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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

フレール・ド・シャンソニエレストラン堺店

2013年08月10日 08時30分42秒 | 食事が主な周辺をお散歩
昭和元年生まれにしといてやというおふくろの正しい誕生年は大正十五年の寅歳。

この月には88歳の米寿を迎えた。

祝いに何をしてあげようかと訪ねてみれば「トイレットペーパーとテイッシュペーパーで良い」と云う。

「なんでやねん」と大阪つっこみをしたくなる祝い希望の品物だ。

おふくろが希望する品物がそれになったのは理由がある。

おふくろは末っ子。

兄姉たちは喜んでもらえる米寿の祝いであったが、しばらくすれば病いや死去に至った。

そんな祝いはしてほしくないと云うのだ。

ひっそりつつましくして米寿を迎えたいというたっての希望が選んだ品物が2種のペーパーになった。

なんでペーパーなのかと訪ねた結果。

買い物に行ってペーパー類を買えば大型で重たいと申すのである。

確かにそうだと思う。

祝いの品物を途中で買って向かった先は一人住まいの大阪住之江。

昨年と同様に祝いの食事ばかりは豪勢にと好評だったフレール・ド・シャンソニエレストラン堺店を予約しておいた。

前回は始めての店だっただけに彷徨った堺の地。

帰り道に覚えた行程ははっきりと認識している。

住之江から大和川を越えるとそこが堺市。

川の汚れがワースト1の定位置になってしまった大和川であるが、子供の頃は楽しい遊び場だった。

流れに溜まった砂場では三角野球をしていた。

ボールが三角ではなくベースが三角。

二塁ベースがないのだ。

流れが奇麗だったことは川で泳いだこともある。

畳を数枚重ねて筏遊びをしたこともある。

砂地にはシジミもたくさん採れた。

イナが飛び跳ね、うなぎの稚魚が川を遡っていくぐらいの奇麗な川だった。

郷愁の大和川はときおり夢に出てくる。

大和川を越えて車を走らせる国道は旧26号線。

堺に入って南に行けば、鉄砲町、三宝町、戎島、大浜、出島とくる。

出島は昭和43年(1968)に廃線になった大阪市電の終着駅。

懐かしい路線は北上すれば住之江公園から加賀屋、津守を経て芦原橋に到着する。

高校を卒業するころまでは運行していた大阪市電。

ガタゴトガタゴト走っていた。

大和川大橋より東方のあびこ電車は今でも現役だ。

あびこ電車は地元民の通称で正式名は阪堺電気軌道。

一般的には阪堺電車と呼んでいた路面電車である。

我孫子道駅から乗って堺浜寺公園駅。

当時あった浜寺公園プールで遊んだものである。

帰りに買っていたコロッケの味はとても美味かった。

路面電車で懐かしい出島からは東へ一直線。

泉北へ向かう道路をまっしぐら。

およそ20分の行程は深井手前の北条交差点からすぐだ。

行先の目印は阪和第二泉北病院。

すぐ近くにある「フレール・ド・シャンソニエレストラン堺店」は駐車場がほぼ満車。



ナンバープレートを見れば和泉、堺ナンバーが多いのは当然だが神戸、奈良ナンバーもある。

この日も大勢のお客さんが来ている人気のお店だ。

案内された予約席のテーブルにつく。



注文していたのは前回同様に3500円のプティコース。

誕生祝いに奮発したコースである。

お品書きにはセレクトがそれぞれある。

オードブルより1品にメイン料理も1品を選ぶ。

オードブルの一つは「カナダ産活オマール海老とホタテ貝のセルクル」だ。

それには野菜のマリネ、レモン風味、トルコ麺添えと七面鳥と鴨のパテ、メダイヨン仕立てと書いてある。

もう一品は「鹿児島産かつを炙り(たたき風)とホタルイカのサラダ」だ。

それには焼きナス添えと豚足ラグーと鴨のコンフィー、チーズのせグラニテとある。

どちらを選ぶかお好み次第。

私は1番を選び、かーさんは2番。

ところがおふくろは選べない。

豚、鴨、七面鳥が受け付けないのだ。

店員さんに選択の入れ替えができるのかどうか要望してみた。

結果は叶えてくださったありがたいフレール・ド・シャンソニエレストランの特別計らいで、豚足ラグーと鴨のコンフィーの代わりにカナダ産活オマール海老とホタテ貝のセルクルにしてくださった。



最初に配膳されたのは本日の野菜のクリームスープはオヤイモ。

そう、親の芋なのである。

ちょっと気になった最初のスープ。

味ではなく順番である。

昨年はオードブルの次だったのだ。

一年前と違っていた配膳の順。

ふと気がついた。

前回は前菜があったのでは・・・。

「豚バラのリエット プティ シュー詰め」を食べたことを思い出したが、ないのである。

今回は登場しなかったプティコースの味。

見かけは美しく盛られているが、味の記憶が残っていない。

覚えているのはズッキーニが酸っぱかったことだけだ。

ピクルス漬けなのか。



面白いトルコ麺の盛りつけには驚いたが味がない。

パリパリサクサク感を味わう料理なのであろう。

オマール海老やホタテ貝は食感で判るが・・・。

かーさんはパンを選んだがおふくろと私はごはんにした。

食べやすいようにと箸をくださった。

箸で食べるには椀のほうがと思ったが、お店は洋食。

そればかりは避けたい。

次に配膳されたのはメイン料理。

これも選択制である。

一つは「舌ヒラメとヤングコーンのガレットとゆず風味のホタテソース」。

もう一つは「仔羊のロースト ポアレクリームソースヴァンルージュ」だ。

選ぶのはまだある。

「鴨の胸肉のロースト ソースギガラード」だ。

もう一つある。

「国産牛のロースステーキ ソースマディラ」だ。



三人が一致して選んだのは「国産牛のロースステーキ」。

前回好評だった美味しいロースステーキ。

美味いにつきる。

プラス料金で国産牛フィレ肉のステーキ80gの選択もあるが、それはしない。

ロースが断然に美味いのである。

おふくろが一味にと希望した食塩。

これもお店の計らいで岩塩を用意してくださった。

胡椒を挽くような容器を持ってきた。

こういう点はさすがに得点が高いお店だが、オードブルの味が点数を下げる。



食事を済ませばコーヒー。

アイスを頼んだがどこをどう間違ったのかホットであった。

何人もの店員さんが謝りに来られた。

エスプリデザートもついているプティコース。

デザートが美味しかったことを舌が覚えている。



私が選んだのは「ティラミスシャンソニエ風」。



かーさんは、「とよのかいちごのミルフィール」だ。

おふくろはまたまた頼んだ特別デザート。



「シャーベットメロンのフルーツ盛り」だ。

私たちの気まぐれな要望を叶えてくれるお店はありがたいが、もう飽きた。

(H25. 4.28 SB932SH撮影)

矢田垣内の苗代飾り

2013年08月09日 08時38分29秒 | 大和郡山市へ
今月の24日に見かけた矢田垣内の苗代。

27日ころだと思っていた苗代作りはすでに始まっていたのである。

そこにはお札がある。

垣内は矢田坐久志玉比古神社の宮座の一つ。

もしかと思って出かけたこの日。

田んぼ回りに生えている雑草を刈り取っていたご主人がおられた。

お話を伺えば20日にしたと云う。

朝は7時半。屋内で機械回しのモミオトシをした。

土を被せて苗箱を準備すれば直ちに苗代場に運ぶ。

家のすぐ下なので軽トラで運ぶことはない。

すべてを終えれば水口辺りに花を添えてお札を立てる。

お札は雨に濡れても良いようにビニールカバーをつけている。

外観からは見えないお札の文字は何であろう。

お札を受け取ったのは奥さん。

直接は見ていなかったから判らないが、受け取った状況から矢田山金剛山寺のようである。

昨年は北僧坊で、今年は南僧坊のご住職が配っていたようだと話す。

矢田山金剛山寺は通称矢田寺。

正月初めに修正会を営まれる。

正月2日は牛王加持(ごおうかじ)。

牛のひづめの形をしたご朱印を押したお札が祭壇に供えられる。

導師が祈祷されるお札だ。

祈祷されたお札はお寺に関係する村人に届けられる。

届けるのは毎年交替される四つの僧坊。

念仏院、大門坊、北僧坊、南僧坊からなる矢田寺はその年の代表僧坊が替ることから配る坊も毎年入れ替るのである。

何年か前にも拝見した矢田寺のお札は垣内だけでなく寺村にもあったことを思い出した。

隣家のM家や隣垣内のN家、A家も20日に行っていたと話すご主人に尋ねた家の鯉幟。

息子さんが生まれたときに揚げた鯉幟の支柱は木材だった。

初年目のときは葉をつけたまま揚げた。

2年目は葉を落として風車に取り替えた。

長さはおよそ13mの木は杉だったようだ。

奥さんの出里の平群町に生えていた大木を伐って持ちこんだ。

長い支柱は大型トラックからはみ出す。

布切れを括りつけて運んだ。

支柱はロープを結わえて数人がかりで立てたと云う。

木の支柱と鯉幟は奥さんの出里の祝いであると話す。

(H25. 4.27 EOS40D撮影)

トライアルののり弁当

2013年08月08日 06時54分42秒 | あれこれテイクアウト
開店当初は奈良テレビでも紹介された大和小泉店のトライアルスーパー

3月20日に開店した。

オープンキャンペーンを待つ買い物客で長い行列になったトライアルスーパー。

その日はずっとそんな感じであった。

その様子は数日間も続いていた。

しばらくすれば落ち着くであろうと思ってやってきた一カ月後。

行列は消えていた。

午後1時の買い物はスムーズな流れで店内をゆっくり廻る。

トライアルは既にメンバーズポイントカードを持っているが、かーさんの財布の中。

奈良宝来店で作ったカードは持ち合わせでない。

その場合はレジでその旨伝える。

店員さんが押してくれる承認の押印。

これがあれば10日後までに来店すればポイントしてくれる。

そう思って手にした弁当は250円ののり弁当。

トライアルには250円で販売している弁当が多くある。

どれを選ぶか迷うほどである。

この日に選んだのはシンプルなのり弁当。

ごはんに大きな海苔が二枚載せてある。

その上にはどっかり姿のチクワの天ぷら。

定番の白身の魚フライもある。

トライアルの特徴はこれにカラアゲが1個ついている。

赤いソーセージに卵焼き。

ゴマダレ和えのキンピラゴボウにポテトサラダ。

こうこの香の物もある。

これで250円は実にリーズナブルの激安商品。

ごはんはまだ温かい。

お店で作っているようだ。

味はいずれも文句なしに美味しい。

298円、398円の弁当もあるがこれがいちばん。

ごはんが美味し「ほっかほっか亭」ののり弁当は花かつをに特製だし醤油ごはん。

これには負けるがトライアルののり弁当もそこそこのお米。

中には昆布も入っている。

(H25. 4.27 SB932SH撮影)

第24回天理考古学・民俗学談話会聴講

2013年08月07日 07時17分15秒 | 民俗を聴く
前回に聴講させていただいた天理考古学・民俗学談話会。

今回も楽しみにしていたプログラムに「誕生における絵馬奉納習俗」がある。

県内各地の神社行事をしてきた私にとっては奉納された絵馬にも興味がある。

絵馬は地域の在り方にも繋がる習俗。

今でも奉納される地域は多いが廃れた処もある。

大きな絵馬もあれば小さな絵馬も。

どのような発表をするのか興味津津である。

談話会は一般の人も聴講できるところがありがたい。

受付で資料代の500円を支払って入室する場は天理大学9号棟の「天理ふるさと会館」。

前回は随分と迷ってしまって到着する時間は開始時刻をとうに過ぎていた。

今回は送れないようにと思って早めに出かけた。

たっぷりある朝の時間帯は苗代探し。

すでに始まっている地域もある。

気になっていた奈良市窪之庄や天理市豊井町の田んぼはどのような状況であるのか、である。

2か所とも荒起こしをしているものの、作業は見られない。

少し早かったようだ。

他所も探してみたいが、ゆっくりとする時間はない。

諦めて会場を目指す。

講内に林立する銀杏の葉が大きく広がっている。

傍らに咲く白い花。藤の木であろう。

受付を済ませた会場の一角にあった展示物品に目がいった。

「越敷山(こしきさん)古墳群の発掘調査」で出土した供献土器の一部を持ってこられた特別展示品。

土師器の杯や高杯に須恵器の壺などである。

越敷山古墳群は鳥取県西伯郡伯耆町。

遠景に伯耆大山がそびえるそうだ。

米子市南部に隣接する町で、120基あまりの小規模円墳が越敷山北麓だそうだ。

土師器とともに須恵器が出土する事例は西伯耆の青木編年と陰田編年の隙間を埋める貴重な資料になるらしい。

現物を拝見する機会を設けて意見を聞きたいと持参されたのは米子市文化財団の主任調査員の佐伯純也氏。

ほぼ完全な土器は祭祀に用いられたものと推定される。

一つは一本、一本の斜めの筋を周囲に刻まれた土器。

間隔は4mmだと見えた条痕。

もう一つの土器の文様は「~」の波線だ。

一つの箇所に「~」の5本波線である。

それが上部周囲に亘って描かれている。

描いた道具は何であろうか。

閃いたのは先を割った竹ヘラ。

細く割いた竹ヘラの先を尖がらしていたのであろう。

展示は他にもある。土器の破片だ。

その一部に光沢がある緑色。

釉薬をかけたのであろう。

この時代には珍しいと話される。

こうした展示物を拝見して始まった第24回天理考古学・民俗学談話会。

天理大学の考古学・民俗学教員や卒業生が最新の研究成果や卒業論文を発表されるテーマは11。

午前午後の部に分けて報告される。

時間的な都合があったこの日の聴講は午前の部だけにした。

トップバッターは2012年卒業生の浅井裕登氏による「誕生における絵馬奉納習俗—奈良県の事例を中心に—」である。

ご本人が誕生したときに上牧町の稲荷神社に奉納された誕生絵馬に興味をもつ。

母親が出里の明日香では誕生絵馬はなかったことに疑問を抱いて県内各地の習俗事例を研究された。

報告に驚いたのは調査された数量である。

上牧町、王寺町、広陵町、河合町、川西町、三宅町、田原本町、安堵町、三郷町、平群町、斑鳩町、香芝市、大和高田市、橿原市、旧新庄町、旧當麻町、天理市、高取町、明日香村、桜井市、大和郡山市、御所市、旧大宇陀町、旧菟田野町、大淀町の412社である。

調査期間が2011年10月から2012年12月までの14カ月間の420日間。

単純計算するだけでも一日、一社を調査していたことになる。

これはすごいことである。

所在を確かめつつ地元住民の聞き取り調査もされた。

おそらくは毎日の出動ではなく、一日に数カ所を調査してきたと思われるのだが・・・。

私自身も神社のみならずお寺や地域を調査してきたが無理である。

時間的な制約もあることから車か単車移動でなければできない。

電車、バス利用の歩きでは到底間に合わない。

神社に到着しても、関係する村人すら遭遇することもままならない旧村の神社調査。

絵馬が掲げられている場といえば特別の絵馬殿に拝殿、参籠所内である。

セキュリティの関係上、扉が閉めてあって入ることさえできない神社は多々ある。

その場合は神社関係者に鍵を開けてもらわなければならない。

相当な苦労があったかと思える多量の神社調査に驚いたのである。

報告者の報告によれば絵馬の確認は目視。

写真は撮らなかったのだろうか。

一枚、一枚の絵馬を現場で見るだけでは気がつかないこともある。

細かな点はそのときには気つきに漏れがある。

私の場合は承諾を得て写真を撮らせていただいている。

枚数が多い場合は撮影に時間がかかるし、帰宅してからの画像確認も時間を要する。

報告の分析結果は勝愛するが、それだけの時間を確保することも難しい調査をされたことに感服するのである。

2番目は太田千波留氏の「共鳴するモノと記憶—中国広東省広州市における毛沢東紀念品の事例から—」。

3番目は安井眞奈美氏の「太平洋芸術祭への若者の参加—第11回ソロモン諸島大会より—」。

4番目が栗山雅夫氏の「考古学・民俗学における写真のデジタル化」であった。

文化財、考古学、民俗学の写真撮影における条件や、近年目覚ましいデジタル画像と銀塩写真の相違点、撮り方などを発表されたが今後はどう対応すべきか、期待に欠ける報告であった。

文化財の記録は直面する課題は時代の流れ。物質的金銭面である目論見は当然であろう。

予算がないということを伝えたかったのだろうか。

被写体撮影もさることながらデジタル化の最大の課題は保存である。

捉えた被写体の確保は絶対である。

複写若しくはサーバーなどのバックアップ体制の確保である。

バックアップ施設の二重化。

最新の状態に保時するコンピュータシステム運営のいろはである。

一瞬に消滅する電磁的記録の保存こそ重要な課題だと思っているのは私だけなのであろうか。

(H25. 4.27 SB932SH撮影)

我が家の春の花

2013年08月06日 08時30分49秒 | 我が家の花
平成21年4月27日から数えて4年ぶりに花芽をつけたシンピジウム。

手入れはなにもしていないシンピジウムは今回3本もある花芽が伸びる。

蕾をつけてからようやく花弁が開きかけた一輪。

ワインカラーに変わりはない。

もうしばらくすれば全開するであろう。



地植えしていたジエビネも咲きだした。

花芽が伸びてきたジエビネは他にもある。



傍らに植えていたニリンソウも咲いた。

(H25. 4.22 EOS40D撮影)

切幡社日のミトマツリの聞き取り

2013年08月05日 07時46分01秒 | 山添村へ
正月7日に行われた山添村切幡のオコナイ。

極楽寺で行われる仏事行事の正月修正会。

オコナイの世話役は神明神社の宮守神主の二人である。

村の行事は二人の村神主が勤める。

かつてはランジョーの作法(村ではダンジョーと呼ぶ)もあったようだ。

切幡は上出と下出の2垣内。

それぞれの垣内の宮守神主が勤めるオコナイはお札がある。

上出は「極楽寺 牛玉宝印」の書で、下出は「常住院 牛の玉」の文字だ。

それぞれには朱の宝印を押している。

常住院は村に存在しない。

かつてあった証しが「宝印」の書なのである。

オコナイを終えればたばって家に持ち帰る。

そのお札は苗代に挿す。JAから苗を購入するようになってからは苗代を見ることはない。

そのような状況になった切幡では畑に挿す家もあるが、今尚苗代作りを終えてお札を挿す家もある。

今年もそうしているだろうと思って訪れたT家の苗代。

当家では社日のミトマツリと云って、今年は先月の23日に挿したと話す。

当日は立ちよったがなかった。

聞けば昼頃になったと云う。

オコナイの宝印はウルシ木に挟んでいる。

その場には梅の木とツバキも挿した。

前年に聞いた話では手作りの杉苗も挿すと云っていたが見当たらない。

かつては4月3日の桃の節句に松苗を供えていた神明神社の春の祭り。

オンダ祭が廃止されて松苗を見ることがなくなった。

仕方なく自家製の松苗をこしらえて祭るというミトマツリの在り方。

昔はアオマメや煎ったハゼゴメを一升枡に入れて供えたと云う。

桃の節句でたばった杉の木も立てたそうだ。

社日は毎年変動する。

苗代時期に相応しくない場合もある。

この年の苗代のモミオトシは4月5日にされた。

「卯」のつく日はモチを搗いてはならぬ。

タネマキもしないと話す当家では祝いに重箱のご馳走があったと云う。

コーヤドーフ、カマボコ、シイタケなどの煮もの。

タマゴもあるが主な料理はタケノコだったそうだ。

田植え初めはウエゾメ。

そのときにもナリバナのモチを煎って食べたという。

ナリバナは正月のナリバナをしていた。

今から30年も前のことだ。

予めに探しておいたツツジの木。

細い枝は先を3本ほど折る。

正月の搗きたてのモチは柔らかいうちにツツジの木に付ける。

それを床の間の神さんに供えていたそうだ。

(H25. 4.21 EOS40D撮影)

切幡子洗いのお大師さん参り

2013年08月04日 07時38分18秒 | 山添村へ
弘法大師の命日に集う山添村切幡(きりはた)の住民たち。

場所は村外れの「子洗いのお大師さん」だ。

小高い丘の上に建てられた小さな祠がある。

内部に石仏があるようだが暗くて彫りが判読できない。

話によれば「大師」の文字があるという石仏は25年も前はこの場ではなかった。

名阪国道の建築によって移動せざるを得なかったお大師さん。

不動石とともに当地へ寄せたと話すT氏。

平成元年に切幡壮有会の人たちが建之した子洗いのお大師さんの由緒板書がある。

当時は40歳代だったと話すかつての年代の壮有会の人たち。

T氏が云うには「昔、松明を持って雨乞いをしていた。池を奇麗にすれば雨が降ると云われていた。日照りで池を掃除したら雨が降った。それでも降らんかったら雨乞いをした」という池は二代目の柳の木がある。

板書きに「昔、この前を通りがかった婦人が急に産気づいてお大師さんが取りあげた。産湯につかわされたので子洗いのお大師さんと呼ばれる」とある。

板書きには続きがある。

「お大師さんが諸国遍歴のとき、弁当の箸を忘れられ、付近の柳の木で箸を作って、その箸を池の畔り(ほとり)に逆さに挿した。柳の木の箸が根づいた逆さ柳は大木になった。いつしか枯れて、継いだ二代目である。」と語る板書である。

由緒ある子洗いのお大師さん参りは切幡の村行事。

当番の家は二組。

切幡は40戸からなる集落であることから20年に一度の回りの当番は極楽寺の行事もしている。

夏至の日に行われる田の虫送り2月初午のオイナリサンも当番にあたる。

田の虫送りでは太鼓打ちを勤める。

お大師さん参りのときには「南無大師遍照金剛」の幟を立てて参拝者を待つ。



時間ともなればやってきた村人たち。

手にはお花を持っている。

ローソクを灯した小さな祠回りに花を添えて手を合わせる。

線香もくゆらすし、御供もそれぞれで供えるめいめいのお参りを済ませれば幟に囲まれた場に集まる。

当番の人はお供えを下げて場に移す。

ブルーシートに座っての直会である。

子洗いのお大師さんの場辺りには数々の山の花が咲いている。

赤色は椿だ。

白い花も見られる。

どうやらシロバナツツジ(ゴヨウツツジのシロヤシオ・シロバナウンゼンツツジかも)のようだ。

白い花のアセビも咲いている。

ピンク色はヤマツツジ。



花に囲まれた直会の場に出されたのはジャコとセキハン。

当番の人が炊いたセキハンを皿に盛って酒を酌み交わす。

なごやかな直会であるが、この日は冷たい風が吹いていた。

昨夜に降った雨は止んだが冷たい風が吹き抜ける。

ときおり小雨が風に舞う。



あまりにも寒い日となったお大師さんの直会は熱燗があればという声はあったが、耐えきれず早々に解散された。

多量な雨であれば中断ではなく公民館での直会になると云う。

(H25. 4.21 EOS40D撮影)

南六条南方のお大師さん

2013年08月03日 07時37分38秒 | 天理市へ
天理市南六条町南方の観音堂に伝わる民話がある。

『昔、文政年間やったか、ここによく腹痛を起こす女の人がおったんや。女の人は病気が治るように観音さまに祈願しながら、観音堂を建て直そうと男装をして裸足で一戸、一戸、村中を歩き回ってはお布施を求め、米を約三反も貯めたそうや。それを観音さまに寄進して、立派な観音堂ができたんや。女の人は法隆寺にゆかりのあるえらい尼さんやということやが、その尼さんの恩義を知らずに供養せんかったんで、白い蛇になって出てきたんとちがうやろか。その話を聞いた村人は申しわけないことをした。ねんごろに白い蛇を供養しようと、石塔を刻んで供養した』。

その尼さんは旧暦の八月十八日に亡くなられた中宮寺の林慶法尼でないかと云われている。

南方の観音堂は杵築神社境内にある。

その隣は南六条南方の公民館。

館外にあった墓石に「霊山林慶法尼位」の名がある。

建之は文政七年申(1824)八月十八日入滅」である。

民話に書かれてあった白い蛇を供養したとされる石塔は、尼さんの入滅墓石塔であった。

この日はその観音堂で行われる長寿会婦人たちによるお大師さんの営み。

当番の人は御膳を弘法大師像の前に供える。

御膳の椀は昔から決まっている献立。とはいってもすべてが生御膳。



シイタケ、コンブ、コーヤドーフ、カンピョウ、フの椀にサヤエンドウ、フキの椀。赤いマメの椀やアズキとオコメを盛った椀もある。

ミツバ、トロロコンブの椀に珍しい茶葉の椀も見られた御膳は朱塗りの椀に盛った。

お供えは巻き寿司だ。弘法大師の掛軸を掲げて参拝者を待つ。

その場に来られた参拝者は「同行二人(どうぎょうににん) 南無大師遍照金剛」の白衣を身につけている。



昭和2年生まれの86歳のMさんは50年前の42歳のときに四国八十八カ所を巡る遍路参りをしてきた。

そのときの白衣である。

大安寺のご縁をいただいて、自宅から歩いて45日間で巡ったと云う。

大安寺のお世話でバスに乗って接待を受けたお寺は唯一一か所だけ。

八十七か所は歩きの遍路であったと話す。

そのおかげで長年苦しんだ病いを克服したありがたい遍路の一人旅。

「同行二人」はお大師さんとともに歩む「行」である。

お大師さんが宿るとされる金剛杖は介助でなく、ありがたい先達(せんだち)。

宿に着けば床の間に揚げたと話す。

当時の遍路は参拝者も多くなかった。

歩く姿を市の観光ポスターに使いたいと写真を撮らせてほしいと願われたことがあった。

掲示されたかどうかは確認していない。

遍路旅の途中、ところどころで手紙を書いて自宅に郵送し現況を伝えたそうだ。

南方のお大師さんは観音堂での営み。

毎月の観音さんの月参りと同じ場である。

月参りは十一面観世音菩薩立像に向かって念仏を唱えていたが、この日はお大師さん。

右端に安置された弘法大師像に向かってのお念仏だ。

狭いお堂は婦人たちでいっぱいになる。

観音さんと同様にお花を飾ってローソクを灯す。

この日の当番にあたる人が導師となって念仏を唱える。



香偈、礼文、三礼、懺悔・・・・。

一節ずつ鉦を叩く導師。「願わくば・・・云々なにがし・・・」と唱えて南無阿弥陀仏に手を合わせる。

南六条は北方、南方とも融通念仏宗派の村であることから唱えたお念仏は融通念仏の勤行である。

引き続いて唱えた念仏は西国三十三番のご詠歌。

きいのくにの一番から通しで唱えるご詠歌は二十三番で休憩。

長丁場のご詠歌はどことも同じ個所で休憩される。

お茶を一服いただいて二十四番から再開する。

導師が叩く鉦とともに打たれるおリン。

一番ごとに2度打つ。

番外のご詠歌、そして三巻の般若心経を唱えて終えたお大師さんの場は公民館に移る。

座敷に予め並べておいた四国八十八カ所のお砂袋。



数が多いだけに座敷いっぱいに広げて巡礼ができるように置いている。

1番・鳴門市の霊山寺、2番・鳴門市の極楽寺、3番・板野町の金泉寺、4番・板野町の大日寺、5番・板野町の地蔵寺、6番・上板町の安楽寺、7番・阿波市の十楽寺、8番・阿波市の熊谷寺、9番・阿波市の法輪寺、10番・阿波市の切幡寺、11番・吉野川市の藤井寺、12番・神山町の焼山寺、13番・徳島市の大日寺、14番・徳島市の常楽寺、15番・徳島市の阿波国分寺、16番・徳島市の観音寺、17番・徳島市の井戸寺、18番・小松島市の恩山寺、19番・小松島市の立江寺、20番・勝浦町の鶴林寺、21番・阿南市の太龍寺、22番・阿南市の平等寺、23番・美波町の薬王寺は徳島県(発心の道場)。

24番・室戸市の東寺(最御崎寺)、25番・室戸市の津寺(津照寺)、26番・室戸市の金剛頂寺、27番・安田町の神峯寺、28番・香南市の大日寺、29番・南国市の土佐国分寺、30番・高知市の善楽寺、31番・高知市の竹林寺、32番・南国市の禅師峰寺、33番・高知市の雪蹊寺、34番・高知市の種間寺、35番・土佐市の清龍寺、36番・土佐市の青龍寺、37番・四万十町の岩本寺、38番・土佐清水市の金剛福寺、39番・宿毛市の延光寺は高知県(修業の道場)。



40番・愛南町の観自在寺、41番・宇和島市の龍光寺、42番・宇和島市の佛木寺、43番・西予市の明石寺、44番・高原町の大寶寺、45番・高原町の岩屋寺、46番・松山市の浄瑠璃寺、47番・松山市の八坂寺、48番・松山市の西林寺、49番・松山市の浄土寺、50番松山市の繁多寺、51番松山市の石手寺、52番松山市の太山寺、53番松山市の圓明寺、54番・今治市の延命寺、55番・今治市の南光坊、56番・今治市の泰山寺、57番・今治市の栄福寺、58番・今治市の仙遊寺、59番・今治市の伊与国分寺、60番・西条市の横峰寺、61番・西条市の香園寺、62番・西条市の宝寿寺、63番・西条市の吉祥寺、64番・西条市の前神寺、65番・四国中央市の三角寺は愛媛県(菩提の道場)。

66番・三好市の雲辺寺、67番・三豊市の小松尾寺(大興寺)、68番・観音寺市の神恵院(琴弾八幡)、69番・観音寺市の観音寺、70番・三豊市の本山寺、71番・三豊市の弥谷寺、72番・善通寺市の曼荼羅寺、73番・善通寺市の出釈迦寺、74番・善通寺市の甲山寺、75番・善通寺市の善通寺、76番・善通寺市の金倉寺、77番・多度津町の道隆寺、78番・宇多津町の郷照寺、79番・坂出市の高照院(天皇寺)、80番・高松市の讃岐国分寺、81番・坂出市の白峯寺、82番・高松市の根香寺、83番・高松市の一の宮寺、84番・高松市の屋島寺、85番・高松市の八栗寺、86番・さぬき市の志度寺、87番・さぬき市の長尾寺、88番・さぬき市の大窪寺は香川県(涅槃の道場)に位置する。

お砂踏みの砂袋の最後は高野山奥ノ院である。

砂袋の中央には大きく蓮の花の図柄をあしらっている。

これらのお砂は前述したMさんが寄進されたもの。



そのとき(昭和44年頃)より始まった遍路のお砂踏みは四国に出かけなくとも霊場を巡ることができるありがたい聖地札所の「うつし霊場」。

大安寺でも同じように「お砂踏み」が行われているが、南六条南方は村の人にとってのありがたい功徳の在り方である。

あたかも四国霊場を巡拝するかのように一歩、一歩踏みしめて手を合わせて一心に念じる。

(H25. 4.21 EOS40D撮影)

続、CANONEFS17-85ISUSMにチェンジ

2013年08月02日 08時29分59秒 | しゃしん
チェンジしてから使い続けたCANONEFS17-85ISUSMレンズは快調である。

広角は少し広がるし望遠も長くなった。

これまでは諦めていた写角に満足する。

明るさは落ちたが仕方がない。

なんとか撮影できる範囲内である。

が、である。

突然にやってきたシャッター不可。

表示をみればERRがある。

レンズとカメラ接点が不調で清掃せよとあるERR。

その現象は望遠側でなく広角側の場合だけだ。

今年初めての野遊びを終えて急行したカメラのキタムラ奈良南店。

同じレンズを嵌めてシャッターを押す。

なんともないから故障はカメラ側でなくレンズ側にある。

交換手続きと思ったがなんせ中古品。

いっそのこと修理に出して総点検した方が望ましいということで修理依頼した。

半年間の保証は購入金額が限度額だ。



戻ってくるまではお店の品を予備機の貸与としてくださった。

(H25. 4.14 SB932SH撮影)

野遊び①in民博公園から矢田丘陵へ

2013年08月01日 06時55分06秒 | 自然観察会
今年度の野遊びに参加される親子組は大勢だと聞いていたが、なにかと忙しい4月。

子供会などの行事と勝ち合った。

2回目の5月には参加したいと伝えられたそうだ。

そのようなことで初回の参加者は子供が10人で保護者は7人。

スタッフはなんと15人にもなった。

初回はいつもの通りにスタッフの紹介がある。

この年も使用許可を得て集まった大和郡山市の小年自然の家。

4月に赴任された新所長の挨拶もあった。

出発直後にご挨拶させていただいた新所長は地元の住民。

数多くの神社行事の取材でお世話になっている田中町である。

自己紹介の際に県立民俗博物館の春の企画展を案内させていただいた。

4月27日から開催される「お米作りと神々の祈り」である。

野遊びで自然観察をするフィールドは里山を含め田畑が多い。

「農作業を営む農家の人には迷惑をかけてはならない」とあった保護者への注意事項。

その農家の人たちが行っている節目の年中行事や風習。

それらを捉えた写真や祭った祈りの品々を展示する。

行事取材でいただいた数々の品は60点。

すべてを県立民俗博物館に寄贈した3月は忙しかった。

寄贈した物品は台帳作りをしなければならない。

調査地、用途、使用目的、使用方法、使用者、所有者、入手経路、由来変遷、談話者などを整理する時間は相当な時間を要した。

寄贈した物品のいずれかも出典される予定だ。

そこまでの詳細は伝えなかったが、聞いていた所長が興味をもたれたのである。

田中町の行事に立ち話は長くなる。



観察会はそんなこととは関係なく出発する。

一昨年、昨年とも行事取材で度々重なった野遊びの日。

できる限り参加していきたい。



公園に咲くウワミズザクラ。

咲き始めとなったこの日は平成25年4月14日(旧暦3月5日)。である。

平成23年4月10日(旧暦3月8日)の民博公園のソメイヨシノは満開だった。

それは遠に過ぎ去っていた。

ウワミズザクラが満開だった平成22年は4月18日(旧暦3月5日)だった。

さらに遡った平成19年は4月22日(旧暦3月6日)である。

若干のずれはあるが、今年は随分と早い開花である。

ヤマザクラはすでに散っている。



毛があるカスミサクラの開花も早いこの年。

盛りは過ぎつつある。

平成22年は4月18日(旧暦3月5日)。

平成21年は4月19日(旧暦3月24日)。

平成20年は27日(旧暦3月22日)。

平成19年は22日(旧暦3月6日)であった暦は新暦日。

年によって咲く日が大きく変動する。

旧暦であればどうであろうか。

確かめてみたいが指標の木を決めておかねばならない。

コゲラやウグイスが囀る公園内にはカエルもいる。



アマガエルとヌマガエルだ。

飛び跳ねるカエルに夢中となる子供たち。

獲物は手の中から顔をだす二匹のカエルを見せてくれる。

カンサイタンポポの群生に混じってアリアケスミレも咲く。

古民家辺りにくれば咲いたシャガも群生だ。

見上げてみれば樹木に見なれない花が咲いていた。

見つけたのはⅠ先生だ。



樹木の先のほうに咲いていた五枚花弁の花はザ(サ)イフリボクだと云う。

ヒラヒラの細長い花びらは武将が振る「采配」に準えて、その名がついたそうだ。

ザ(サ)イフリボクは異名にシデザクラがあるそうだ。

「シデ」は四手或いは神手。

「シデフリ」は神官が祓えの儀に振る祭具である。

ランの仲間にサイハイランがある。

奈良県では(準)絶滅危惧種に指定されているサイハイランも同じように「采配」に似ている。



古民家の垣根に咲くドウダンツツジ。

「ドウダン」は銅の弾ではなく「灯明台」らしい。

灯明台はいわゆるローソクを灯す燭台である。



そこにやってきたベニシジミ。

真っ白な燭台にひと際美しい色が止まる。

シジュウカラが鳴いている。



イロハカエデに花が付く。

下向き加減のイロハカエデの花はとても小さい。



先週の下見では一輪、二輪の花咲きだった八重のサクラ。

この日は満開になっていた。



ヤマザクラに飛び交うホオジロ。

花弁を銜えてすぐさま落とした瞬間を見た。

傍ではアオジも囁いている。

シメもいたそうだが見ていない。



公園内ではカンサイタンポポが咲き乱れる。

セイヨウタンポポは混じっていない。

公園を出た直後のあぜ道。



レンゲの花が咲いている。

後方の黄色の花はタガラシである。



スミレが咲いている道を通っていけばアリアケスミレの群生。



遠くの方でキジが鳴く。

ようやく昼食の場に着いた。

携帯電話の万歩計が示した歩数はおよそ1900歩。

それほど遠くない距離である。

観察ははしょっていくものでなくじっくりと、である。

お腹も空いているから弁当が美味い。

心地よい風が通り抜ける昼食の場にはいつものアリジゴクがいる。



子供たちが捕まえたアリジゴクはとても小さい。



サルトリイバラの花やヒメハギが咲いている。

ヒメハギが咲いていた時期は平成22年が18日(旧暦3月5日)。



平成20年は27日(旧暦3月22日)。

平成18年も今年より遅い23日(旧暦3月26日)であった。

戻る途中で聞いた鳴き声はイカル。

素晴らしい声に惚れ惚れする2200歩の春の観察会。

参加者が増える5月も楽しみである野遊びの自然観察会。

春の景観をじっくりと堪能させてくださった。

(H25. 4.14 EOS40D撮影)