ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「超越としての他者、波形」20230905

2023-09-05 | Weblog

 

 

  ──竹田青嗣『新・哲学入門」2022』

  現実の他者は、まず、私に対して、たえず他なる主権的他者(他格)として
  自らを表現しつつ向き合ってくる存在である(たとえ、いたいけな子どもであっても)。
  すなわち、その表情、言葉、振る舞い、行為を通して、つねに一つの意志、感情、人格、
  あるいは精神として、その主格性、内的主権性を私に現わす。
  そのことで他者は、私に対して要求-応答関係を開く存在となる。
  他者はそうした仕方で内的主権性を表出してくるが、
  しかしそのことで存在の全体を示すことは決してない。

  たとえどれほど慣れ親しんだ近親や友人である場合でも、
  背後には本質的な秘匿性、非暴露性が保持されている。
  つまり、その「本体」をいわば物自体のように秘匿している。


        *

それぞれに、存在ごとに、固有の巡航速度があって
生の気圏に描かれる航跡、一回的波形がある

その全景、全時間、全航跡を追尾し
とらえ尽くすまなざしはどこにも存在しない

波形が交わる限られた場所、限られた時間のなかで
たがいに投げ合う言葉は限られている。

それでも出会うことに
なんらかの〝決着〟をつける言葉を用意しあう

出会ったことに挨拶を交わし
手を振り、いちどきりの別れを告げる

 「ありがとう」

すこしだけ現実への着生がゆるむ
たとえば、茜色に染まった夕暮れのとき

そこでだけ許された永遠の相の下で──
心を柔らかくして、窓を開く

虹の彼方、海と空が交わる遥かな地平
そこに根拠なく萌すものがある

見渡すかぎり
どこまでもはてしなく

思いのたけ思うかぎり
見たい夢を見たいかぎり

わかれの言葉を交わし
消えてゆく航跡を見送りながら

そのはてに萌し、たしかに刻まれるものがある

わからないことのわからなさ
知りえないことの知りえなさ

ことばにできないことのできなさ
わかりあえないことのわかりあえなさ

伝えきれなかった、伝えそびれたことば
たがいに未知であり、非知であること

そのはてに一つの予期が走る

それぞれの航跡を描きながら
照らし、照らされ、照らしあう

どこにも航跡をとどめない
生きられているもう一つの場所がある

波形がたずさえる第三の気圏

いつかどこかで、そう信じるに値する合流の場所がある
そして、そのことすべてに心をよせる友はいる

 somewhere in time

この予期において新たな波形が描かれていく

 

 

 

コメント