ソレが貢献すべき対象が見失われると、
ソレが目的化し、自律的な運動を開始する
さらに、この展開は過酷さを増して
貢献すべき対象を道具化し、資源化し
すべてを呑み込むように全域化していく
ぼくらはソレを利用するのではなく、
ソレに利用される存在として位置づけられ
あるいは、みずから位置づけることになる
この構造的な変異は再逆転されなくてはならない
抽象化すれば、つぎのようになる
客観からの規定としての主観、ではなく
主観からの規定としての客観
いいかえると、主観内に形成される
「間主観的信憑」としての客観
すなわち、一切を主観における生成として捉え
「客観」(社会体)の本質を明らかにし、世界経験をたどり直すこと
ぼくらは認識論の根本的修正を必要としている
*
ひとつの達成が新たな競争の水準点として再設定される。
終わりのない水準点の再設定の連続として、
相互に達成を相対化し資源化していく循環と高度化の回路。
そこで実現されるはずの「ゆたかさ」「余裕]・ゆとり」は、
次なる競争のステージの資源として再投下される。
プレーし勝利することのエロスと達成がただちに、味わういとまなく、
新たに次々にセットされるゲームへ向けてリサイクルされる。、
すべてのプレイヤーは過呼吸の症状に襲われるように、
没落のおそれによって駆り立てられていく。
競争からの脱落、プレーヤーとしての資格喪失、生の没落という恐怖。
勝者も敗者も、もてる者ももたざる者も等しく没落回避に向けて走り出す。
すべてのプレーヤーが没落回避という強迫に追い立てられて生きる日々。
この循環の回路をエンジンとするシステム的作動の中で、
ニンゲンは「さいわい」をつかむことができたと信じた時点で、
つねに、ただちに、次のステージに向けて再始動を強いられていく。
永遠に「さいわい」を先送りされる回路が生活の全域を覆えば、
ニンゲンは不幸でしかありえない構造の中に閉じ込められることになる。
仮に、この回路をニンゲンの「さいわい」にとって有効に作動させるには、
あるいはこの回路の正当性を根拠づけるためには、
別の回路──ゲームを離脱することが「不幸ではない」別の回路、
ゲームを包摂する上位の回路が見出されなければならない。