対話(オープンダイアローグ)は面倒なのか、楽しいのか。
実りあるものであるかのか否か。
われわれはそのことの予期をどこから獲得するのか。
面倒臭さをスルーして最終解を得るには、力の論理に移譲するだけでよい。
パワーゲームはつねに覚醒の契機を待ちながら関係世界の底に眠っている。
しかし「近代」は力の論理から帰結する惨劇の歴史に嫌気がさすことから始まった。
ある事柄に関するそれが「正しい/まちがい」という確信は、
そのまま「正しさ/まちがい」の普遍妥当性を意味しない。
それは、ただ固有の確信の訪れのみを意味するにすぎない(一次過程)。
どんなに面倒臭くてもそのことは二次過程(関係世界、社会)において、
試され鍛え上げられる以外に〝普遍化〟する契機をもたない。
近代が生んだ(創発した)人権というアイテムを自明(自然権)と考えると、
そうしたフラジャイルな基盤を無視することになる。
オフサイドラインはつねに簡単に破られる。
プレーの正当性の根拠をつくり、侵犯行為を抑止するのは、
ゲームの享受可能性(エロス)に対するプレイヤーの総意(信)以外にない。