──竹田青嗣『新・哲学入門」2022』
現実の他者は、まず、私に対して、たえず他なる主権的他者(他格)として
自らを表現しつつ向き合ってくる存在である(たとえ、いたいけな子どもであっても)。
すなわち、その表情、言葉、振る舞い、行為を通して、つねに一つの意志、感情、人格、
あるいは精神として、その主格性、内的主権性を私に現わす。
そのことで他者は、私に対して要求-応答関係を開く存在となる。
他者はそうした仕方で内的主権性を表出してくるが、
しかしそのことで存在の全体を示すことは決してない。
たとえどれほど慣れ親しんだ近親や友人である場合でも、
背後には本質的な秘匿性、非暴露性が保持されている。
つまり、その「本体」をいわば物自体のように秘匿している。
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それぞれに、存在ごとに、固有の巡航速度があって
生の気圏に描かれる航跡、一回的波形がある
その全景、全時間、全航跡を追尾し
とらえ尽くすまなざしはどこにも存在しない
波形が交わる限られた場所、限られた時間のなかで
たがいに投げ合う言葉は限られている。
それでも出会うことに
なんらかの〝決着〟をつける言葉を用意しあう
出会ったことに挨拶を交わし
手を振り、いちどきりの別れを告げる
「ありがとう」
すこしだけ現実への着生がゆるむ
たとえば、茜色に染まった夕暮れのとき
そこでだけ許された永遠の相の下で──
心を柔らかくして、窓を開く
虹の彼方、海と空が交わる遥かな地平
そこに根拠なく萌すものがある
見渡すかぎり
どこまでもはてしなく
思いのたけ思うかぎり
見たい夢を見たいかぎり
わかれの言葉を交わし
消えてゆく航跡を見送りながら
そのはてに萌し、たしかに刻まれるものがある
わからないことのわからなさ
知りえないことの知りえなさ
ことばにできないことのできなさ
わかりあえないことのわかりあえなさ
伝えきれなかった、伝えそびれたことば
たがいに未知であり、非知であること
そのはてに一つの予期が走る
それぞれの航跡を描きながら
照らし、照らされ、照らしあう
どこにも航跡をとどめない
生きられているもう一つの場所がある
波形がたずさえる第三の気圏
いつかどこかで、そう信じるに値する合流の場所がある
そして、そのことすべてに心をよせる友はいる
somewhere in time
この予期において新たな波形が描かれていく