マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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南加納のゐのこ

2010年12月21日 08時56分30秒 | もっと遠くへ(大阪編)
かつて綿の生産が花形だった大阪の南河内郡。

その名残の建物が今でも見られる河南町の南加納。

およそ60年前のことだ。

工場だった建物は崩れる寸前まできている。

解体するにはそうとうな費用がかかるからと朽ちるのを待っているという。

その傍らに大きな車輪軸がある。

動力水車だった機械は軸受け台が残された。

当時は水路から豊富な水を利用して回っていたという。

そこで働いていた女工さん。地元に嫁いだ人も居るそうだ。

山麓近い南加納。多くの田園もあったが新興住宅が増えるいっぽう。

子供時代に過ごした田舎の面影は随分と変化している。

古い屋敷もなくなり集落は建て替えられて新しい姿になっている。

道路は狭く信号機に待つ車は数台。

富田林からやってくる金剛バスも停車している。

ここから先はワールド牧場がある。

そこら辺りは新興住宅の街になった。

それまでは農業を営む家が多かった。

稲刈りや野菜などの収穫が終わったころは子供たちが「ゐのこ」の棒を地面に叩きつける「ゐのこ」の行事がある。

それは農作業が少なくなった現在でも続けられてきた。

当時は男の子が主体的に行っていた行事だ。

それはいつしか子供会の主催行事になった。

日暮れの5時に集まってきた子供たち。

小学校1年生から6年までだ。

昔は男の子だけだったが今は女の子も参加できる。

手に持っている藁棒が「ゐのこ」だ。

長さは60cmぐらい。

細長い直線的な棒はモチ米の藁。

いわゆる今年に採れた新藁のモチワラで、粘りがあるしなやかな藁だという。

これには芯が入っている。

中身はズイキの茎。

これがないと地面を叩いても音がでないという。

おじいちゃんや母親、兄ちゃんに手伝ってもらって作った子もいるが、希には本人自身が作ったものもあるそうだ。

6年間の経験が活かされているのだろう。




実は見本があるのだ。

それは長老のUさんがこしらえたもの。

「子供たちのために見本をようけ作っておいた」という。

黒いテープを巻いているのは最近のものでしっかりしている。

激しく叩いても崩れないようにしたそうだ。

緩やかな螺旋を描く白いテープが原型だそうだ。

かつては注連縄を編むように細い藁を編んで、それを巻き付けていた。

手で持つ方は丸い。

白い布切れを巻いているのも最近らしい。

私の母親が住んでいた滝谷不動も「ゐのこ」の棒があった。

それはもっとずんぐりした形だった母が言った。

それはともかく地区を歩き出した一行。

傍らには母親がついている。今年の当番の役員たちだ。

玄関の呼び鈴を押して家人を待つ。

出てきやはったら「子供会ですがゐのこつかしてもらっていいですか」と伝える。

了承を得たら「ゐのこ」の棒を、囃しながら地面に打ち付けるように叩く。

ボテ、ボテとリズミカルに叩く。

この音がでるように芯をいれていたのだが、雨の日には地面も濡れてさらに鈍いボテボテ音になった。

「らいねんもほうさくをいのってー」と掛け声をかけて、「いのこ いのこ いのこのばん(晩)に じゅうばこ(重箱) ひろて(拾うて) あけて(開けて)みれば きんのたま はいた(入った)ったー ちょこ(しっかりの意)いわい(祝い)ましょ ことし(今年)もほうねん(豊年)じゃ らいねん(来年)もほうねんじゃ おまけ」。

「おまけ」はほんまにおまけのボテ音のひと叩きで締める。

かつては卑猥な囃子言葉だったそうだ。

しかも家の家人の名前も台詞に取り入れていた。

これでは子供では具合が悪いと訂正された。

60年以上どころかもっと前だったそうだ。

これまで続けてきた「ゐのこ」の行事。

赴任して下宿していた小学校の先生は絶やしてはならんと強い後押しで継承されてきた。

隣村の北加納、持尾や平石でも行われていたがそれは早い段階で廃れたようだ。

その地域どころか母がいうにはもっと広範囲に亘って行われていたゐのこの行事は南加納だけになったという。

集会所を出発して上(かみ)に向かう。

白木小学校辺りを経て加納からは南へ向かう。

急坂をあがれば新しい団地が見えてくる。

数軒の家でゐのこを囃した。

老人センターの玄関を入ってここでもお願いして叩いた。

始めて見る光景に事務員も驚いたであろう。

そこから下って再び加納バス停へ。

そこからは少しあがる。

コンクリートミキサー車が行き交う工場地。

ここでも事務所の人にお願いして叩いた。

商店なども対象になる農業豊作を祝うゐのこ搗きだ。



ここからは中央の辻に向かいながら一軒、一軒囃して叩く。

あっちやこっちへと呼び鈴を押す。

叩き終えると家人が出てきて祝儀が渡される。

「ありがとう」とお礼を言って次へ向かう。

かつては自作で採れたクリやカキ、ミカンだった。

お菓子もあった。

それはいつしか一律300円になった。

そして500円、1000円と値上がっていった。

この年の参加者は14人。

およそ80軒、集落のすべてを廻ったあとは集会所に戻って分け前を分配するのだ。

ゐのこ叩きは長丁場だ。



玄関前で整然と並ぶ子供たち。

年長の大将が掛け声をかける。

囃子の台詞は2時間を過ぎたころは小さめになった。

もっと大きくしてやと叱咤がはいった。

雨は容赦なく降り続ける。

合羽は濡れ放題だが気にもかけない子供たち。

傘をさす役員たちは染みいる冷たい雨に打たれている。

3時間を経過して残すはあと10軒。

雨天の行事は辛いが大人になったときには思い出すことだろう。

長老が言うには終わってからも続きがあったという。

ゐのこ棒を括っていた紐を外して繋ぎ合わせ長い一本にした。

それに石をぶら下げた。

障子の取っ手に引っかけて伸ばした。

家人がそれを開けると石が障子に当たって音が鳴った。

ちょっとした悪戯だった。

これを「コトコト」と呼んでいた。

さらに落ちていたドングリを拾い集めて家の前にばら撒いた。

家から出てきた人が滑る。

そこまではならんかったがこれも悪戯だった。

当時は鷹揚な時代。

「子供のしよるこっちゃや」と許されていた。

そういう行為をするのは祝儀をくれん家やったと話す。

農作業、稲こきも終わってサトイモも収穫した。

年内の収穫も終えたころにしていたゐのこの行事。

それは12月5日だったかもしれないと話す。

今は子供会の行事。

特定日でもなく明くる日が休日で学校終えてから行うことにしているそうだ。

付けくわえて長老が話すゐのこの叩き方。

バットのように持つのではなく、輪っかになている部分を持ってぶんぶん回すようにして叩くのが本来なのだという。

長年の経緯のなかで持ち方どころかそれによって叩き方も変わってしまったようだという。

(H22.11.22 EOS40D撮影)


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