ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

2012 手に結ぶ 11

2012-06-22 | Weblog
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「打ち消しあう奇跡」

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オフィスにはブラインド越しに朝の光が差し込んでいる。
デスクの前を若い女性が通り過ぎる。仕事への意欲に満ちた二十代前半。
窓際に並んだ書棚に資料を探すのか、女性は朝の光のほうへ歩いていく。
白のブラウス、淡いグレーのスーツに身をつつんだ、意思的なまなざしをもつ魅力的な女性。
さりげなく開いた胸元にシルバーのネックレス、センスの良さを感じさせる薄化粧。
ありふれた職場の情景のなかで、ボクは退屈にまかせて勝手に想像してみる。

この女性が将来のどこかで、結婚し、子を産み、育ててく毎日の姿を。それは十分ありそうな未来に思えた。
魅力的な彼女にふさわしい魅力的な旦那。愛情と分別と気配りが混じり合った幸せな家庭生活。
小さな波乱や脱線を乗り越えていく知恵。経験から学ぶことを知っている謙虚さ。
人生を彩るさまざまな思い出、陶酔、悲しみ、怒り、孤独。
一人の女性は人生のスタートラインに立って、たくさんの夢をみる権利が与えられている。

ボクは目の前の情景から、さらに妄想の翼を羽ばたかせてみる。
その女性が生むかもしれない子どもになりきって、未来の方から逆向きに回想してみる。
二十年後、三十年後あるいはもっと先の未来から、成人し、いっぱしの男子として、
独立した自分の人生を歩んでいるその子の未来から、この若い女性の姿を眺めてみる。
いまボクのまなざしに映る情景は、その子にとってどんな意味と重さをもつことになるだろうか。
その子が決して直接に見ることができない、遠い過去の母親と職場の情景。

平成○○年○○月○○日。どんな記憶の痕跡も残さないような、
なんの変哲もない、淀んだ朝の時間が流れるビジネスの谷間のようなひととき。
空調と照明が快適に整えられたオフィスビルの一室。かすかに聞こえる空調機の音、整然と並んだデスク、
パソコンを叩く社員、ガラスで仕切られた会議室、壁に貼られたポスター、来客を迎えるゆきとどいたマナー、
ときおり空気を揺らす電話のコール、誰かがコーヒーをすする音、おしゃべり、窓の外に広がる高層ビル群と青空。
それらがつくる一角に、若さと未来を輝かせながら働いている、自分の大切な人間の姿がみえる。

もしいまボクがみているように、この女性が産むかもしれない子が、
そのままの情景を自分で見ることができるとしたら。それは一つに奇跡にちがいない。
まだ自分を産んでいない、うら若い女性である母なるもの。
ボクは、その子どもに代わって静かな奇跡の情景を目撃していることになる。
なんの変哲もない、ありふれた情景。それが意味を変える。
この世界は奇跡に満ちている。ボクはぼんやりとそう思った。

――どんなエージェントにも媒介されない、そんなものを召喚する必要もない。
――そこに奇跡とよばれるものがあり、世界を満たしているという端的な事実。

一瞬一瞬、刻一刻と、世界は奇跡のなかで存在している。
世界には次々に息つく間もなく、新しい奇跡の扉が開かれている。
奇跡の無限の連鎖のなかで、ボクらは生きている。そんなふうに妄想してみる。

あるアメリカの作家は、皮肉をこめて「人生はクソの山」と書いた。
この世のすべてが奇跡だとしても、一体どんな意味があるというのか。
奇跡はクソであり、クソは奇跡であり、何と表現しようと現実は変化しない。

それぞれの奇跡は同等の権利をもって、お互いの奇跡性を生きている。
奇跡と奇跡は前提を相互に供給しあい、支えあい、せめぎあいながら、
総体としてフラットな関係性に着地点を見出していく。
つまり、ニンゲンとニンゲンのつくる関係は、相互に牽制しあい、
相互の奇跡性を打ち消しあうように維持されている。
そして時に、奇跡はクソ以上の酷い現実をアウトプットする。

「暇そうですね。○○さん」
書棚から戻った女性は、新しい企画のための資料や本を抱えている。
ボクのデスクの前を通りぎわに顔を向け、いたずらっぽく微笑んだ。
きっと間抜けな顔をしていたにちがいない。
ボクは妄想のまどろみを破られ、表情をつくれずにうろたえる。

けれども気配りにぬかりのない若い女性は、少し間を空けるように、
ボクが立ち直るための時間をさり気なく用意する。
飾らない天使のマナーが、日常の関係に小さな華やぎを創りだす。

――小さなインターミッションが入れられ、魂が動くスペースが空けられる。
――決して打ち消されることのない奇跡の人による奇跡のようなもてなし。

そして、再び振り出しにもどる。
クソであり奇跡でもある、変哲もない現実がまた動き出す。

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