理解が不十分だった僕は、サーンキヤ哲学についてもう少し学んでみることにした。
その結果、「精神」vs「物質」などという単純な構造ではないことがわかった。
参考にしたのは「インドの「二元論哲学」を読む」 宮元啓一 著。
プラクリティを理解するためには、サーンキヤ哲学に登場する他の概念も理解しなければならない。
まず、「知る者」がある。
これは「自己」であり「プルシャ」であり、認識する本体であり、認識対象にはならない世界外存在だ。
我々一人一人は、それぞれこれを本体として持ち、分けられるものではない。
観察者なのだが、感覚器官を通じて見たり聞いたりする観察者というのではない。
次に「未顕現のもの」がある。
これが「プラクリティ」であり、そこから世界が流出し、またそこへと環滅していくところの非精神原理である「原質」。
「主要なもの」とも呼ばれる。
それから、「顕現したもの」が23種類ある。
これらは全てプラクリティから流出、分化して現れ出た世界の諸原理のことだ。
「プラクリティ」から「心」が生まれ、そこから「<私>意識」が生まれ、「<私>意識」から音、触、色、味、香の5つの「端的なもの」、それらを知覚する11の器官。そして「端的なもの」から5元素が生じる。
プラクリティはこれから現象界に顕現する全てのものの源と言えるのであって、生み出すものは物質だけではなく「考え」などの精神的分野も含むのである。
輪廻転生するものの源と言っても良いだろう。
「自己」は世界を見ることにより輪廻転生の苦しみを得るが、よく考え、未顕現のものと顕現したものと知る者とをはっきり区別して知ることで世界の本質を見極める。
見極め終えた「自己」は、世界への関心を失い、自己自身のうちに沈潜する。
この状態を解脱という。
見極められた世界は、これでおのれの役割は終わるので、流出と逆の順序で環滅し、ついには世界は原質のみになる。
輪廻転生するのは原質であって自己ではない。
(その意味では解脱するのは本当は「原質」であるというややこしい話になり、それを補うためか「微細な身体」という解脱する本体を表す概念も出てきて複雑なのだが、説明が長くなるので割愛する。)
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