コスモスが朝の光に洗われ、風にゆれ、まなざしに交わり、
心的な変換規則に出会うと一つのアンサンブルが奏ではじめる。
世界は、ただの「ひかり、いろ、かげ」の構成としては現われない。
心的経験はそのように世界を捉えることができない。
「ひかり、いろ、かげ」という構成は、むしろ、
アンサンブルの体験ののちに二次的に再構成されたものでしかない。
「ひかり、いろ、かげ」が織り上げる差異の模様は、
はじめからアンサンブルが奏でるさまざまな諧調として訪れている。
アンサンブルの編成はわたしの「意識の仕事」とはいえない。
意識はアンサンブルの奏でる音をただ受け取ることができるだけである。
光と色と影のランダムな差異の連なりに、
タクトを振う超越的な存在がいるわけではない。
ただ、わたしのまなざしが風景に出会うと
固有の色あい、印象、意味と価値の構成が心を直撃する。
風景との遭遇は、ただ心的な体験としてだけ現象する。
わたしの中で泡立ち、色めき立つ作動がある。
そのことの理由をわたしは知らない。
世界の到来はほかでもないわたしの心的な出来事であるにもかかわらず、
わたしの意識にとって外部からの訪れのように現象する。
この訪れそのものが「真」である否かという問いは意味をなさない。
泡立ち、感じるという体験はただ端的な事実として経験される。
この訪れをわたしは拒んだり選択しないことができない。
わたしの意思の外側からわたしにおいてわたしを一撃するもの──
この端的な訪れそのものが、意識が起動するすべての源泉であり、一切である。
しかしわたしの経験はそこで完結することはない。(つまりそこで充ちることはない)
〝問題〟は到来性そのものではなく、それを記述し交換しあう位相において生じる。
それはウソか本当か、共通の意味と価値をもつに値するものであるのか──
相互に関係しあうと関係構造において「問い」が生成し、
体験記述の再帰的な交換から共有可能な〝ほんとう〟をめぐる審議のテーブルが生まれる。
審議のテーブルにおいて、どのような相互的「了解点」「納得点」へ向かいうるのか。
テーブルをひっくり返して決裂、血なまぐさい闘争へ向かうケースもある。
どこまで持ちこたえながら「審議のテーブル」を維持できるか。
社会(関係のゲーム)という項の包摂力がそこで試される。
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