もっとも対峙するに値する人間の発見者、早熟の天才
「ぼくは一人の他者です」(アルチュール・ランボー)
知はおのれの非知的作動の全域を覆うことはできない、無意識の発見
「水面上に意識を浮かべる氷山としての自己の全体性」(ジークムント・フロイト)
ラディカルに方法化された文学的アバンギャルド
「おまえの敵はおまえだ」(石川淳)
もう少し洗練された柔らかな自然体、21世紀的展開
「自分をサンプルと考えています」(大谷翔平)
自己との対話を基礎として社会体へ向かう対話的連結体、自己
「思考=一者にして二者 two in one」(ハンナ・アレント)
絶えざる自己記述、関係記述、世界記述の更新的展開本質
「自己意識の無限性、すなわち対象記述の無限性」(ヘーゲル)
関係欲望が駆動する関係のゲーム、関係世界をつくる関係本質
「私たちは交流的存在 communal existenceであります」(サリヴァン)
私たちが観察するべきは、個人ではなく、
人間が互いに何を取り交わしているかであります。
互いに取り交わすものを、互いにどうやってコミュニケートしているか、
と言い換えてもいいでしょう。
それが完了すれば、個性というものが永遠不滅でも
唯一無二でもないと明らかに明らかになるはずです。
私たちは皆、対人関係の数と同じだけ人格の数を持ちます。
(ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』阿部大樹編訳)
関係企投と関係記述(多重記述)から創発する世界の生成的本質
And relationship is always a product of double description.(G.Bateson)
そして関係とは常に、二重記述の産物である。
相互作用に関わる二者は、いわば左右の眼だと言ってよい。
それぞれが単眼視覚を持ち寄って、奥行きのある両眼視覚を作る。
この両眼視覚こそが関係なのである。
この発想に立つことは、大きな進歩である。
関係とは、一個の人間の中に内在するものではない。
一個の人間を取り出して、その人間の〝依存〟だとか〝攻撃性〟だとか
〝プライド〟だとか云々しても、なんの意味もない
これらの語はみな人間同士で起こることに根ざしているものであって、
何か個人が内にもっているものに根ざしているのではない。
(ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳)
ひとりの経験を流産へみちびく関係のアポリア、親和空間の重力
「ひそかな〝発酵〟が起こらなくなる」(中井久夫)
ともすれば実際、治療者は、同情者(本人への過剰同一化)となるか、
親の立場と同一化するか、「わけ知りオジサン」になるか、
このいずれかになり果てる危険が大きい。(「思春期患者とその治療者」)
人に話すとみるみる楽になる。しかし、それは心の中であたため反応させて
しかるべきものを水に流したからで、いわば当然なのだ。
(「精神科医からみた学校精神衛生」)
知るといういとなみは、友達がいてもいなくても
基本的には独りですることである(「君たちに伝えたいこと」)
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