孔子の論語である。
中谷巌(三菱UFJリサーチ&コンサルテイング株、理事長)の懺悔録である「資本主義はなぜ自壊したのか」の一節に引用されている。
この言葉の本来の意味は『支配者たる人間は一つのことだけに堪能であっては困る』ということであり、即ちエキスパートになる必要はないという意味である。当時の中国の階級社会におけるエリート論である。
ところが階級感覚の希薄な日本人は論語そのものを万人に共通する道徳、人生訓の書と誤解してしまった。と、中谷巌は解説している。
果たしてそうであろうか?君子という言葉を「支配者」とばかり限定せずに、「先頭に立つ賢い人」ぐらいに考えれば現代の世に十分に通用する言葉となる筈である。通用するどころか、イワン・アサノヴィッチは寧ろ重用されなければならない言葉に思えてならないのである。
わが町の市長・小池正孝氏は昨秋、無名且つ高齢且つ政治経験ならびに行政経験なしでありながら見事に”市民力”で二期現職を破り市長に当選した人物である。
『まさか受かるとは思っていなかった。』と小池さん自身が驚いていたぐらいであった。
各新聞社はそんな人物が当選した事実に驚きつつも、政治経験・行政経験の無さを暗に指摘していた。
直後の市議会でも野党は経験のない小池市長の言葉尻を突いたり、揚げ足を取らんと懸命だった。与党となった議員は連携しながらハラハラしながら(笑)、新市長を良くサポートした。
サポーター・後援会の中からも不安のあまり、経験のない新市長を憂う声が出てきた。
イワン・アサノヴィッチは『思っていたより上手く市長をやっています。政治経験や行政経験はいずれ付いて来ます、それよりもビジョンやスタンスを気丈に持ち続けて下さい。』と励ました。
”器”は市役所の中に一杯いる。君子は”器”にならなくても構わないのである。些末主義者は市長の経験不足を嘆くかわりに、市長の夢・ビジョン・愛を見落としている。
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