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「接続エラー」
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エージェントとの関係について、おさらいをしよう。
エージェントが溢れる国の人びとの存在フォームを整理して一般化すると、
「be+過去分詞」=完全なる「受動態(the passive voice)」と定式化できる。
「教えてあげる-教えていただく」
「治してあげる-治していただく」
「知らせてあげる-知らせていただく」
「解決してあげる-解決していただく」
「支配してあげる-支配していただく」
「捕まえてあげる-捕まえていただく」
このフォームのリスクは、主体性の全面放棄に向かうことにある。
最後に考えられるのは、「殺してあげる-殺していただく」という事態だ。
エージェントは自己増殖してつけあがる特性をもっている。
日々警戒を怠らぬようにしたい。
のみならず、時に応じて「能動態(the active voice)」へと
存在のフォームを即座にチェンジできることが重要だ。
最大のリスクは、「主体性の空白地帯」が生まれることにある。
エージェントにとってこの広大な空白地帯は、収奪のフロンティアとなる。
例えば、何十年もの間、極東の島国では全域に収奪の嵐が吹き荒れている。
いま起きていることは、端的に「接続エラー」と表すことができる。
属人的な存在エラーではなく、接続関係としてのエラー。
ポインティングできる誰かや誰かの「vice悪」というより、
ニンゲンとニンゲンの「関係のフォーム」が狂っていることが大問題。
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ここでいう「他力」は、親鸞さんのとはちがうのかな?
Never!全然ちがいます。
親鸞さんのいう他力は属人化されえない如来さんのもの。
有名な『教行信証』には「他力といふは如来の本願力なり」とあります。
如来さんは西欧の「God」と異なり、命令も罰も与えない。
あえていえば「巨大な願い」、「祈り」が溶けていく地平とでもいいましょうか。
かたやエージェントは?
バリバリの俗人さんです。
「わたしにおまかせなさい」の他力とは、
要するに誰かになりかわって自力を行使すること。
ほとんどが自信満々の野心満々が志願してなるものです。
「権威」に吸い寄せられやすいという共通の資質特性もある。
もちろん例外もあります。決めつけてはいけないけどね。
問題は出来損ないのエージェントが介在するとき、
「情報の一方通行」が起こるということ。
情報は生命体にとって、かたちのない「主食」。
情報の流れが一方向的にコントロールされる状況では、
生命的なフローが停滞して阻害される。
なぜか。
一番の問題点は、フィードバックが起こらなくなること。
つまり、生命としての試行錯誤プロセスが起動しなくなり、
行為の結果についての反省も理由の検討もされることがなくなる。
おまかせで学習しなくてもいい状況が生まれるから、
みずからに備わった学習機能を起動させようという動機が生まれない。
学習がなければ変化することができない。
この学習機能の停止は、生命の適応戦略にとっては致命的だ。
まとめると――
「操作の技術と権利」の一極集中、背後でささえる「依存」と「服従」。
この関係がアプトプットする生の「収奪」と「破壊」、そして全体の「絶滅」。
マンモスも恐竜もサーベルタイガーも滅びの道を辿った。
自明性に溺れ切った「種」は消えていくしかない。
このことは自然界の鉄則といえる。
「一つの良き習慣が世界を堕落させぬように」(テニスン)という格言もある。
世界にはいたるとろに自明性のワナが仕掛けられている。
例えば、無菌状態・快適指数100%の居住空間に長く適応しすぎた生命は、
みずからの免疫システムや代謝システムなど生体機能全般を退化させ、
たった一匹のウイルスに殺られてしまうこともある。気をつけようね。
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「究極のエージェント」
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「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象にする。これが宗教の秘密である。」(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』船山信一訳)
フォイエルバッハという十九世紀の哲学者が命をかけるように語ったのは、
超越的存在に高められた理念としての「究極のエージェント」の本質について。
この著作では、世界の全域を統べるとされた神格の接続のし直しがなされる。
絶対的「他力」として外部化したエージェントはあらゆる存在を制御対象とする。
教会や僧侶などのプチ・エージェントは世俗的媒介としてその実行部隊をなす。
フォイエルバッハはこうしたエージェントとの接続関係を切断して、
外在的な神格をニンゲンに内在する絶対的本質として再接続する。
かくして神格(愛)は、やんごとなき外部から降臨するものではなくなり、
ニンゲンの存在の基底から内発的に湧き上がる自らの本質として位置づけられる。
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