──〈世界〉の訪れの場としての「自己」。その立ち会い人、ただ一人の目撃者としての「意識」(自我)。
この〝関係〟(構造)においてすべては、「私」の世界経験は現象していく。
「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、たゞかなしき事、うきこと、
恋しきことなど、すべて心に思ふにかなわぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」
(玉のをぐし、二の巻)
「感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、
わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しく邪なる事にても、感ずる事ある也、
是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所よろ感ずる也」
(紫文要領、巻上)
「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるゝにつけて、其のよろづの事、
心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、
是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、
其中にも、猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、
わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」
(紫文要領、巻上)
──ここで云われる「物のあはれ」という言葉は、「羊」ではなく、「狼」のものである。
〈世界〉が現象する場において現象に介入することなく目撃し記述すること。
いいかえると、さまざまな超越項──客観・真理・正義によって現象を審判し裁定することなく、
逆にそれらが立ち上がっていく始原的地平に直面すること。
「悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所」
暴力原理が後ろ盾にする、理想主義者が根拠とする「本体」(客観・真理・正義)の妥当性を僭称するまえに、
すべての展開の第一の起点、〈世界〉生成の場を確定しておくこと。