イワン・アサノヴィッチの一日  畑と映画の好きな卒サラ男。

政官業癒着体質の某公共事業職場を定年退職。鞍馬天狗・鉄腕アトムの人類愛に未だに影響を受けっ放し。孫には目がない。(笑い)

歌謡曲は、畑の労働歌 雪椿

2017-12-01 00:52:10 | 日記
 小林幸子のヒット曲「雪椿」を聴くたびに思い出す人が居る。
元職同業の方でイワン・アサノヴィッチより少し年上の方だった。
この曲は彼の持ち歌で、カラオケでは必ずと言っていいほど飛び出す曲だった。

イワン・アサノヴィッチは小林幸子のことは好きでも嫌いでもなかったが、歌唱力の在る歌手だとは思っていた。そして彼女は越後・新潟出身であった。
雪椿の作曲家は遠藤実で戦時中の疎開先が新潟だったので、小林幸子と半ば同郷。遠藤の亡き母を忍んでの曲だと言われている。
 一番の歌詞(作詞家:星野哲朗)である。
♪ 優しさと甲斐性のなさが  裏と表に付いている ♪
♪ そんな男に惚れたのだから 私がその分頑張りますと ♪
♪ 背をかがめて 微笑みかえす ♪
♪ 花は越後の 花は越後の 雪椿 ♪
彼の名はMOさんと言い、昨年の正月に70代前半、若くして亡くなられた。
MOさんは40代前半で本庁の課長に就任すると言うスピード出世で、当時は某県庁S部の出世頭だった。
イワン・アサノヴィッチは30代に千葉市のスナックに職場の同僚とたびたび出かける事があったが、そのスナックで幾度となくMOさんとお会いしたのが縁であった。敢えて言えば飲み仲間である同僚の大学の先輩にあたる方でもあった。MOさんとはスナックで会うたびに親交も深まっていった。
MOさんの十八番「雪椿」はお世辞にも上手いとは思えなかった。
しかし、亡くなられて一年。畑でこの「雪椿」を聴くたびに、ツト胸が熱くなるのである。
 MOさんは明るく優しい性格でエリートを鼻にかけるようなことは一度もなかった。だから多くの部下に慕われてもいた。同様にN部所属のイワン・アサノヴィッチも彼を慕っていた。
MOさんには県庁社会がつくり出す「威厳」は無かった。だから多くの部下が気楽に文字通り彼と一心同体で仕事ができたのである。そしてシャイなMOさん自身も「威厳」なんか無縁なものと言わんばかりに、飲み屋では常に気楽・気さく・フランクに明るく振る舞っていた。それは彼の本性であり、それ以外の何者でもなかったのである。
不幸にも部長昇任目前で脳梗塞を患い、車いす使用の障害者となってしまい、早期退職の道を選んだ。退職後、MOさんを慕う部下たちが、御用納めの日の年一で飲み会を続けた。イワン・アサノヴィッチも末席を汚した。
 ♪ 優しさと甲斐性のなさが  裏と表に付いている ♪
きっとMOさんは生前から、この誌のとおりだと自分自身を規定していたのではなかろうか。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿