ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「コーヒーを飲む」 20200926

2020-09-26 | Weblog

 

「私」はつねに「私」にまみれながら「私」を目撃している。
そのことをある詩人は「ぼくは一人の他者です」とつづった。

みずからの世界経験がたどる構造への視線をキープしながら、
その本質を追い詰めると、
意識が介入できない〝不可視域〟に出会うことになる。

     *

知ることに先行して、知ることを促す内なる〝発火〟がある。
情動は走り、世界は開かれ、心はさまざまに色めき立ち、知(言葉)はおくれて動き出す。

欲望、そのつどのたえざる主題の生成があり、新たなモードの形成を促す触発がある。
由来をたどれない非知的な衝迫が、意識を直撃するようにみずからに告げる。

「コーヒーが飲みたい」

変化する経験のモード──「私」という存在はつねに新たな組織化に向けてスタンバイしている。
湧きあがる生の主題(欲望)に応じてモードを変化させる内なるマトリクスがある。

すでに準備を整え、そのつど、新たな連結関係において一つのモードを形成し、
告げられた主題(欲望)の実現へ向かおうとしている「私」という全体がある。

スイッチが入り、ただちに作動が開始され、手を伸ばす。
気づくよりはやく、カップをつかむ手はカップの直前で減速し、
カップにふさわしい指のかたちと圧力を調整している。

この一連の動作は意識のコントロールを離れてほとんど自動化されている。
この自動化には、経験と学習によって身体化していく個人の歴史が畳み込まれている。

それが行為的な自然性をつくり、日常生活の全域をささえる基底をつくっている。

視覚が捉えたカップの姿には過去のカップの経験が刻まれており、
腕を伸ばしてカップをつかむという身体動作の形成のプロセスには、
カップの硬さ、重さ、かたちに関わる情報がつねに予期的に同伴している。

あるいは、カップをつかむというメモリに刻まれた一つの運動図式が、
視覚が捉えた対象情報に従って選択的に引き出されるとも言える。

ただ「コーヒーを飲む」という主題(欲望)にも、
総力を挙げてそのつど新たな運動の組織化へ向かうマトリクスがある。

    *  

経験のモードは単一の運動図式によって担われるのではなく、
つねに並列的であり、輻輳した形式で展開していく。 

コーヒーカップを動かしながら、ぼくは友人との会話に集中し、
片方の手でタバコを吸い、BGMに耳を傾け、
からだは椅子のすわり心地を調整したりしている。
横のテーブルから「もっと静かに話せないですか?」と声を掛けられ、
「あっ、ごめんなさい」と答える。
その間も、コーヒーカップをつかんだ手の動作が止まることはない。
こうしたからだの多重で複雑な運動形成全体のシークエンスに、
意識はこのフォーメーションの制御の中心の位置にはいない。

事後的に、運動の記憶をたどってそのプロセスを追うことはできる。
自分の行為のプロセスは、たしかに意識内部に記憶としてトレースされている。
だからそのプロセスを事後的に追って一応の説明づけは可能である。

しかしその全貌をこと細かに再現できるわけではない。
意識はその全貌を追尾し捉え尽くすことができない。
たった一つの行為の展開においても作動の全貌を捉えることはできない。

    *

意識的に作動の全貌を捉えようとする。すると、それはもうすでに別のモードに移行している。
作動の全貌をコトバによって記述に収めようとすると、コーヒーを飲むという作動は止まる。
すなわち、新たな主題の浮上──フォーメーションは記述という別の主題に従うモードに変化していく。

    *

全知は存在しない。知りえない全貌が実在しないということではない。
意識の作動を条件づける背景が存在することを疑うことはできない。
ただし、意識がその全貌をとらえることの困難には原理的な理由がある。

「経験」(世界経験)の記述は、つねにそれを超えることができない限界線がある。
〝発火〟は、つねに、すでに、意識の作動に先んじて現象し、意識を直撃する。
むしろ、この直撃によって、意識は作動の理由を与えられている。

この原理的なリミットを超え、その現象の裏側にむりやり回り込もうとすると、
すべては「物語」(仮説)の世界に入ることになる──思考のオフサイドライン。

    *

思考のオフサイドラインを超える──
すると必然のように真偽の検証不可能な説明原理として、
「物語」「神話」「おとぎ話」の系列が立ち上がる。
こうした検証不可能性なものをささえる唯一つの根拠としての〝信仰〟。

その基底には、いわば〝虚数項〟の設定による全体把握へ向かう人間的欲望がある。
虚数項はあらゆる主観の上位にある「価値的絶対項」として設営される。

それがそうであればすべては整合する、という〝虚数項〟の生成。
この虚数項を掲げあう個と個、あるいはクラスとクラスが対峙するとき、
みずからの正当性を主張し直進すれば、相互に折り合い共存することはできない。

この「真偽」「正邪」をめぐる戦いは、
必然的に、その検証不可能ゆえに際限なく昂進していくことになる。

    *

こうした最後には血なまぐさい結末を迎える戦いを回避する原理がある。

第一には、思考の限界線の確定──
人間的思考のもつ原理的な限界線についての認識、そのことについての共通了解。
決して絶対項、全知、最終解、究極解が存在しえないことの原理的把握。
そしてそのことの相互的承認、そして限界を生きるもの同士としての合意形成。

 

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