マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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生まれも育ちも―1―

2018年10月22日 10時10分16秒 | 望郷
「シリーズ望郷」は心臓病で倒れる以前から考えていた、遺しておきたい生まれ育った昭和30年前後を映し出すモノクロ写真である。

住宅地にやってきたカメラマンが撮った写真。

カメラマンの提示する代金を支払って買った写真は、当時に暮らしていた当時の地域文化がわかる記録でもある。

実家に残っていた写真を選別しておふくろが持ってきてくれた。

その写真を眺めていたら、当時の様相をありありと思いだす。

思い出した記憶を文字にして残しておきたい。

そう思っていたが、なかなか踏ん切りがつかなかった。

記憶を文字化したとしても、公開する機会があるのか、ないのか。

その時期は突然にやってきた。

手術して退院する。

それがきっかけだった。

当時の私は中学生。

何年生であるのかすらわからない映像はここら辺りに出没してはモノクロ写真を撮っていた男性の写真である。

撮影者はまったくわからないが、撮った写真でお金を貰っていたようだ。

私が撮った写真は村の人に記録のお礼にさしあげる。

その際にこういう人が稀におられる。

言葉は「いくら払ったらいいのでしょうか」である。

年配であればあるほど、その言葉を口にする人は少なくもない。

そのことに遭遇する度に、50年ほど前にあった写真家たちの行動を思い起こすのである。

著作権のこともあるが、もし、その人が今でも生きておれば、のことだ。

子どものころの記憶を辿れば、若くはなかった。

それ相応の年齢だった。

40歳を越えていたような風体だった。

そうとすれば90歳である。

著作権は死後50年までが原則であるが、撮った人を断定することは現実的に不可能である。

それよりも写真を買わされたことの方が問題であるが、当時の生活文化の記録写真は、暮らしそのものが私の生きてきた「民俗」だと判断して記憶を辿りながらの文字起こし。

一枚の写真で何を語るか・・・で、ある。

始めの一枚はこれである。

昭和20年、終戦直前まで数回に亘って大阪大空襲があった。

祖母が住んでいた呉服屋は東区(現中央区)瓦町にあった。

落とされた焼夷弾で焼け野原。

住まいも焼けた。

史料によればたぶんに6月1日午前中の空襲であろう。

焼け出された住民は戦後復興した市営住宅に住むようになったと聞いている。

昭和26年、私が生まれ育った家はバラック小屋(みんなそう言ってた)とも思える木造住宅だった。

いつ建てられ入居した経緯は聞いていないがバラック小屋は大和川堤防下にあった住吉区(現住之江区)市営大和川住宅。

軒数は多かった。

この写真は昭和何年であるのか判っていない。

手前の家ではご飯釜を外に出して雑木に火を点けて炊いていた。

その向こう側左手にあるのが我が家だ。

自宅に槇で焚く風呂があった。

エントツでよく判る。

割烹着を着た婦人は井戸端会議。

おふくろもおれば着物姿の祖母もいる。

4人とも下駄を履いている。

右手に数人の子供がいる。

小学生や幼稚園の子の中に私がいるのか不明だ。

玄関口でベッタンをしているのかも知れない。

(H27. 9. 5 SCAN/記)