族総出で加わっていたが、数珠を繰る人数は制限されるから脇で拝見するしかない。

建て直した家もあるし、昔の風情をみせる旧家もある車谷垣内の佇まいに見惚れることなく数珠を繰る。



この地で生活をされている村の人たち。

普段の服装でしている姿が美しく見える。



街道の勾配はどれぐらいだろうか。

少し歩いては立ち止まって数珠を繰る。

さらに下って地蔵尊・庚申石仏がある処まできた。



杖をついて数珠を繰る婦人はもう一方の手で繰っているが、まったく苦になっていないようだ。

とにかく皆が愉しんでしているように思えた数珠繰りはおよそ40人に膨れ上がった。

疲れたら交替してもらう。

大人数であるからこそ交替してもらえる数珠繰り。



40戸の家前でそれぞれ繰る回数は2回。

終えたときには80回になる計算だ。

さらに下って三叉路に着く。



その角で子どもさんも混じって数珠を繰る。

三叉路の北筋に行けば穴師に巻野向に繋がる本道になる。

車谷垣内の東の端の小字は古屋敷・屋敷。

上流の笠の地に繋がる旧街道を下れば、小字平田、カハラケ、白、白原草、大手、平田、車谷、青谷、西脇、平山、北垣、三分、観音田、桶水、大報田、畦クラ、赤井、観音講田などだ。

小字三分が三叉路。

南の里道は観音田、大報田、赤井に繋がる。

三叉路下ともなればそれこそ旧道。

いわゆる村の里道である。



纒向川に沿って下った集落。

ここもまた一軒、一軒に立ち止まって数珠を繰る。

下れば下るほど視界が広がる。

半分の戸数は済んだように思えるが、先はまだまだである。



ここら辺りの景観、佇まいがとても気に入った。

天候が良ろしければもっといいと思うが・・。

この日はお盆。

照りはなくとも暑さは厳しい。

婦人たちは汗を拭いつつも数珠を繰る。

輪から離れた人もタオルで汗を拭い、団扇で煽いでいた。

三叉路での数珠繰りを済ました人。

およそ1/3の人たちは解散して家に戻っていった。

たぶんに上の組の人たちだろう。

下の組の人たちは「送ったってんのに、帰らはったようです」と云っていたから違いないだろう。

それでも大方20人以上も居る。



里道になれば道幅が狭くなる。

数は少ないが車の往来もある。

その都度に数珠繰りを止めて道端に寄り添って退避していた。

鉦の音はカーン、カーン、カーン・・・・。

ときおりツクツクボウシの鳴く音も聞こえる。

お盆辺りから泣き始めるツクツクボウシの声を耳にする度に、大阪・南河内郡の母屋で夏休みを過ごした子どものころを思い出す。



背景に笠山が見える地まで下ってきた。

道歩きのときも鉦を打つ。



すくすく育った稲田が広がる田園地の景観にほっこりする。

数珠繰りの回数は1軒辺りに2回であるが、不幸ごとがあった家の場合は3回になるという。

40年以上も前に車谷垣内に嫁入りした婦人。

そのときからずっと参加して繰っているという。

解散した念仏講の営みは、昔も今も村全戸の行事として継承してきた。

戸数が40戸の車谷垣内。かつてはもっともっと、子どもが大勢居たと話していた。

ところで数珠繰りの回数はどうやって数えているのだろうか。

一般的に座して行う数珠繰り。

数取りの道具はさまざまである。

木札、算盤のような珠。

葉っぱ、マッチ棒などなど実に多彩であるが、立ったままでされる車谷垣内では繰る房の回数を数えているという。

頭を下げるのが2回。

単純な数取りであった。

さらに纒向川沿いの道を下っていく。

道幅はさらに狭くなる。



ここも三叉路であるが、西方の葛城山系の北。

二上山の重なりが見えてきたが、距離は見えるほど近くない。

ずっと下って出合辺りにある橋近くに建つ家も数珠を繰る。

その一軒に懐かしい一品、ならぬ三品を収納していた。



形、機能から見て暖房用具のアンカである。

明治、大正から昭和の時代までを系譜するアンカは瓦土製。

内部に土製の火入れを置いて布団で覆う。

燃料は炭団とか木炭。

子どものころの我が家でも使っていたアンカ。

現在の観念では危険極まりないが・・。

この形式、アンカではなく置炬燵を格子状の木枠で囲む櫓炬燵の部類ではないだろうか。



広い道に出たその場でも数珠を繰る。

いよいよあと数軒になった車谷垣内の数珠繰り。

今年は曇り空で良かったと口にでる。

昨年はカンカン照りに夕立も発生したから難義したというが、今日もまた額から流れ落ちる汗の量はかわらない。

さて、一番西の端になるお家の前の数珠繰りである。



最後にした数珠繰り回数は3回。

これで村から悪霊を追い出したという。

そういえば、今月2日に立ち寄った際に話してくれた中垣内のK婦人。

車谷垣内の人たちは数珠繰りするときには玄関の扉を開けて悪霊を家から払いだしていると云っていたのを思い出した。

各家におった悪霊は数珠にのって垣内外れの西に追い出した、という、つまりは悪霊祓いの数珠送り行為であった。

東の端から西の端までずっとしていた婦人は汗だく。

住む上の組の家に戻るのもまた汗が出る。



戻って双子の孫さんを抱っこする娘さんとともに地蔵さん、庚申さん、大神宮さんに手を合わせていた。

悪霊を追い出して、村中安全、家内安全に感謝して村の守り神に拝んでいたのだろう。

この区間を移動した万歩計は4472歩。

距離に換算してきれば2.9kmだった。

(H29. 8.14 EOS40D撮影)

野道に咲くキツネノカミソリ

2018年10月14日 09時47分21秒 | 自然観察会(番外編)
桜井市箸中の車谷垣内の集落を抜ける。

ふと視線を下ろした野道に朱色の花が咲いていた。

ヒガンバナ科の花はキツネノカミソリ。

ともに垣内の上流までやってきた村の女性がいうにはキツネノカミソリは違う場所に生えているという。

その女性がいうキツネノカミソリの呼び名は「ケンケンバナ」。

「ケンケン」さんはキツネさん。

「コンコン」さんの名で呼ぶ地域もある。



女性がいうキツネノカミソリはこれでなく、会所の西側に咲く。

咲く時期は秋だというから、一度は見ておかないといけないだろう。

私がかつて拝見したキツネノカミソリがある。

咲いていた場所は奈良市菩提山町である。

正暦寺下に拡がる田畑の隅っこ。

それも山影に近いところの畦道付近に咲いていた。

撮った日は平成14年の8月11日だった。



菩提山町のキツネノカミソリはその名の通りに刃が細くてまるで剃刀のように見える花びらだった。

春に蕾をつけるキツネノカミソリ。

やがて夏草が茂るころにはキツネノカミソリの葉はすべてを落として花茎がひょいと伸びた状態に花を拡げる。

なんと愛らしいことか。

(H29. 8.14 EOS40D撮影)
(H14. 8.11 EOSKISSⅢ撮影)

危険表示の踏切遮断

2018年10月13日 09時12分11秒 | いどう
高樋町のお盆の在り方を取材してきた帰り道。

午後7時過ぎともなれば辺りはもう暗い。

車のヘッドライトは自動的には点灯しない。

昔、自転車のヘッドライトに暗くなったら自動的に点灯する機能をもった商品を発売されたときは驚いたものだった。

商品名が「テントウムシ」だったような気がするが・・。

私が乗る車は軽の箱バン。

もちろん手動で点灯させる。

ヘッドライトは昼間も点灯させる車がある。

都市交通だけだと思うが、その一つに路線バスがある。

荷物を運搬する会社もしていたし、便配達の単車もそうだった。

いつしか法令化されてバイクは必須の義務化になった昼間点灯。

最近、目にすることが少なくなったような気がする。

(H29. 8.13 EOS40D撮影)

高樋町・E家の先祖さん迎え

2018年10月12日 09時10分09秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
夕方になる前に着いておきたい地域がある。

旧五ケ谷村もしていると教えてもらったオショウライサン迎えである。

そのことを話してくださったのは奈良市興隆寺町に住むIさんだった。

藁の松明を門口に立てて火を点ける。

そして、家にある小鉦を打ちながら先祖さんを迎える。

夕刻と云っても時間幅は広い。

鉦の音色が聞こえてくれば間違いなくされている。

待っておれば巡り合うかも、と思ってバス停近くで待機していたが、気持ちが少しずつ萎えてきた。

確定的にされているお家がどこであるのか、それがわからずに待っていたら気が重たくなるのは当然であろう。

エンジンを始動して場を離れた。

下った旧五ケ谷村の旧道沿いにある高樋町の民家はどうなんだろうか、と思って神社下の駐車場に停めた。

ここでも鉦の音を待っていたが、あてのない状況待ちに時間ばかりが過ぎていく。

ここもまた待ちきれずに諦めて場を離れた。

駐車場から十数メートル。

開放していた車の窓。

鉦の音があればわかるようにしていた。

急な坂道を下っていった十数メートル。

車窓の向こうに人だかりが見えた。

その姿は、まさに先祖さんを迎えている状況である。

車は道端に緊急停車。

大急ぎで駆け付ける迎えの場。

ご家族に急なお願いをして撮らせてもらう。

息子さんと思われる人は燃やした藁火から線香に移していた。

その横では孫の女児が小鉦を撞木(しゅもく)で打っていた。

線香に火を移し終えたら、自宅に戻る。

先祖さんを迎えた線香の火が消えないようにそろりそろりと歩く。

さらに、お願いする当家の在り方取材も受けてくださった。

取材主旨を伝えて上がらせてもらう。

慌てていたからストロボは持ち合わせていない。

部屋中はやや暗い。息子さんは仏壇にあるローソクに火を移した。

小鉦はいつのまにか消えていた。

どうやら屋内に入る手前、玄関口までだったようだ。

先祖さんを迎えた線香は線香立てに。



手を合わせて拝んでいた。

仏壇のお供えはお盆のハクセンコウ。

一つは蓮を象った形である。

御供下に広げた大きな葉っぱは蓮の葉。

その周りにいっぱい並べている何かがある。

撮影時は気がつかなかったが、帰宅してから画像を拡大してみればヘタのある青柿だった。

長めの細い節のある植物は何だろうか。

それぞれが2本繋がりの形。

今まで見たことのない青物である。

輪切りした若干数の茄子もある。

短く切ったアサガラは2本ずつ。

先祖さんが食べるアサガラの箸とともに、小さめの蓮に盛っていた。

奥さんに話しによればかつては蓮の葉でなく、カボチャの葉を使用していたそうだ。

今は、スーパーで売っている蓮を買ってきて供えているという。

奥さんは陽のあたる廊下に移動した。



そこにあったのは大きな深鉢に盛った御供さん。

これは「ガキ(餓鬼)」さんのお供えだという。

仏壇と同じように花を立てて御供を盛る。

大きな蓮は皿代わり。

ヘタのある青柿にササゲ豆。

仏壇にあった節目のある植物は二股形のササゲ豆であった。

輪切りのキュウリも盛っていた御供に青りんごも。

ちなみに青柿はミズガキと呼ぶそうだ。

いずれも家で栽培している植物である。

七ツの穴を開けた輪切りの茄子は線香立て。

こうする方が安全性を保てるという。

線香を立てたらローソクにも火を点ける。

そして、ガキサンにお茶を入れた一杯を添える。



初盆(にいぼん或いははつぼん)の家では廊下に「アラタナ(新棚)」を建てる。

丸い形のアラタナに四角く杉の木の葉を被せるのが高樋町の習わし。

その習わし話しに教えてくださった生駒の習俗も。

生駒のどの地域か存じないが、ある村落ではアラタナを祭る家に村の人たちが参りにくるという。

その参拝の在り方に水に浸けた葉っぱで清めるという。

参拝者は身体を清めてから屋内にあがるのがしきたりである。

ちなみに水に葉を浸けて供養するのは一般的に水供養という作法である。

先祖さんをお迎えする時間帯は午後5時半ころ。

送りの15日は午後6時。

少しでも遅くまで家に居てもらいた送りの時間帯である。

話しをしてくれたのは旦那さんのEさん。

なんと氏神さんの行事に何度も世話になったMさんだった。

急な取材にお礼を述べて屋外に出たその向こうに、今まさに火を点けて燃やした藁火から線香に移していた二人がおられた。



こちらの二人にも急なお願いをして撮らせてもらった。

男性は昭和8年生まれのMさんは旧五ケ谷元自治連合会長。

その姿、矍鑠(かくしゃく)とされているMさんは娘さんと思われる女性とともに先祖さんを迎えていた。

当家もまた同じように小鉦を打っていたようだ。

E家もそうだが、家を出た辻で先祖さんを迎えていた。

線香は先祖さんなので家に連れていくが、燃やした藁火は火が消えたのを確認してから、捨てるというMさん。

先祖迎えの日は朝早ようにお寺さんが参ってくれたと話していた。



2軒の先祖迎えを取材して再び立ち寄った興隆寺町。

高台の方から鉦を打つ音が聞こえてきた。どこでされているのか、場だけでも知りたいと思って急な坂道を昇ったら見つかったが、遠慮して村を離れた。

高樋町では午後5時半ころ。

興隆寺町は6時ころにされていることがわかった。

当地へ来るまでに帯解街道にも先祖迎え。

山町の先祖迎えは線香を手にした婦人が東から西に向かって歩いていた。

そのときの時間帯は午後5時15分。

地域によって、或いは個々のお家の考えで時間はさまざまのようだ。

高樋町から帰路に選んだ集落道は天理市中之庄町。

鉦の音でも聞こえてきたら、と思って走らせたら通り過ぎた。

そのままずっと下れば森本町になる。

時間帯は午後6時半になっていた。

そこで遭遇した2人の老婦人。

車を停めて話しを聞けば、手にしている線香。

もう一つはホームレスと云ったのが印象的だったこれらの様相も記録と思って付記しておく。

(H29. 8.13 EOS40D撮影)