(佐々木正人『アフォーダンス入門/知性はどこに生まれるか』08年講談社学術文庫/96年講談社新書)より
偶然に開始され、膨大な時間をかけて進行していることがある。というのはいうまでもなくダーウィンの進化論のモチーフの一つだ。この世界のすべての場所で起こっていることは、ミミズによる大地の形成のようなことである。それはあらわれてしまうまでは、だれの眼にもふれない無言の変化である。しかし変化しないものはない。この世界のあることのすべてが変化の途上の姿なのである。つまりこの世界には変化しかない。
もう一つ、ダーウィンの進化論は「変化(進化)には目的も方向もない」ということをその主張の最大の中心にしている。
生きものが「何かのために」生きている、などという言い方は、生きものの行為の結果を観察した人間が見たことを表現するために、かってに後からした説明にすぎない。ミミズは地球の表面を変える「ために」生きているわけではない。彼らの生の結果が、大地を変えただけだ。
すべての行為はこのように環境にある意味、つまりアフォーダンスに動機づけられてはじまる。アフォーダンスはその幅も奥行きも無限である。この探索のプロセスは開始されるだけで終わりがない。生きて動くものが生きているかぎりアフォーダンスは探し続けられる。それは終わりのないプロセスである。それを探す行為はすべてがつねにいくぶんかは「間違い」であるともいえるし、いくぶんかは「正しい」ともいえる。行為を正誤でくっきり峻別できるのは、行為が人間のつくりだした人口のカテゴリーを識別している場合だけであり、この二分法は知覚のカテゴリーには当てはまらない。行為には正誤も誤りもない。
実際に生きものに見ることができるのは「はじまり」が「まわり」に出会って「変化」するということだけである。細胞からぼくらのつくる文明まで、発達には、はじまりと、まわりと、変化ということ以上のことも、それ以下のこともない。(中略)「予定」も「進化」も彼(ダーウィン)が見ていた生きもののありのままの変化にはふさわしくなかった。
偶然に開始され、膨大な時間をかけて進行していることがある。というのはいうまでもなくダーウィンの進化論のモチーフの一つだ。この世界のすべての場所で起こっていることは、ミミズによる大地の形成のようなことである。それはあらわれてしまうまでは、だれの眼にもふれない無言の変化である。しかし変化しないものはない。この世界のあることのすべてが変化の途上の姿なのである。つまりこの世界には変化しかない。
もう一つ、ダーウィンの進化論は「変化(進化)には目的も方向もない」ということをその主張の最大の中心にしている。
生きものが「何かのために」生きている、などという言い方は、生きものの行為の結果を観察した人間が見たことを表現するために、かってに後からした説明にすぎない。ミミズは地球の表面を変える「ために」生きているわけではない。彼らの生の結果が、大地を変えただけだ。
すべての行為はこのように環境にある意味、つまりアフォーダンスに動機づけられてはじまる。アフォーダンスはその幅も奥行きも無限である。この探索のプロセスは開始されるだけで終わりがない。生きて動くものが生きているかぎりアフォーダンスは探し続けられる。それは終わりのないプロセスである。それを探す行為はすべてがつねにいくぶんかは「間違い」であるともいえるし、いくぶんかは「正しい」ともいえる。行為を正誤でくっきり峻別できるのは、行為が人間のつくりだした人口のカテゴリーを識別している場合だけであり、この二分法は知覚のカテゴリーには当てはまらない。行為には正誤も誤りもない。
実際に生きものに見ることができるのは「はじまり」が「まわり」に出会って「変化」するということだけである。細胞からぼくらのつくる文明まで、発達には、はじまりと、まわりと、変化ということ以上のことも、それ以下のこともない。(中略)「予定」も「進化」も彼(ダーウィン)が見ていた生きもののありのままの変化にはふさわしくなかった。
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