イワン・アサノヴィッチの一日  畑と映画の好きな卒サラ男。

政官業癒着体質の某公共事業職場を定年退職。鞍馬天狗・鉄腕アトムの人類愛に未だに影響を受けっ放し。孫には目がない。(笑い)

日本では”社会的支援”は死語になったのか

2018-08-03 15:11:43 | 社会・経済
 (フエースブック投稿2018年8月1日)
40歳になる女性が、公園のトイレで死産の挙句に死体遺棄をした。
之だけ聞けば何とお粗末な話だと思ってしまう。しかし、その女性は独身で親と喧嘩して家出。住所も定職もなく「援助交際」を続けながら、その日暮らしを続けた。一回の性交渉で得られたカネは3000円から1万円だったと言う。やがて不本意な妊娠をする、保険証の無い身では何処に行って何を相談して良いのかの見当もつかずに日を過ごしやがて出産。母体が不規則な生活をしていたのでは五体満足な子どもは産めなかった。僅か2500gの女の子だったそうだ。女性は困り果て死体をビニール袋に入れて近所の高齢者福祉施設の玄関先に処理をお願いする旨の手紙を添えて遺棄していった。
警察の捜査事案となり、ほどなくネットカフエに居た「犯人」は逮捕された。
今の日本では平凡な家庭に生活していた人間が、いったん外に出てしまうと全くと言っていいほど”社会的支援”が無くなってしまうのである。

”新自由主義”社会と言うのであろうか、競走主義だとか成果主義とか言うことが企業や官庁の中で聞かれるようになった。即ち、机を並べていながら同僚が競争相手になってしまうのである。それは仕事上の事であって個人的な付き合いを、どうこうするものではないと研修所の講師は言う。仲の良い同僚とは確かにたいして強く意識することもなくやっていける。がしかし、転勤等で初めての職場・同僚とか、あるいは個人的な信頼関係が築けない同僚たちとの競争・成果主義となると話は別ものである。言葉には出さないが少しギクシャクとしたものが課や係の中に漂ってしまうのも事実である。
一方、非正規社員も増えている昨今では以前のように係や課が一丸となって協力し合い、仕事・業務の処理にあたると言う光景は段々と消えて行った。しかし、それは一企業や役所の中だけでのことではなく、いまの日本の社会全体にひろまった現象である。労働組合がなくなり町内会が縮小されたりPTAが廃止されたり・・即ち国民の連帯する環境が希薄となってきていると言うことである。
ひとりの女性がいったん家庭や地域と切り離されたりすれば、安心して生きていける空間は存在しないのである。数か月も妊娠の不安に苛まされ出産は公園のトイレとなり『おめでとう!』の言葉を掛けてくれる人もなく、ビニール袋にしまい込んで遺棄して行かざるを得ない現実がある。これも「自己責任」と言うのであろうか。
いやいや!行政もその点を踏まえて近年は「なんでも相談窓口」等を開設しているから、社会的支援がないと言う指摘は当たらないとする意見もある。
果たして「社会的支援」とは行政以前に、家庭・近所・地域・職場の仲間や同僚が“お互い様”と言う精神で寄り添い・見守り・助け合う姿ではないのか?

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