https://www.youtube.com/watch?v=N9d5dunRXFA
民主主義も人権も平和の大事さも学校で学ぶことができる。 模範解答を提出すべく勉学に励み頭に叩き込んで「おりこうさん」とほめられる。 しかし同時に、教室では教師-生徒という関係パターンもメタ学習として学ばれている。
本質的にはこちらが上位の包括的意味の学習として学ばれていく。 なぜか。 何かを学ぶことよりも関係パターンの学習のほうが論理階型的には上位の包括的意味を構成するから。 教室で何を学んでも、学習の「諸細目」はすべて、それを包括する人間関係のパターンの構造に収まるように学ばれていく。
教師はこのことに自覚的である必要がある。
どんなに民主主義、人権の大切さを力説しようが、「正義、善、真理」について語ろうと、 子どもはそこに教師の関係意識、関係態度を読み取るようなメタ学習を継続している。
この関係が権威主義的な「教え/教えられる」という一方向的な情報注入式の関係パターンの場合。 生真面目に愚直に学んだ子どもであるほど、「民主主義」も「人権」も「全体主義」も、何を学んでも、どんな関係場面においても、 等しく権威主義的な関係構造に収まるように考えふるまう大人になる、その可能性が高い。
「上位-下位」という関係構造を固定することで、「個」としての内発的な学習エンジンは停止状態になる。 学習の成果は、ただ「上位-下位」の階梯のどこに位置どるかを決定する基準としてだけ意味をもつことになる。
「上位-下位」(あるいは「偉い-偉くない」)という関係パターンの中でしかものが考えられず、ふるまえない▽△がいまだに支配的ポジションにあふれている。 そうした▽△は、「上位-下位」という関係パターンの外れた場面では、左右問わず、おそろしく白痴的本質をあらわにする。一生をつうじて内発的学習がいちども起動しない「学習しないという学習」の帰結ともいえる。
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