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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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龍田大社半夏生の日

2015年01月08日 07時59分01秒 | 三郷町へ
夏至の日から数えて11日目になる日が半夏生(はんげしょう)で、だいたいが7月2日。

夏越大祓いをされていた龍田大社の神社殿に白い花をつけた半夏生が置いてあった。

半夏生は先端部分の葉が徐々に白く変化する。

花が咲けば梅雨も終わりのころ。

龍田大社で行われる風鎮祭を「ハゲショ」若しくは「ハンゲショ」とも呼んでいるそうだ。

県内では半夏生が訛ってハンゲッショからハゲッショと呼ぶ地域がある。

當麻・香芝辺りでは田植えを終えて梅雨の水の恵みに感謝して小麦と粳米を混ぜた搗いたハゲッショの餅にキナコを塗して食べていたようだ。

各家で食べられた郷土料理はおそらく見ることはないが、當麻の道の駅で売っていると聞く。

吉野町ではさなぶり餅と呼んでいたハゲッショモチ。

二毛作が衰退した現代では、民家でハゲッショ餅を作ることもなくなり、橿原市のお店で販売しているとか、村起こしイベントで作られているようだ。

(H26. 6.30 SB932SH撮影)

かつてあった信貴南畑の弓打ち

2013年10月23日 09時48分46秒 | 三郷町へ
平成13年ころまで存在していた信貴南畑素盞嗚尊神社の宮座。

一老から十五老までの十五人である。

4月初めぐらいであった弓打ちの名残が拝殿に残されている。

毎年作っていたと思われる弓は竹製だ。

弓打ちの場は神社本殿の裏側。

ちょっとした広場であった。

弓打ちは一老が指名した若い人はたいがいが十五老。

裃に着替えてから刀を持って踊った。

踊ったというよりも舞であったかも知れない。

弓打ちをする前に「コン」をしていたと云う。

「コン」と云うのは若い人に酒を飲ますことであると云うから充てる漢字は「献」であろう。

「コンせー コンせー」とせがむ一老。

その声があがれば酒を飲まざるを得ない。

「なんかやったらコンしよ」と云われて飲んだ。

「全部せなあかん ごくろう」と云われるまで飲まなければならなかった若い座中。

「ただいまから行ってきます」と一老に伝えて弓と矢を持って広場に出向いた。

その途中で声を掛けられる一老の「コン」。

素焼きカワラケのような盃は小さかった。

カワラケを持つ人も若い人だった。

何段も積んでいたというカワラケは数枚の盃であったろう。

始めに「コン」。

向かう途中でも「コン」に飲んでいた酒である。

十五老は矢をもち、十四老が弓を射る。

「今年はどっちの方角や」と云ったことから、毎年方角が替る恵方の方角であったかも知れない。

矢は5本ぐらいだった。

裃姿の若い二人は東西南北の四方に向かって頭を下げる。

所作前の一拝であろう。

その年の方角には鬼の的を置く。

1.5mぐらいの四辺形の的は竹で編んでいた。

半紙を張って中央に三重丸を描く。

中心の円は真っ黒に塗った。

それが鬼の的であった。

最初に東西南北に矢を打つ。

山の方に飛んでいった矢を取りにいったのは子供たちだ。

取りあいになったぐらいに競争が激しかった。

的辺りに待機していた子供は直ちに走っていく。

2本の矢を手にした子供もいたが、分け合った。

それが楽しみだったと話す村人たち。

その矢は一年間も床の間に飾って奉ったと云う。

最後に打つ方角は、「今年の鬼はこっちやな」と指示があって弓を射った。

災いが村に入ってこないようにという願いの方角が恵方であったのだろう。

村を流れる川がある。

「ドンド」と呼ばれる辺りにはオオサンショウウオが生息していた。

手で掴んでいたと云う。

その川の名は「サネモリガワ」。

充てる漢字は「実盛川」だ。

ウナギやケガニ、サワガニ、カワエビがどっさりいたという。

アカハライモリが居たのは川を下った「トックリ池」だ。

今ではブラックバスが増えてバス釣りする若者を見かけると云う。

信貴山下にはダイモンダムがある。

元々堰きとめていた土手を郡山土木が工事して近代的な人工物になった。

堰きの木材は発掘されて年代測定法で判った80年前の造りもの。

そんな話題を話してくれた直会の場。

ありがたいことである。

南畑に多い名字に「実光(じっこう)」がある。

それは前述した川の名の「実盛」と関係があるのかも知れない南畑にはかつて鉄道が走っていた。

信貴山門から高安まで。山の上を電車が走っていたと云う。

村の歴史は近代の話題。昨日に拝見した「南畑歌舞伎一座」や「外のお大師さん」を聞きそびれた。

かつて大晦日に正月の土まきをしていたと県立民俗博物館の鹿谷勲氏が報告する。

東垣内は地蔵さんで西は宮さん。

掘った土は自宅ニワ(家内の土間)に撒いていたそうだ。

(H25. 7. 2 EOS40D撮影)

信貴南畑素盞嗚尊神社ハゲッショの御湯

2013年10月22日 09時05分04秒 | 三郷町へ
生駒郡三郷(さんごう)町信貴南畑(しぎみなみはた)に鎮座する素盞嗚尊神社。

鎮座地の小字は宮山である。

事後承諾してもらった集落センターに駐車して神社を目指そうとした際に見かけた二人の婦人。

尋ねた結果は「今から始まるのでそこへ向かう」と云う。

ついていった神社には村人が居られた。

この日に行われる行事はハゲッショの御湯である。

信貴南畑は堺・大阪から峠を経て奈良に向かう旧街道にある。

流行り病いは八尾、柏原を経て峠を越えてやってきそうだった時代のこと。

イボ地蔵さんに祈願しればたちまちのごとくピタリと留まった。

大阪の病いが山の上で守ってくれた地蔵さん。

村に流行り病いが入らないようにしてくれたありがたい地蔵さんだと話す村人たち。

集落から南にある長閑な山の中にある。

その場は、昭和55年に奈良県の農地政策の一環として造成を受け、会社組織で運営する「㈱農業公園信貴山のどか村」で、2体もあると云う。

峯のダケと呼ばれる城跡にある地蔵さんがイボ地蔵。

イボはホウソなどとも云われてきたデキモン。

願掛けの地蔵さんだとも云われている。

もう1体の名がお告げ地蔵。

この地蔵さんが侵入する流行り病いを村に入れなかったという。

2体の地蔵さんを拝見するには「のどか村」に入らなければならない。

もちろん入場料はいただいていると話すのは経営者のOさんだ。

代々伝わる過去帳によればO家の始まりは370年前。

そのころ、既に村があったという証しであると話す。

平成13年までの信貴南畑では宮座があった。

それから数年後、宮座を解散されて自治会運営になった素盞嗚尊神社の年中行事。

田植えを終えれば「ケツケ休み」。

ナエダンゴを作った。

苗を三つ寄せて真上にキナコを塗したオハギを乗せた。

オハギは餡でくるんだオハギだったと話す婦人たち。

田植えを終えた後日、雨が降り続ける日であれば「ジュンキ(順気)ヨロコビ」。

天気が良かったら「アメ(雨)ヨロコビ」。

「今日はアメヨロコビや」と云って村をふれて回った。

「今日はケツケ休みやから宮さんに集まってくれ」とも伝えていた。

60、70年も前のことを思い出して話す長老たち。

当時は半鐘を叩いて村中に知らせていた。

宮さんのお供えは重箱に詰めた家の料理。

ズイキイモやエンドマメ、ソラマメを炊いた煮もの。

乾燥したコクフマメは水でもどして柔らかくなれば炊いた。

「なんにしてもコクフマメを手で受けてよばれていた」と話す。

受け皿は樹木の葉っぱだ。

子供のころにはそれが楽しみで貰いに出かけたと云う。

この日の行事はハゲッショの日で御湯を焚かれる。

ケツケを兼ねたハゲッショ(半夏生)の行事には、県内では珍しく、大、中の二つの湯釜を四方竹に囲った斎場に設える。

その場は本殿下の狛犬の前だ。

御湯の作法をする三郷町立野(たつの)在住の巫女さんもそう云う。

シバを燃やして湯を沸かす当番の人。

信貴南畑は七つの組(班)に分かれている。

それぞれの役員(組長)が年中行事の当番にあたる御湯の行事である。

生駒郡三郷町は、かつて平群郡南畑村、立野村、勢野(せや)村の三カ村であった。

明治22年(1889年)に三カ村が合併して三郷村(みさとむら)となった。

町制が施行されて三郷町(さんごうちょう)に改称したのは昭和41年(1966年)のことである。

三郷町立野の巫女さんが出仕する地域は三郷町をはじめとして、平群町、川西町、大和郡山市一円におよぶ広大な範囲だ。

大、中の大きさの湯釜は古いものであるが、刻印は見られない。

はじめに大きな釜で御湯をされる。

蓆を敷いた場に座る巫女さん。

一拝して塩を撒く。

小幣を左右に降る。

ポン、ポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上する。

そして湯の上から撒き散らすキリヌサ。

立ちあがって幣を振る。

その幣を湯に浸けて掻き混ぜる。

「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。

「みちのふどうのまつの大明神 この御湯にのり遷し のりかわし」勧請を申す。

「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。

勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転する神楽を舞う。

2本の笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき いずくの国より 天より降りたもう」と告げる。

湯に浸けて上下に動かす笹の葉。



もうもうと立ちあがる湯のけむり。

「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。

それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。

そうして湯に浸けた笹も手にして舞う神楽。

先ほどと同じように左、右、左に一回転する。

御湯の作法を終えた2本のクマザサの葉は右狛犬の胴体の下辺りに挿し込む。

2回目の御湯の場は中くらいの湯釜の前に移った。

大きな湯釜で祭祀した御湯作法と同じく、ポン、ポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上する。

キリヌサを撒く。

お神酒を注ぐ。

幣で湯を掻き混ぜて御湯の祝詞を奏上する。

神楽を舞って笹を湯に浸ける。

信貴南畑の地に神さんを降りたまい、四神に受け取っていただく。

湯に浸けた笹も手にして舞う神楽も同じ作法である。

執ったクマザサは左の狛犬に置く。



それがどういう意味であるのか、巫女さんも村人も存じない。

そして3回目の御湯が始まった。

次の場では大きな釜に戻った。

幣を振ってポンポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上し、キリヌサを撒く。

お神酒を三滴おとして清める。

幣を振って湯に浸ける。

神さんを勧請して湯を掻き混ぜる。

神楽を舞って笹を湯に浸ける。

「いずくの国より 天より降りたもう」と告げて笹を上下に動かした湯のけむり。

それが神さんの姿であると以前に聞いたことがある。

四神の受け取っていただき、笹を湯に浸けて作法する。

何度も何度も繰り返す作法である。

触れ合う笹と湯の音が混じり合う御湯の作法に心が洗われる。

そうして四神に向かってそれぞれ「元のおやしきに送りそうろう おさめそうろう おんなおれ」と告げて神楽を舞う。

本殿下でシャンシャンと神楽を舞う。

続けて左に鎮座する末社に向かっても神楽を舞った。



最後に「もろもろの穢れを祓えたまえ きよめたまえ」と参拝した一年交替の組当番と自治会長ら、一人、一人に御湯で浸けた笹と鈴・幣で身体堅固を祓っていただく。

実に丁寧な御湯の作法である。

祓ったクマザサは右の狛犬に置いた。

昔は祓い清めた笹を飼い牛に食べさせたと云う。

最後に一拝されてハゲッショの御湯を終えた。

御湯の儀式が終われば拝殿に登る。

窓際にローソクを灯して始まった神楽の舞は二本の剣を持つ。

その際には長老が太鼓をドン、ドン、ドン、ドンと打って調子をとる。

単調な打ち方であるが心地よい音色だ。



その音に合わせるかのように剣を交差する神楽の舞である。

鈴も手にして舞う神楽を終えれば一人ずつ祓ってくださる。

「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓えたまえ、清めたまえ」と鈴を振って祓う。

丁寧な作法に頭の下がる思いがする。



素盞嗚尊神社の拝殿は真新しい。

平成13年10月2日に竣工した拝殿はそれまで建物を壊して新しく建て替えた。

総額が計算できないほどの高額な建て替え費用。

寄付のほとんどがその年を最後に解散した宮座中であったと云う。

増えも減りもしなかった村の全60戸が宮座でなく、特定家筋の15戸であったと云うだけに賄った寄付額を分担しあった1戸あたりは相当な額である。

昭和四年に県内各地の宮座を調べた『大和国神宮神社宮座調査』によれば、当時の宮座は28戸であった。

十数年間の経過で大幅に減少したのであろう。

Oさんの祖父が顕在だった頃に聞いた宮座入りの話し。

座に入れてくれと願った家には注文をつけた。

「家屋敷より宮さんまで、米俵を繋げよ」である。

その家は何俵も繋げて宮さんまで繋げた。

その状態をみて座入りを断った。

知恵を働かして米俵を縦に繋いだのである。

繋いでくれと頼んだのは横に並べる形であった。

縦と横では相当な開きがでる米俵の繋ぎ方であったから却下したというのである。

(H25. 7. 2 EOS40D撮影)

龍田大社風鎮祭

2008年07月30日 08時30分14秒 | 三郷町へ
三郷町の龍田大社で行われる夜の火花。

激しく燃え上がる火筒の火の粉は天を突きさすように大きく吹き上がる。

昼間に風水害除けの祈願祭である風鎮大祭を終えた同社の夜祭りは参道に夜店も並んで夏を彩る風物詩。

風鎮花火に先立って河内音頭や江州音頭の盆踊りが行われる。

生演奏をバックに境内を踊り続ける踊り子さんたちの衣装が舞う。

2時間ほど踊り続けて汗びっしょりだ。

一息ついたあと、いよいよ花火が始まった。

宮司らが点火すると感動の声があがる。

手筒花火の火柱は5mにもあがる。

降り注ぐ火の粉を身体中に浴びる姿は風の神さんに火を捧げるようで、まさに神賑の神事となった。

(H20. 7. 6 Kiss Digtal N撮影)